ふるさとの山
「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
この歌は、1910(明治43)年12月に刊行された石川啄木の第一歌集『一握の砂』の第二部「煙 二」の最後に収められています。「この歌は、故郷に帰ってきて、しみじみと故郷の良さを実感しているという設定の歌で、屈折した感情、複雑な思いをいだきつつも、ふるさとの山には懐かしさとありがたさを禁じ得ない、しみじみとした人間の情を詠っています。」と、解説されています。また、「自分も含めて、人の心や営みはどんどん変わっていく。しかし、ふるさとの自然は悠然と変わらず、自らを拒むことはない。」そういった思いもこの歌には込められ、『ふるさとの山』は、いつもそこにあり、見守ってくれる存在・自らを育ててくれた存在として作者の心の中にあります。」ともありました。
18歳まで生活していた実家は、父・母が亡くなってから長い間主のいない家でした。人が住まなくなると傷みが進み朽ちていきます。近隣からも苦情が寄せられるようになり、解体撤去され更地となりました。人がいなくなり建物もなくなり、生活していた面影がなくなりました。こうした場所を「ふるさと」と呼べるのだろうかと考えてしまいました。
一級河川「鳴瀬川」の向こうに長い間望み親しんでんできた「薬萊山」(奥羽山脈中部わずか553mの標高だが加美富士とも呼ばれ親しまれている円錐形の山)を「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」と望めるのだろうか。子どもの頃のことを思い出しながら、吹きさらしの土手に立ちしばし考え込んでしまいました。
私は、実家で18歳まで過ごし、仕事で北上町白浜に下宿する機に家を出ました。その後は、ほぼ仙台市内のアパートを移り住み、旧泉市の現在地に居を構え今日に至っています。なので、実家を離れ50年以上経ちます。「居住地に対する愛着は、居住期間とともに強まるが、同時にその愛着はその人を取り巻く物質的環境との関係よりも、他の人々との個人的な相互関係の方に関わっている(Hampton,1970,p115)」と、いいます。また、「『住まいの場所』は全く人間存在の基礎であり、すべての人間活動の背景となるだけではなく、個々人の集団に対しての存在保証とアイデンティティ(自分が自分であること)を与える(Relph,1976)。」ともいわれます。
こうしたことを考えてみると、私の「ふるさと」は、親が住んでいる、生家がある状況下では、かろうじて「あった」のだと思います。しかし、親がいなくなり、思い出の詰まった家屋もなくなった今、ふるさとは、今居を構えるこの場所に移ったように思えます。少なくとも、二人の子どものふるさとは、今住むこの場所に違いないと思います。
私は、子どもが生まれたとき、この子たちに「ふるさと」と呼べる場所をつくってあげたいと思ったものです。心の居場所としてのふるさとはとても大切だと思っています。今住む場所が、「ふるさと」として長く彼らの心に残っていくためには、出来るだけ長生きし、世代交代してこの地、この家を住み継いでもらいたい。この家は、50年間は手付かずで保つ(もつ)と大工さんに言われています。構造材から仕上げ材まで無垢の木材を使ったのは、そのような想いもあるからです。私たちがいなくなってもあと30年は使える家です。娘、息子、孫、誰でも良いから住み継ぎ、次代にも「ふるさと」を残してもらいたいと思っています。
my home town
どんなに 変わっても 僕の生まれた街
どんなに 離れていても またいつか来るから
本間先生の投稿を読んで思わず国にしたフレーズです。