孫と一緒に阿武隈ライン舟下り(宮城県丸森町)
少々雲が厚く肌寒い今日(10月23日)、孫と一緒の四人で阿武隈ライン舟下りを楽しみました。阿武隈川が長い歳月をかけて刻んだ渓谷約4㎞を往復する舟下りです。この阿武隈川の舟下りは、第18回オリンピック競技大会(東京オリンピック)の前月、1964(昭和39)年9月から始められています。往路は、船外機の力を借りで河を上り、復路は流れに船を委ねて静かに下り両岸の風景を楽しみました。
船内では、おにぎり付きの芋煮をいただきました。外気温が低い中での熱々の芋煮は、里芋などの地元食材がいっぱい入ってしっかり煮込まれており、とても美味しかったです。孫の食べっぷりがそれを証明していました。途中の所々に奇岩(夫婦岩)や観音様そして弘法大師が錫杖を突いて水源を示した「弘法の泉」等の見所がありました。紅葉には少し早かったです。
《参考》弘法の泉(「阿武隈川下流域の地名・伝説の考察」)昔、弘法大師が諸国行脚の途中にこの地を通りがかりました。この年は、阿武隈川も干上がるような大干ばつに見舞われていました。炎天下の旅をしてきた大師は喉が渇いてしまい、村人に水を所望しました。飲み水さえなかった村人でしたが、水瓶の底にわずかに残っていた水を大師に差し上げました。渇きをいやすことができた大師は「お礼がしたい」と言い、川岸の大岩(回り岩)へ行き、真言を唱え、持っていた錫杖で岩を突きました。そして「私が去った後、この岩から枯れることがない水が出てくるだろう」と言い残し去っていきました。しばらくすると、大師が錫杖で岩を突いた所から、本当に水が噴き出したと言います。村人は大喜びして、この水を「弘法の噴水」と呼びました。
阿武隈川(あぶくまがわ)は、福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系本流の一級河川(国管理)です。水系としての流路延長239kmは、東北地方で北上川に次ぐ長さの川です。
かつては河川舟運が盛んに行われていました。きっかけは1664(寛文4)(江戸時代前期の四代将軍/徳川家綱の時代)年に福島県の伊達郡、信夫郡一帯が天領になり、年貢米(御城米)を江戸へ移送する必要が生じたことに始まります。移送を請け負った江戸商人、渡辺友以は天領と仙台藩の境にあった難所を拡幅し、長良川で使用されていた小舟(小鵜飼船)を導入したことにより舟運を可能にしました。
元禄時代以降は、福島から丸森までは小型船で、丸森で荷を移し替えて下流へは大型船による運行という棲み分けを行っています。
明治時代に入ると、さらに河道改修が行われ、丸森で乗り換えは要するものの蒸気船が運行されるようになります。1884(明治17)年当時の運行会社である逢隈川汽船会舎のチラシによれば、朝6時に福島を出発し、藤場(岩沼)で乗合馬車に乗り換え、夕方6時に仙台に着く行程が設定されていました。同区間には、陸路で馬車が運行されており競合相手となっていたが、いずれも鉄道(東北本線)が開通すると姿を消しました。
こんな歴史を持つ阿武隈川は、その歴史を阿武隈ライン舟下りとして形を変え、今に息づいています。年貢米(御城米)を江戸へ移送する舟運の場で、今はおにぎりをほおばり芋煮に舌鼓を打つ。前もって、この歴史を知っていれば、孫に色々お話しが出来たなと、今書きながらチョット後悔してしまいました。
帰り道には角田市にある角田宇宙センター(JAXAロケットエンジン研究所)に立ち寄りました。孫に見せたいというのもありますが、私が見たかったというのが一番かもです。巨大な推進力を生むエンジンを担当しているJAXAの研究施設に併設された展示センターで、エンジンの模型や本物を見てきました。説明がなかなか難しく、理解するまでには行きませんでしたが、技術の固まりが、あのコウノトリ等の成果を生んでいるのだという、雰囲気だけは感じて帰ってきました。