かじってみよう“社会学”10講目 相互作用論の世界「構造的役割等」
前回は、社会学理論の核心には入り、相互作用論において最も重要な概念「地位と役割」について解説致しました。私たちの住む社会は、「地位と役割」の相補性の下に秩序ある社会生活は成り立っているという趣旨のご説明を致しました。今回は、その「役割」をもう少し深掘りし、役割を分類して更に理解を深めていきたいと考えます。ここでは、二つの代表的な分類をご紹介します。「構造的役割と対人的役割」及び「恒常的役割と一時的役割」の二つです。
始めに「構造的役割と対人的役割」についてです。構造的役割とは、その地位にあるひとへの役割期待が社会全体においておおよそ共有されてる場合の役割をいいます。職業や職場に於ける地位・役割、家族に於ける地位・役割等はおおよそイメージできる代表的な例です。この他、大人と子ども、先輩と後輩、医者と患者等々もおおよそイメージできる地域と役割です。
一方の対人的役割とは、社会的な相互作用の中で、行為者が意図的あるいは自然発生的につくり上げていく役割関係です。いじめっ子といじめられっ子、友達仲間のリーダー格とその他大勢、お茶っこ会でのお茶入れとお茶配り、調理担当と配膳担当等々です。
次は「恒常的役割と一時的役割」です。恒常的役割とは、職業のように常時その地位・役割にあるものを指します。また、一般的役割は、電車の乗客のように一時的にその地位につくものをいいます。駅員は、駅にいつ時はもちろんですが、持ち場を離れても駅員です。しかし、乗客は乗車しているときだけ乗客です。医者と患者も同じです。この様に、非対称な関係になるのが一時的役割です。
このように、ここでは地位と役割を二つの側面から見ています。役割期待が社会全体でおおよそ共有され場合の役割(構造的役割)。医者は、しっかりとした見立てで病気を治してくれる。公務員は、公平平等で市民の安心安全を守ってくれる。教員は、子ども達の個性を活かし健全な発達を導いてくれる。民生委員児童員は、市民の身近な存在として寄り添い必要な社会資源につないでくれる等々、その方その職業に期待する内容がおおよそ共有されています。この構造的役割には、ある種の安定感と安心感がありますね。
一方の対人的役割は、社会的相互作用の中で形成される役割関係なので、多分に流動的です。小さな出会いが互いに恋愛感情を持ち、紆余曲折を経ながら愛を育んでいく。更には、結婚という形で夫婦となる。そうなると、対人的役割が構造的役割へと移行していく。このような役割関係もありますね。また、結婚という形を取らなくとも、二人の中では固い絆で結ばれ、社会的(法律的)には認められなくとも二人の間では普遍の関係性を持っている。このようなケースもある様な気がします。
地位-役割の構造は、他者との関わりの密度や長い人生の中で大きく変化していく、そんな感じもします。それそれの人生(生涯)を地位-役割の視点で改めて振る帰ってみると、今現在の姿の必然性や後悔等々、様々な想いが去来するするのではないでしょうか。役割理論を自分に置き換えてみると、これまで考えてきた役割理論とはひと味違った見え方がするのではないでしょうか。
2周目の10講目
相互作用論のつづき
『構造的役割等』
① 構造的役割と対人的役割
構造的:その地位にある人への役割期待が共有されている場合の役割。
職業(医者・教員・運転手・調理師)、家族(父・母・こども)など。
安定感と安心感がある。
対人的:行為者が作り上げる役割。
いじめっ子といじめられっ子、リーダーとその他大勢など。
流動的。
② 恒常的役割と一時的役割
恒常的:職業のように常時その役割にあるもの
一時的:電車の乗客や患者など
地位と役割の構造は長い人生の中で大きく変化していく。
自分の人生を振り返ってみても、かなり大きく変化しています。後悔だけが去来するかと思いきや、失敗を糧にちゃんと成長も見られたのでよしとします。
今後も『何かできることはないか』とキョロキョロしながら生きていこう。自分には関係ないとかいわないで役割を増やしていこう。
みなさまおはようございます。かじってみよう“社会学”10講目 相互作用論の世界「構造的役割等」” をお読み頂き有り難うございました。また、15件ものコメントとても有り難く思っています。皆さまのコメントが次第に長くなり、ミニッツペーパーから小論文化している感があり、とても頼もしく感じています。
