感謝の気持ちを届ける全国行脚(南三陸町長)

1月23日の河北春秋は、こんな言葉から始まった。「かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め」と。東日本大震災で壊滅的被害を受けた南三陸町の復旧復興の指揮を執る南三陸町佐藤仁町長は、支えてくれた全国の自治体や企業などに感謝状を贈るお礼行脚を続けているといいます。北海道から沖縄まで223箇所に及ぶとあります。全て、自分の足で出向き直接手渡たしています。残る訪問先は9箇所のみ。忘れ得ぬ恩を石に刻み、人の縁のありがたさをかみしめる道程と結ばれています。

多くの役場職員が亡くなった防災対策庁舎
テニスコート建てられた南三陸町役場
プレハブの借り庁舎保健福祉課でシュラフで寝る
第一線の幹部(現場の指揮官)
(保健福祉課長=現副町長・副町長・補佐)左から

2019(令和元)年8月に学生を引率して南三陸町に伺い、町長から特別講話を頂いた際、全国から集まっている都心の学生だったので出身地は全国に散らばっていました。そのような中で、何処の出身地であっても、そこにはこの様な人がいてこんな支援を頂いたと、即答していたことを思い出しました。以前から、全国にチャンネルがあり多くの人財と関わりを持っている方ではありましたが、一方でこの様な取り組みを行い、その結果がこのような即答を可能にさせていたのではないかと思いました。

佐藤町長は、自らも防災対策庁舎で津波を被り、肋骨を折り生死をさまよいながら生還しています。多くの部下を防災対策庁舎で失っているので、自らは多くを語りませんが、津波で頑丈な外階段に打ち付けられそこで止められ流されなかったことが九死に一生を得た状況のようでした。戻ってからは、毎日記者会見を開き現状を全国に伝え、町民を励まし続けました。こうしたことが実を結び、被災地南三陸町が全国に知られる様になり、支援の手が全国から寄せられたのです。

当時、テニスコートに立てられたプレハブの借り庁舎の2階で夜遅くまで一人執務していたことを思い出します。町民は疲弊し議会は混乱する中で、責任の重圧に押しつぶされる様な中、夜遅くまで町長室に籠もっていました。忙しく、書類を見ているという感じではなく、深く熟考しているといった様子だったと記憶しています。何か用事をつくって町長室に出向くと「まあ座れや、ありがとうね」と言いながら、どこか遠くを見ている様な感じで様々な判断をしていました。

次の朝になると、記者会見の前の庁内会議が有り、昨夜考えたであろう方針を部下に示し、記者会見に臨み、その後様々な課題に向き合い分刻みの日程をこなしていました。そんな中にあっても、お世話になった方は一人残らず感謝の意を伝えることを忘れない。町を預かる人財とは、この様な振る舞いをいうのかと、棟違いのプレハブ庁舎の一角保健福祉課で寝袋にくるまって、私もこうありたいと思ったものです。

私の机(南三陸町保健福祉課被災者支援班)

南三陸町では、223箇所に感謝状を贈ったとあります。実は、その一枚が我が家にあります。河北春秋にもあった様に、震災から10年目を前にした2020(令和2)年3月に南三陸町長が自ら足を運んで東北学院大学まで来て下さり、学長以下東北学院大学の首脳陣立ち会いの下に感謝状を読み上げて頂き直接渡して頂きました。聞けば、多くは団体にお渡しし、個人には四件ほどしかないとのことでした。その中に私がいるとは恐縮してしまいます。感謝状の文面も町長自ら考えたとのことで、そのためか文面が長くなり、感謝状はとても大きなものでした。ただただ恐れ多く恐縮しています。

感謝状は大きくて掛ける場所がないので、東北学院大学の地域連携課の皆さまと家族に一度見せたっきりで箱に入ったままで、東日本大震災から11年になります。今年は、慰霊祭という式典は行わないと聞いています。自由献花はあるそうなので、3月11日には南三陸町に行こうと思っています。そして、献花だけではなく、被災者支援を献身的に行った、南三陸町社会福祉協議会生活支援員(LSA)のみなさんに会ってこようと思っています。彼女たちは南三陸町の宝です。

町長自ら考えた言葉の感謝状
「感謝」が透かし彫りされた楯
学長・理事長立ち会いの下に感謝状授与
東北学院大学学長・佐藤町長・本間・理事長(左から)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

感謝の気持ちを届ける全国行脚(南三陸町長)” に対して4件のコメントがあります。

  1. 本間先生に感謝一杯 より:

    本間先生の沢山の功績は、町民一人ひとりの記憶に色濃く残り、今もなお、感謝とその力添えに応えてしっかりと生きるんだという力を町民一人ひとりに持たせてくれていると思います。
    佐藤町長はその大きな感謝状に、そんな全町民からのありがとうもぎっしりと詰め込んで届けて頂いたものと思っています。その様な訳で、大きくて重いはずです。
    朝も昼も夜もなく被災地のために奔走されていた姿は尊いものでした。
    この場をお借りして感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
    本間先生、町の一人ひとりの為にありがとうございました。
    どうか、御身大切にされて、ご自分のためのお時間を躊躇いなく過ごせますように、心からお祈りしております。

    この防災庁舎の周りでは、役場職員として使命感の塊だったような人達が逝ってしまいました。親戚、趣味を一緒に楽しんだ友人、PTA役員の仲間、子供達の良き先輩お姉さん達、そして大勢の町民達が犠牲になりました。未だ行方不明の方もあり、あれからいちども足を運べていない場所です。
    何年経ってもこの写真を目にする度に、なんとも言えぬ胸苦しさを覚えます。でも、決して目をそらしてはいけない、私達にとってはそんな写真なのです。

  2. いくこ より:

    新聞、私も読みました。
    佐藤町長のなさったことは、感謝状を贈られた当事者のみならず、10年前様々な活動やささやかでもあたたかな行いをした人々への、励ましと思いやりになると思いました。
    お礼の言葉を伝える機会が得られなかった色々なことも、どこかで誰かが誰かを思っている、そう考えて幸せな気持ちになります。
    本間先生、ありがとうございます。

  3. ハチドリ より:

    この大きな感謝状は、佐藤町長の直々のメッセージだったのですね。
    本間先生が、南三陸町社会福祉協議会生活支援員の活動を一から作り上げて来たことやそれが県内のLSAの活動にも広がり、さらに今後どこでどんな大きな災害が起きるかわからない日本で、いろいろなところ、団体から先生のお話を聴きたいと言う声がたくさんあったかと思います。今も!

    話は変わりますが、私が今仕事、生活をしている町はまだまだ9割の方々が町外で暮らしておられ、遠くは北海道、沖縄の方にもいらっしゃいます。お電話で話をしていたり、アンケートに記載されたのを読むと「町の様子が知りたい」と言う町民の想いを知ることがあります。

    サンマの番組でビデオレターと言うのがありましたよね。今はパソコンを使い、ウェブでいろいろやり取りできますが、11年前のあの頃、私がとても印象に残っていることを書きます。
    本間先生は、南三陸町にいた時に町長のメッセージ等を撮影したビデオレターを作成して県内外の避難なさっている方たちのもとに届けて、そこで町民の方々の様々な声を聴いて町に持ち帰ってらっしゃいましたよね。あの頃は、理不尽なことや聞くだけに終わってしまうことの方が多かったかも知れません。でも、それでもどこにぶつけたらいいかわからない声を聴いてもらった町民の皆さんは有り難かったのではないかと思います。当時、そのビデオレター作成の発想と実際に行動に移す様子を知り、とても素晴らしいと感じておりました。
    今回の投稿を読み、真っ先に頭に思い出したことでした。あの頃の映像、まだ残っているのでしょうかね。大変お疲れ様でした!

  4. スマイル より:

    職員の多くが亡くなってしまったという十字架は、町長にとってどれほどの重さなのか想像もつきません。その重い十字架を背負いつつも、佐藤町長は「生かされた」ことを「使命がある」ととらえて、残りの人生の全てをかけて町民のため、町のために尽くす覚悟なのだろうと、その姿勢と行動に胸を打たれます。

    震災から10年目に自ら本間先生に感謝状を届けてくださったとのこと。個人への感謝状は223枚のうち4枚ほどであるということ。そのすべてが、本間先生がどれほど南三陸町のために尽くしているかを示していますね。私もいろいろな場面で本間先生にはお世話になっていますが、南三陸に尽くしている時のことはお話で聞いたことがあるだけです。その姿を想像するだけで近寄りがたいような気持になります。佐藤町長のように、すべてをかけて尽くされている様子が目に浮かぶからです。

    「類は友を呼ぶ」と言いますが、本間先生が南三陸町に赴くことになり、佐藤町長のお側で尽力することになったのも、やはり深いご縁なのだろうと思います。

    お二人の生きざまを心に刻みたいと思います。貴重なお話をありがとうございました。

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