湯治での出来事(お福分け編)

今回の湯治は、転倒という想定外のことで、当初考えていたような過ごし方ではありませんでした。少々不自由さと痛みの伴った時間の過ごし方でした。当初考え立ていたのは、ひたすら身体を休め、ゆっくりこれまでの出来事を振り返る時間にしたいと思っていました。しかし、三日目に転倒し、身体の不自由さや痛みに意識が向き、これまでを振り返ることは難しかった。この意味では、少々残念な湯治でした。

しかし、面白いこともありました。一泊二日で泊まりに来ていた団体の様子です。この団体は、80代と思われる男女6人組で、段ボール箱に様々な食材を詰め込んで持ち込んでいました。その中でも特に目を張ったのは、大量の生卵でした。これを食べるのだろうかと始めは思ったのですが、さすがにそれはないだろうと思った程の数量でした。聞いてみたら、温泉卵にしてお土産にするのだそうです。近くのスーパーで毎土曜日に生卵の安売りがあるので、その時を狙って大量に買い込んできたのだといいます。各部屋の台所には、上水道とお湯が引かれています。この飲める温泉を出しっ放しにして生卵を18分ほどゆでるとのことでした。

一体、どの様な関係の仲間なのか聞いてみました。ご近所のお友達同士なのかと思ったのですが、予想は大きく外れ、南三陸町、女川町、仙台市等から来ていたのです。それぞれのお住まいが違う人たちがどうして一緒になっているのか不思議でした。よくよく話を聴いてみると、それぞれが別々に鳴子温泉の「農民の家」という湯治宿にたびたび泊まっていたといいます。何度も繰り返しているうちに、カラオケ等を通じてお友達になり、いつしか一緒に温泉巡りをするようになったというものでした。凄いな~、私には絶対あり得ないことだ。

皆さん、とても楽しそうでした。温泉につかりながら美味しい山海の珍味を食べ、大声で笑いながら尽きないお話をしている。高齢になっても、この様な非日常の時間を持ちながら、日常を淡々と過ごしている。健康的な生活の過ごし方だととても感心しました。私は、社会性が乏しいので、この様な関わりは考えられないです。

南三陸町の方は、志津川に居を構えていた漁船の船長(漁労長かな)だったそうです。東日本大震災で家は流され、震災から6年後に鳴子に居を構え現在に至っているとのことでした。なんで鳴子なのか余り立ち入ったことを聞いてはいけないと思い聞きませんでした。しかし、南三陸町からは、100㎞離れた鳴子温泉に湯治に来ている人が結構多くいます。このことは、南三陸町で被災者支援をしていた時に、二次避難場所として鳴子温泉を希望する家族が多く、なぜなんだろうと思って聞いてみたことがあります。その時に、南三陸町民は、鳴子温泉には良く湯治に来ていたのだと教えて頂きました。そのようなことから、南三陸町民は、鳴子温泉は馴染みの場所だったようです。もしかしたら、この方もこんな経緯があったのかも知れません。

この旧南三陸町町民の方がマグロを持ってきて、ここで捌き豪快に食べていました。私も一皿お福分けを頂き、山の中の温泉で新鮮なお刺身を食べることできました。思いがけないところで何とも豪華なお福分けでした。何か、こうした関わりってとっても良い感じです。地域社会の中では、もっともっとお福分け(おすそわけ)が些細な日常の中で行われる社会になったら、私たちの社会は心の豊かさを持てるのではないかと思います。

私の知っている地域で活動しているNaritaマルシェという団体(富谷市)では、「制服・体操着のおさがり会」というのをやっています。卒業して使わなくなったり、成長して着られなくなった制服や体操着を無償で譲り受け、必要な人に無償でお渡しするという活動です。この活動は「お福分け」(おすそわけ)に通じる活動なのではないかと思っています。古き良き日本の庶民の暮らしに根付いている、お互い様という考え方や資源を大切に使うという生活の知恵だと思います。

地域共生社会の構築ということが機会ある毎に語られています。固い言葉で、なかなかとっつきにくい感じもあるのですが、このような考え方の基底には、「お福分け」(おすそわけ)やお互い様といった、私たちが既に持っている考え方や振る舞いが有るのでは無いかと思っています。今一度、こうした考え方や振る舞いを見直してみることも大切なのではないかと思います。湯治で頂いた「お福分け」(おすそわけ)の持つ意味を、今、改めてかみしめています。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

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