スマイルさん。「職業に期待する内容がおおよそ共有されている」ということについて、教員との関わりの中で考察して頂きました。教員への歪んだ自己中的な役割期待が先生方を苦しめ、学校を最大のブラック企業等といわれるまでに追い込んでいる。これでは良い人財は集まるわけはありません。児童生徒を真ん中において学校(教員)と家庭(親)がすこやかな子どもを育む場としての教育環境の有り方をよくよく考える必要があるようです。
そんな中で、スマイルさんがお住まいの地域で、地元の小学校の子ども達が、ぶっつけどころのない感情をあらわにし、いわゆる「荒れていた」時、それを知ったスマイルさんたちが、学校に集まり、子ども達に対して「私たちはあなた達のみかただよ、いつもそばにいるよ!」と寄り添い、子ども達のもやもやした感情、怒りを吐き出させ一身に受け止めていましたね。
私は、このことを二つの視点でみていました。
其の一は、子ども達のもやもや感、ぶつけどころのない怒りを吐き出させ、それを全身で受け止めていた。「くそババ~!、くるな!」と言われても、次に日も、その次の日も校門前に立っていましたね。この行為は、キュープラロスの嘆きの五段階説でいう、心の苦しみ悲嘆からの回復過程を踏ませていると行為だと考えます。心に大きな苦しみを持ちもがいているときに、そこからの回復過程では、「怒りの爆発」は必要なプロセツと説明されています。彼らの心にあるわけの分からない苦しみを「くそババ~!」と大声で吐き出させ、彼らの本来の姿に戻る回復過程を支えたのです。周りの理解ない人からの嘲笑や非難にも耐えながらです。後々に、代わってきた校長先生から、感謝の言葉があったと聞きます。わかる人は必ずいます。
其の二は、困難な状況を目にして、それに対して単に批判したり第三者的に解説したりするのではなく、地域の一員として子どもを持つ親として、心ある大人が一緒になって具体的に、今できることを行ったと言うことです。色々と知った様に語り人は数々います。しかし、具体的に行為する人は極めて少ない。地域の人々が一緒になって行動することは、なおさら希有です。「地域力」という言葉を改めて思い浮かべました。
当時は、やむにやまれず「気づいたら学校に向かっていた」という状況だったかも知れません。しかし、私はそのようには理解していません。スマイルさん達の活動や生活の中での問題関心をとおして、楽しいことや課題を共有し、自分の住む地域の安心安全に関心を持ち、未来への希望を託する子ども達への揺るぎのない、そして損得のない真摯な向き合い方が、心一つにして学校に足を運ばせたのだと思います。みなさんの振る舞いは、第2次社会化過程としてもとても大切な振る舞いだと思います。
ここまで書くだけで力が入りすぎ、後に続くコメントが簡単にならないか心配です。チョット、自宅スタバして改めてパソコンに向かいます。
「今与えられた役割を(それがたとえばただの掃除だったとしても)「聖職」にできる。単なる「給料をもらえる場」ではなくクリエイティブなものに。周りの期待をはるかに超えたものに、そういう世の中になって欲しい」。仕事・役割とはこうであり、それを是とする社会づくりがもとめられていますね。同感です。優しさ、謙虚、社会貢献。この様な言葉に「しらける」社会であてはいけない。スマイルさんのコメントを読み改めて考えていました。
阿部さん。構造的役割と対人的役割の中にあるギャップに目を付けたところはさすがに鋭いところを突いていますね。特に「先生」と呼ばれる人達に対する対人的役割が、時として本来の姿を歪めてしまう場合が多々あります。政治家、医師、教員等々。時々公務員にもありますね。自分の立場を誤解している人・職種を見かけます。政治家、医師、教員等々。時々公務員には、特に「謙虚」という言葉を意識して振る舞う必要がありそうです。私は、教師及び公務員という前歴があるので、ことさらに意識して振る舞いたいと思いました。
鈴虫さん。構造的役割に関する説明をレストランを事例に取り上げ、とてもわかりやすく説明して頂きました。その中で。構造的役割と対人的役割の関連が取り上げられ、私たちの振る舞いの大切さが指摘されています。そのとおりだと思います。構造的役割と対人的役割の双方向性の存在が新たな役割増をつくりだす、そんな印象を持ちました。
また、中島みゆきの『糸』から、どの様な布に織り上げていくのかは、日々の暮らしに学びを活かしていくことに通じる!学びは、人を謙虚にそして豊にする行為なのだということを学ばせて頂きました。
