10年ぶりに故郷で20歳の誓い(福島県大熊町)

福島第一原発がある福島県大熊町で、新成人46人が参加して震災後初めて、町内での成人式が行われました。新成人は、「生まれ故郷で成人という人生の節目を迎えたいという気持ちはあった」「あれから結構経って、みんなとも久しぶりに会えるので緊張している」等々の感想を述べています。大熊町では、原発事故によって多くの住民が福島県や県外で避難生活を続けています。大熊町での成人式は2011年以来、実に10年ぶりです。新成人は、震災当時は小学4年生でした。現在は全員が大熊町以外で生活しています(河北新報2021-10-17)。

2011年3月11日の東日本大震災に誘発された福島第一原子力発電所事故による被災は、福島だけのことではなく、私達宮城県民も福島県民と同じように彷徨しなければいけなかったかも知れないのです。関東を含め東北全域が非難の対象になることが、たまたま偶然避けられただけで、紙一重の状況だったのです(2021/08/03投稿「東京電力福島第一原子力発電所事故に関する書籍」参照)。

私達は、以下の事実をどれだけ知っているでしょうか、どれだけ我が身に関わることだと感じているでしょうか。新成人は、以下に記述する状況を小学校4年生で経験しています。その事を想像しながら読み進めてみて下さい。

福島県大熊町は、福島第一原子力発電所(東京電力)の1号機から4号機の所在地です。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災に起因した東京電力福島第一原子力発電所の事故により、全町民11,505人が町外への避難生活を余儀なくされ、町役場についても約100km西に位置する会津若松市と、南に約40kmに位置するいわき市に移転して行政運営をしていました。また、平成28年4月には二本松市に設置していた中通り連絡事務所を郡山市に移転、さらには本格的な帰町に向け大熊町に大川原連絡事務所を設置しました。町民の避難先としては、いわき市、会津若松市等を中心に福島県内に約7割が避難しており、残りの方は埼玉県、茨城県、東京都をはじめ全国各地に避難しています。

平成24年12月には、町民の約96%が居住していた地域が「帰還困難区域」に再編され、町としても「5年間は帰町しない」という判断をしました。町の主要機能を含む町内の大部分が帰還困難区域に指定され、この区域については本格除染の計画がない状況にあるなど、復興に向けた多くの課題に対して明確な時間軸の設定ができない状況で、全町民の避難から5年以上が経過しても、具体的な復興への取り組みができませんでした

2019(平成31)年4月10日、大川原地区(居住制限区域)と中屋敷地区(避難指示解除準備区域)の避難指示が解除され、震災と原発事故から8年余りの時間を経て、ようやく古里の一部を取り戻しました。令和元年5月には、大川原復興拠点に整備した町役場新庁舎での業務が始まり、町復興の足がかりとして各課題への取り組みを加速させています。

令和元年6月には、大川原復興拠点で町営の復興公営住宅へ入居が始まり、町内に人の営みがよみがえりました。あわせて生活循環バスの運行や仮設店舗の開店などがありました。今後も生活の環境を充実させるため、交流施設や福祉施設を周辺に整備していきます。令和2年3月5日、JR大野駅周辺と県立大野病院敷地などの避難指示が解除されました。町内の帰還困難区域で避難指示が解除されたのは初めてのことです。あわせて、下野上・野上地区の一部で立入規制が緩和され、通行証なしで立ち入りができるようになりました。また、JR常磐線が3月14日に全線再開し、大野駅も同日、利用再開されました。これにより、新たな人の流れが町内に生まれています(除染されたのは、鉄道沿線と駅舎周辺だけ、横道に入るとバリケードが張られ立ち入り出来ません、極めて範囲が限定されている解除というのが現実です)。

