43年前の宮城県沖地震とみやぎ県民防災の日

43年前の1978(昭和53)年6月12日、宮城県沖を震源とするマグニチュード7.4最大震5の地震が発生し、ブロック塀の倒壊などにより死者28人、負傷者1325人を出す大惨事となりました。発生時刻は17時14分25秒、震源地は仙台市の東方太平洋沖約100km、深さ40km。この地震は水道やガスなどのライフラインにも大きな被害があり、仙台市を中心に都市生活が麻痺した。当時の仙台市は人口がおよそ65万人であり、50万人以上の大都市が経験した初めての都市型地震災害とされています。

当時、私は名取市閖上にある宮城県農業高校に勤めていました。帰ろうとしていていた矢先の地震でした。すぐさま、校舎内の被害状況を確認す為に校舎の隅々を回り、被害状況を記録していました。校舎で被害が大きかったのは理科実験室で、顕微鏡や精密測定器など多くの実験器具が戸棚から飛び出し、床に落ちて壊れていました。また、化学実験室では、様々な試薬が同じように床に落ちてガラス瓶が砕け、中の試薬が混じり合い、白煙を上げていました。化学的知識の乏しい私は、無防備の状態で実験室に飛び込み、頭がクラクラし咳き込む中で窓を上げ、排煙していました。何とも無謀な対応だったと思います。

当時、最大の課題は、100名を超える寮生がいたので、その生徒の食糧確保でした。水、電気などの生活インフラが止まっていたので、調理をせずに口にできるものの確保が必要だったのです。名取市内や仙台市内の電話の通じるパン屋さんに片っ端から電話をかけまくり、食料確保に走り回りました。ある程度、食糧確保の目途が立って帰宅の途についたのは深夜零時を過ぎていました。

黒松にあったアパートまでの道のりは、信号の消えた真っ暗な仙台バイパスを徐行程度の速度で車を走らせました。道路が、隆起したり沈下したりしていました。橋梁は、特に注意が必要で、橋桁と道路の間には30㎝を超える段差がついていました。家について又びっくりでした。寝室のタンスが倒れ、台所には食器が散乱していました。妻は、その日、準夜勤務で不在でした。家に居たら、丁度食事の準備で火を使っていたであろう時間だったので、火災の心配がありました。また、家具の下敷きになっていた可能性もありました。職場で大変だったようですが、それよりも家にいなくて良かったと思ったことを記憶しています。

当時の農業高校は、仙台空港の近く名取市閖上にありました。10年前の東日本大震災では、津波によって校舎、寮、実習施設の全てが津波にのまれ倒壊しています。今、思い起こしてみると「津波」に対する意識が皆無だったと身がすくみます。

「みやぎ県民防災の日」は、今後も起こり得る大規模地震・津波などに備えるため、宮城県の「震災対策推進条例」で定められました。この日には防災意識を高めるため、当時、どの様な状況だったのか、そしてなのができ何ができなかったのかを振り返ってみることが必要でしょう。更には、懐中電灯やラジオの乾電池の確認、食料の備蓄、ローリングストック等々、生活の中での減災について考えてみる日にしたいものです。

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