それから、このhpを呼んでいる方々から多くの共感のコメントが寄せられていました。とても嬉しかったのではないかと想像しています。
いくこさん。他者のコメントを読んで、更に自分の学びを深めていく。いくこさんの謙虚さを象徴するような言葉です。また役割は単独ではなく複数重なって作用していることが多い野では?おっしゃるとおりです。そのことがあるからこそ「そのひとらしさ」というものが生まれるのだと思います。
役割期待に対して「つもり!」で済ませているのかも知れないという自責。これは、常に高みを目指している姿のように私には見えます。あ、私は、霊能者ではありませんよ!(笑)
いつも周りのみなさんへのコメント有り難うございます。みなさん、共感して頂いた、同じ感性だ等々といくこさんのコメントに勇気づけられていると思います。有り難うございます。
ハチドリさん。地位・役割は、人生史の中で姿を変えながら、自分に様な影響をもたらし今の自分を形作っている。おっしゃるとおりです。こうした物事に対する向き合い方で一つ思い出したことがあります。それは「過去は変えられる」ということです。
一般的には、すんでしまった過去は変えられないと思われています。しかし、日々の学びによる自分自身の成長によって、自分の黒歴史と思っていたことが、過去に対する再評価をすることが出来る様になり、「今ある自分になる為の必要なプロセス」と受け入れることが出来る様になるといいます。このことによって、消したいと思っていた過去に、新たな意味づけをすることが出来るのだと!自分の人生をこの様に考える事が出来たら、きっと自己肯定感も高まるのではないかと思います。
一期一会のような出会いで形成される対人的役割の場面の例、私もそうした場面にいたことがあります。帰り際に、満面の笑みで「ご馳走様でした」と爽やかに言葉を残してお店を出る。先日もあったばかりです。このような様子を見ると、その人の滲み出る人柄がわかります。一緒にいてとても幸せな感じにしてくれます。
悟りより「整った~」がもっぱらの関心、興味関心の幅が広いですね。整った~とはどの様な感じなの体験しましたら教えてください。私の現在の旬は「五本指ソックス」の効果把握です(笑)。
皆さま、今回も有り難うございました。また、コメントを控えた方も読んで頂き有り難うございました。このhpが何に役立ちどの様な意味があるのか無いのかわかりませんが、私自身は、これを書くのに多くの時間を費やし様々な事柄に関心を寄せています。何年後かに振り帰ったとき、「そういえばあれがあったからかも知れない!」そう思えることを信じて、続けていきたいと思っています。みなさまも、興味本位、冷やかし半分で構いません。流れる時の一瞬を「刻」み、共有できたら幸いです。
昨夜からUBA Contest(ベルギーーが主催するDX) が行われています。これが終わったらのぞいてみようと思っています。
本間先生、今回はコメントに参加できずとても残念です。
でも、皆さんのコメントややりとり、先生のおはようございますから始まり、途中で書斎がスタバと化し、書き終えたのはお昼を回っていた講評を読ませていただき、とてもとても勉強になりました。皆さん、先生、本当にありがとうございます。
大阪で起きた診療内科の火災殺人事件の記憶が少し薄らいできたところに、つい先日の埼玉県で起きた猟銃殺人事件、どうしてあんなことが起きてしまったのかとショックで堪らないです。きっとこれまでの生活歴等の分析がなされるのだと思いますが、軽々しく言ってはいけないかもしれないけど、やはり地域、人との繋がりがとても重要なkeywordのように思います。
私はこれまで,日々,どんな地位-役割を演じて生きてきたのだろうとちょっと振り返ってみてみました。地位と言う言葉はどうもしっくりこないのですが,役割とか演じているという風に捉えると面白い気がします。
祖父母の所によく泊りに行っていた幼少期,朝一番のバスで学校に通っていた頃,仕事に忙殺されていた子育て期,客としての自分,大切な人や趣味の仲間といるときの自分等々,どれか一つの地位をとっても,その置かれた状態でそこにはいくつかの役割があった(ある)のですね。
そしてその役割を演ずるときは,必ず相手や出会いがありました。様々な行為は自分のためというより,相手がいるから行為をし,それが双方向性になるのを無意識に期待しているような気もします。そういうことも役割期待と言うのでしょうか?