突然の避難指示:2011(平成23)年3月12日午前6時前、大熊町役場2階総務課の電話が鳴った。町長宛の電話の相手は内閣総理大臣補佐官。東京電力福島第一原子力発電所の半径10㎞圏内避難指示の連絡だった。その電話と並行し、町の災害対策本部には「警察官が町外へ避難誘導している」という目撃情報が寄せられた。役場にいた警察官も福島県警本部とやりとりし、避難指示が出ていると報告。本来、避難指示は警察から知らされるものではない。職員は福島県庁に電話をかけ、県の担当者にも確認をとった。10㎞圏内は町居住地のほぼ全域にあたり、この指示は「全町避難」を意味するに等しい。町は消防団などに招集をかけ、地震からの復旧・救助活動に着手しようというところだった。県への電話を手に職員は思わず「町を捨てて逃げろってことか!」と声を荒げた。電話の相手は何も言わなかった。

11日の地震発生以降、東京電力が福島第一原発の緊急事態を伝える「第10条通報」「第15条通報」は、町災害対策本部に届いていた。11日午後9時23分には国が福島第一原発の3㎞圏内避難指示を発令。災害対策本部はこの指示をテレビ報道で確認していた。しかし、東京電力の通報文には「念のため」とあり、テレビでは官房長官が「現時点で特別な行動を起こす必要はない」と説明していた。町は3㎞避難を「念のため」と受け止めた。しかも、3㎞圏内はすでに避難誘導した「国道6号の東側」と重なり、大半の住民は津波対策で避難済み。結果として、全町避難は大半の職員、町民にとって寝耳に水だった

県は避難先として田村市を指定した。12日午前6時9分、町は防災無線で全町民に対し、避難のため最寄りの集会所に集まるよう指示。全町避難を見越してか、すでに国から派遣されていたバス約50台を主な移動手段とし、スポーツセンターを皮切りに福島第一原発に近い所から移送を始めた。防災訓練でも想定されていない町外へ全町民が避難するという事態に現場は混乱。「国道288号を西へ」というほか、職員も具体的な行き先を知らないままバスに乗った。想定された田村市の避難所は町に近い方から満杯になり、沿道に立つ田村市の消防団員たちがさらに西へとバスを誘導。「どこまで行くんだろう…」。町民は13日未明までかけて、田村市、三春町、小野町、郡山市に分散することになる。

12日午後2時ごろには、町内にひと気はなくなった。避難しそびれた町民がいることを想定し、町幹部数人と消防団員ら計10人ほどが役場に残ったが、本部にいた東京電力社員が避難を促した。午後3時36分、福島第一原発から約4.7㎞離れた役場に「ドーン」という大きな音が響いた。1号機の水素爆発。瞬時に事態を察知した幹部たちも急いで町を後にした。大熊を離れた町の災害対策本部は、田村市総合体育館に再設置された。田村市長にあいさつするため先に町を出ていた町長と幹部たちが体育館で合流したとき、どこに町民がいるのか分からない状態だった。一方で、町民とともに各地の避難所に向かった職員たちも災害対策本部が田村市に設置されたことを知らない。町とは別に独自に避難した町民もいた。携帯電話や無線も通じない中、本部は周辺避難所を回って町民と職員の居場所を確かめるよりほかなかった。

平成23年3月12日早朝の避難指示で大熊町を離れたとき、職員も含め町民の多くは東京電力福島第一原子力発電所の状況も分からず、「ほんの2、3日のつもり」で着の身着のままバスに乗り込んだ。避難先にあったテレビで初めて、12日の1号機水素爆発を知ったという人も多い。そして福島第一原発の状況は、14日午前11時1分の3号機水素爆発、15日午前6時14分ごろの4号機水素爆発と悪化の一途をたどる。「あぁ…」。職員は避難所でテレビに釘付けになっていた町民の口から、言葉にならない思いがこぼれるのを聞いた。

「町として5年間帰町しない」。平成24年9月、大熊町は策定した「第一次復興計画」にそう明記した。1日でも早い帰還を目指してきた町が、一定の期間を示して「帰らない」と判断するのは初めてだった。東日本大震災から1年半。町を取り巻く環境の厳しさが明らかになってきていた(大熊町震災記録誌/平成29年3月)。

福島県大熊町は、原子力発電所事故に伴う避難により、元々一緒に生活していた家族が、職場や子どもの学校の変更等の様々な事情によりバラバラに生活しなければならない状況を強いられています。現在、そうした状況を改善するための施策の一つとして、町外コミュニティの形成を検討していますが、復興公営住宅については、建設が遅れたものの、平成26年11月に入居が始まりました。町では町民が少しでも落ち着いた生活が過ごせるように、今後も様々な施策を国および県と協議を行うとともに、町外コミュニティの形成については国および県に対してリーダーシップを持った対応をするよう求めています。また、県外へ避難をしている方に対する住宅の確保についても、特別な対策を検討するよう求めていきます(私は、東北学院大学に在籍中、福島県内の仮設住宅や復興住宅で暮らす被災住民をサポートするNPOや社会福祉協議会の人財育成を昨年まで行っていました)。

町内の避難指示解除準備区域(中屋敷地区)と居住制限区域(大川原地区)では除染が完了しましたが、宅地と森林等の違いにより、除染効果にバラツキがある状況にあります。また、町民の約96%が居住していた地域が高線量地域(帰還困難区域)となったため、本格除染が計画できない状況でしたが、平成27年8月に帰還困難区域の下野上地区で国による先行除染が開始されました。

町内において安心した生活を過ごせるためには、東京電力福島第一原子力発電所1~4号機について、事故の完全な収束と安全で円滑な廃炉措置が確実に進められていくことが必要となりますが、廃炉作業において度々トラブルが発生している状況にあります。町は、事業者である東京電力を今後も厳しく監視すると共に、国(政府)に対しても事業者任せにせず国策として原子力政策を進めてきた責任者として前面に立った対応をとるよう求めていきます。出典:「大熊町復興通信」(大熊町企画調整課企画調整係)

福島は、みんなで支えなければいけない。原発事故は、我が事として向き合わなければいけない。この記事を読んで改めてそう感じました。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

10年ぶりに故郷で20歳の誓い(福島県大熊町)” に対して9件のコメントがあります。

  1. welfare0622 より:

    今回の投稿に、福島県で被災住民の健康を支えている方から、LINEで「大熊町のことを書いてくれて有り難う」とあり、知ってもらうことが何より大切だとコメントを頂きました。原発事故被災地で、直接住民と接している方だからこそ、ことさらに「知ってもらうこと」の大切さを身にしみているのでしょう。コメント、有り難うございました。

    また、どなたか分かりませんがメールが有り、次のように寄せてくれました。
    『うちの義母が福島県浜通りの出身ですので、私も何度かお墓参りに連れて行ってもらいました。今では叔父叔母も亡くなり親戚達も他所へ移ったので行くことがなくなりました。穏やかな気候、美味しい食べ物、ゆったりした海岸線の景色が目に浮かびます。今回の町の資料を目にするのは初めてでしたが、絶望的とも思える状況下でも美しい故郷を取り戻さなければと言う固い決意に胸が潰れそうになりました。あの日から、いつまでともわからない辛くて長い年月を福島のみなさんが送られて来たことをなんで他人事と思えるでしょうか。今日の私の日常がいかに幸福であるか、感謝して生きなければ申し訳ないことと思います。』

    お二人の方、福島の現状に関心を持って頂き有り難うございます。私達に今できることを、無理せず出来る範囲で構わないので福島の原発事故被災地を支えていきましょう。

  2. 福島の方達を想う気持ちを先生自身からお聞きしたことがあり、その時も言葉では表現しきれないもどかしさや葛藤を感じていることが伝わってきました。被災者支援をしている方たちをサポートなさってきたからこそわかる痛み苦しみがあるのだと思い、寄り添う姿勢に感銘を受けていました。

    先日娘と語り合ったことがあります。震災や新型コロナウィルスなど大変な状況を経験したけれど、そこからどうするのか、どんな選択をしていくのか、という一歩一歩が全員に問われているのだよね、と。自然災害を止めることはできないかもしれないけれど、同じ苦しみや悲しみを繰り返さない選択をそれぞれが考えて実行していかなければいけないのだよね、と。

    今できること、それは「忘れないこと」という言葉を心に刻みました。そして「忘れないこと」の先にさらにできることはないか、考えていきたいと思います。

    1. welfare0622 より:

      『先日娘と語り合った。震災や新型コロナウィルスなど大変な状況を経験したけれど、そこからどうするのか、どんな選択をしていくのか、という一歩一歩が全員に問われている』と、コメントがあり、とても嬉しく思いました。

      私ごときの拙文を切っ掛けに、親子が、社会的課題について話し合う。この様な状況を思い浮かべながら書いているのでとても有り難い投稿でした。

      また、後段で、忘れないことの次に「その先に更に出来ることは何か」と考える。とても大切な示唆を頂きました。私も腕組みをしているだけではなく、「その先」を模索していきたいと思います。有り難うございました。

  3. 鈴木郁子 より:

    福島の海沿いの町には郷愁を感じます。今は成人した子ども達が小さかった頃、主人が単身赴任で小名浜や双葉町におりました。子ども達を連れて何度か訪れましたが、街はずれの丘陵地はみな明るく穏やかで、昔話の世界のようだと思っていました。
    愛着のある家を突然離れたつらさは想像をこえて胸にこたえます。
    ちょうど今、柳美里の「南相馬メドレー」を読んでいます。大好きな鎌倉に好みの家を建て暮らしていた作家が、高校生の息子を連れて被災地へ移住する決断をしたことに心ひかれたからです。
    何を思い生きるのか、学び考え続けたいと思っています。ヒントをいつもありがとうございます。

    1. welfare0622 より:

      双葉町のHPには、次のように書かれてました。
      『双葉町は東に太平洋、西に阿武隈山系をのぞむ、海と山にいだかれた豊かな自然を誇る町です。福島県浜通り地方のほぼ中央にあたり、双葉郡の北東部に位置しています。

      JR常磐線と国道6号が平行しながら町の中心部を南北に縦断し、南は大熊町、北は浪江町に接しています。また、国道288号線で、県の中央部である郡山市と結ばれています。比較的温暖な気候が特徴で、東北地方にありながら冬は積雪が少なく、とても住みやすい自然環境に恵まれています。

      平成23年3月11日に発生した東日本大震災により福島第一原子力発電所において爆発事故が発生し、役場機能を埼玉県加須市へ避難・移転しました。その後、平成25年6月に役場機能を福島県いわき市へ再移転しましたが、双葉町は帰還困難区域と避難指示解除準備区域に指定され、全国へ避難した町民は未だ先の見えない避難生活を強いられています。

      巨大地震と大津波、原発事故による複合災害から、双葉町を復興・再興していく道は険しく、長い年月がかかるものと見込まれます。今後、「双葉町復興まちづくり計画」に基づき、町民が生活再建を果たし、美しいふるさと・双葉町を取り戻していかなければなりません。』(出典:双葉町HP20211019)

      鈴木さんが、郷愁を感じ子どもが小さかったときのことを思い出させる町は、この様な状況下にあります。福島の浜通を走ると、双葉町・大熊町は他の町とは明らかに異なり、町が静まり返っています。原発に近い町と少し離れた町では、その雰囲気の差をハッキリ感じられるほどの違いがあります。福島に行くたび、私に何が出来るのだろうと自問自答してしまいます。

      今できること、それは「忘れないこと!」それだけでも大きいのではないかと思っています。いつも有り難うございます。

    2. ハチドリ より:

      鈴木さま
      双葉町とご縁があられたのですね。双葉町には東日本大震災・原子力災害伝承館が1年前にできました。町民の帰還はこれからではありますが、時間はかかってもきっと復興、再生していくものと信じております。
      https://www.fipo.or.jp/lore

      また、柳美里さんの本屋「フルハウス」が南相馬市の小高駅のすぐ近くにあるので、いつかお時間のあるときにでもお越しください。

      1. S.M より:

        ハチドリ様
        双葉町の伝承館の情報をありがとうございました。
        是非、現地に行って[福島の10年]を感じて来たいと思います。

        1. S.M より:

          鈴木様 ハチドリ様
          お話に割り込んでしまって大変失礼しました。

          1. ハチドリ より:

            S.Mさま
            あっ、いえ、ぜひぜひお越しいただけたらと思います

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