何も感じないで漫然と過ごした時間や苦しい,悲しい時間もあったかもしれませんが,仕事でもプライベートでも好奇心と喜びの時間も多かったように思います。思い出すと,涙がでそうな後悔もあるけど,でもそれは形を変えて何かの役に立つよう,無駄にはしたくないなと思います。
一期一会のような出会いで形成される対人的役割もあるかもしれませんね。鈴虫さんも書かれていましたが,私は最近は特に買い物をしたあとにレジの人にしっかりと「ありがとう」と言うようにしています。すると向こうも大きな声で「ありがとうございました」と言ってくれ,嬉しくなります。今日はランチでとても美味しいナンとカレーを食べたのですが,お店を出るときにしっかりとその気持ちを伝えました。自分がしてほしいようにやってみるだけなんですけどね。
千日回峰行・・,ちょっと調べてみました。
『千日(実際には975日)歩く。それは,「悟りを得るためではなく,悟りに近づくためにやらせてもらっている」ことを理解するための行である』
悟りか~・・。私はもっぱら「整った~」を体験してみたいと思っています。
ハチドリさま
「自分がしてほしいようにしているだけ」
それがとてもシンプルでスマートな行為ですね。
私も意識して、または無意識にもそのように思いながら目の前の相手と向き合っていると思います。
ユマニチュードケアの実践のようですね。
鈴虫さん,おはようございます。
早起きですね。
ユマニチュード,フランスで実践されている認知症ケアで「あなたを大切に思っています」という気持ちを伝える技術ですよね。
そっか,鈴虫さん!考えてみなかったけど,そうだ,そういう気持ちが根底にあるのかもしれません。これは,家でも職場でもプライベートでもどこでも基本的に行われる行為だと世の中温かくなりますね。今,鈴虫さんのおかげですごくいい気分になっていますよ!嬉しい,ありがとうございます。
全然関係ない話なのですが,昨日,先週に引き続きウオーキングシューズが欲しくていろんな店を回っていたのですが,とにかく気に入ったやつがフランス製の物でした。・・と,フランスが続き,ちょっと驚いています(^_-)-☆笑
おはようございます。
おフランス製ならばきっと素敵な靴なのでしょう✨
フランスのモノづくりは品質重視で良いものをじっくりとの印象があります。
ハイブランドの品物が時代を超えて世界中から愛されていることにも納得がいきます。
本当に良いものは皆が認めて受け入れることが出来るのですね。
私達の地域社会も本物の福祉が行き届いたものにしていきたいですね!いや、私達が手を取り合ってしていきましょう!
『私達の地域社会も本物の福祉が行き届いたものにしていきたいですね!いや、私達が手を取り合ってしていきましょう!』なんて温かく力強い言葉でしょう。ほんとにそうしていきたいですよね。
鈴虫さん、中島みゆきさんの「糸」を思わず歌ってしまいました。私は世の中のセーフティネットを考えるときに強さと柔らかさと、そしてキメの細かい織物のようであったらいいなと思っています。
先生の講義をみなさんのコメントで更に深めていく気持ちで読みました。
先生が提示された4つの役割、単独で作用しているときより二つ以上で作用しているときの方が多いのではないでしょうか?
更に相手を思いやるつもりで役割期待に応えているつもり、役割の迷宮にふみこんで迷子になりそうです。
世の中の殆どの人は、それぞれの構造的役割を担いながら、同時に沢山の人の多種多様な役割に支えられて生活しています。
私は毎日、自分自身の役割を果たすなかで、やり甲斐や満足を感じることばかりではなく、時として理不尽や葛藤等の負の感情を抱くことも少なくありません。これは私だけに限ったことではなく、誰もがもれなく経験していることかと思います。でもそれは、誰かの役割上の辛さや苦労に対してもっと理解するように努めることの必要性を学ぶ機会に立っていると考える事もが出来るはずなのです。
例えば行列の出来る話題のレストランに行って長い時間待った挙句、ウェイトレスのミスで違うお料理が運ばれて来たら、みなさんはどの様な反応をするでしょうか。何も言わずに運ばれてきたお料理を食べ、「美味しかったわ、ご馳走さま」と言える人は少ないのではないでしょうか。
私達は、常に相手に自分がイメージした構造的役割を下にして完璧を求めているように思います。正確で気持ち良く、ニッコリ笑って役割を全うして欲しいと(無意識かもしれないけれど)考えているのではないでしょうか。
しかし、相手にそれを求めるには、先ず自分からそれに値する姿勢でいなければならないのですよね。「ありがとう」「ご苦労さま」とちゃんと伝えられているかな?。我が身を振り返って反省しなくてはなりません。そんな「人の振り見て我が身を正せ」。そんな自分を振り返る機会と考えようになりたいです。
この講義を読んで、中島みゆきの『糸』が浮かんで来ました。私という糸に、縦に横に様々な関わりの糸が紡がれ、しっかりと目の詰んだ布が出来ていく。手触りの優しい素敵な布になるか、ごわごわとささくれ立った布になるかは、私がどの様に役割を果たそうと努めるか、何を学び、それを日々の暮らしにどう活かしていけるかによるのだと思います。よく学び、こころ豊かな暮らしに繋げていきたいです。
鈴虫さんのコメントに、毎回心を柔らかくほぐしていただいているような気がします。きっと、鈴虫さんが織られる布は誰もを優しく温かく包むことができるものになるでしょう。「北風と太陽」の「太陽」であれたらいいですね。どんよりとした空のもとビュービューと北風が吹いている時でも、その上には変わらず太陽があるとふと思い出せるような、そんな姿勢でありたいなあ、と思いました。「こうだったらいいな」と思うこと(暮らし・生き方・態度)を自ら実践していって、それこそがやっぱり幸せにつながると実証できるようだといいですね。まずは自分から。今日も柔らかい心であれますように・・・
スマイルさま
私は今回、自分のこころがいつも平らでありたいという願いを込めてコメントを入れました。
私にとってスマイルさんの言葉は、いつも励ましの言葉と感じています。
ありがとうございます😭
鈴虫さん
どんな布を紡ぐのか、そしてどのように仕立てるのか、そのように考えると迷子からぬけだせるように思いました。
縫い目にわずかな遊びができる手縫いの着物のように、着心地よく仕立てるのが知恵ですね。すごした時間分の知恵があるはずと、信じて工夫して暮らしたいと思いました。
いくこさま
いつも一言かけてくださって嬉しいですありがとうございます😭
いせこみや糸のしごき具合でからだにピッタリの着物になるのですよね。
そのような見えないところで相手のために気配りが出来る私でありたいと思いました。
こちらこそですよ。
方言の話題とか「いせこみ」「いとのしごき具合」...
いつかお目にかかったら盛り上がれそうです!
いくこさんありがとうございます。
これからもよろしくおつきあい下さいませ。
鈴虫さん、やりとりを継続させてくださいね。
「人の振り見て我が身を正せ」と言う言葉、私が看護学校の時の尊敬する先輩がよく言ってくださっていました。
傍で見ていてそれは違うでしょうと言う言動や、自分や身内がされて嫌なことは自分も気をつける、しない。逆もあり、素敵な行為だなと思ったら真似をしちゃう。鈴虫さんがお隣だったら、蔓のバック作りとかいろんなこと教わりながらしょっちゅう盗み見しちゃいそうです。
そうだ!とても素敵なおフランス製のシューズは、私のお財布の中身では買えないお値段でした・・が、落ちでした。チャンチャン😂
ハチドリさんの考えるセイフティネットに私も賛成です。
しなやかで強く、風通しは良いけれど、そこからこぼれ落ちる人はいないというのが目指すところですね!
おフランス製のシューズは今回はご縁が無かったと、、
でも、ご縁があるならいつかすんなりと手に入るのかもしれませんから✨泣かないでくださいね。
私はハチドリさんからユーモアのセンスを拝借したいと狙っていますので、コメントの中にこれからも散りばめていただきますようにお願いしておきます(笑)
本間先生
10講目ありがとうございます。
構造的役割は確かに安定感・安心感があります。このおかげで安心して社会生活を送れています。この役割の方々、いつもありがとうございます。
難しいのは対人的役割ですね。流動的ですし、入れ替わることもあります。いじめっ子がもっとひどいいじめを受けたり。
自分の地位と役割は何となく意識していましたが、それは構造的役割でした。医者も飛行機内で急病人が出れば役割を果たします。『この中にお医者様はいらっしゃいませんか?』というあれです。今は休暇中だから知らんという医者は少ないはず。
医者を悪く言うつもりはありませんが、社会的相互作用の中で作り上げていく関係性でも自分は医者だ!という偉そうな態度の方をよく目にします。今は職業はいいから、早くお茶を入れてくれと言いたくなります。日本人男性はやはり、職業に依存しているのだなあと感じました。
自分の人生を地位と役割の視点で見てみます。きっと後悔だけが去来することでしょう。
「職業に期待する内容がおおよそ共有されている」ということについて、最近ずっと考えていたことを。子どもたち思いで、情熱もある先生がいつの間にか疲れ果て、「そんなことおっしゃるなんて」とびっくりする発言をするようになり変わってしまった姿にショックを受ける、ということが続いたことがありました。その衝撃はいまだに続いていて、いろいろな意味で危機感を感じています。
講義では『教員は、子ども達の個性を活かし健全な発達を導いてくれる』というのが先生への共通する期待だとありますし、その通りだと思います。問題は、その「期待」が歪んでいることもある、ということ。例えば明らかな子どもの問題行動(本当は問題ではなく親へのSOSだったりする)を、親が「個性だから」と先生や周りにも認めることを要求するなど。最近は、そういう歪んだ期待が先生方を苦しめ、いまや学校は最大のブラック企業などと言われています。しかも、本当は家庭に問題があっても、何かことが起こればマスコミにたたかれるのは学校だったりします。これでは、先生になりたい人は減るばかりで(実際に人材不足が問題になっています)ますます学校現場は大変なことになっていくでしょう。
前回の講義で私は『他者の期待や、周りの目を気にしすぎて精神的に不安定になっている人がとても多いことが気になっています』と書きました。その真意はこういうところにあります。真面目である人ほど、理想を高く持っていた人ほど、歪んだ期待で疲れ果ててしまう現状が多々あるように思います。
10代のころに出会い、ずっと心にある言葉があります。下村湖人という方が『自立と提携』というタイトルで書かれた『自分の足で立ち、自分の足で歩む者のみが楽しく隣人と手を携えることができる』という言葉です。これは「期待する方」と「期待される方」の関係でも同じだと思うのです。「期待する方」が成熟してるかどうか、ということがとても大事で、それぞれの職業が「聖職」となるために、欠かせない要素なのではないでしょうか?娘が幼稚園に入学した時、私たちからしたら娘のような新任の方が担任となりました。親たちは自分の子どもよりも先生の成長から目が離せない、という感じで、全力で応援しました。今振り返ってみれば、そういうことがとても大切だと思うのです。
そういうことを考えていくと、やはり前回も書いたように「どのような大人になるのか」という「教育こそが大切」と思うのです。心や意志が成熟さえしていれば、今与えられた役割を(それがたとえばただの掃除だったとしても)「聖職」にできる。単なる「給料をもらえる場」ではなくクリエイティブなものにできる。周りがどう期待しているか、ということをはるかに超えたものになっていく。これからはそういう世の中になって欲しいと願うのです。
さて、先生は公務員への期待を「公平平等で市民の安心安全を守ってくれる」と書かれていました。毎回強く感じることは、先生は本気で何の疑いもなくそう信じ、そうありたいと願いながら公務員生活を全うなさったということ。いろいろな葛藤や矛盾や理不尽に苦しんだり、時に憤りを感じたりしながらも、その時その時多いに創造性を発揮して。なぜ、そうできたのか・・・この「かじってみよう社会学」が最終講義までいった先にみなさんが知りたいことは、まさにそこ、なのではないかと感じます。