お遍路(巡拝)の旅を終えて
2012(令和3)年4月18日から29日迄の11泊12日の四国八十八ヶ寺と高野山を巡るお遍路(巡拝)の旅は、無事結願を果たし退職前の願いを実現できました。今回の旅は、様々な点で恵まれておりとても有り難く思っています。大きく四つの要因を挙げてみます。
第一は、好天に恵まれたことが挙げられます。最終日を除き、抜けるような青空と清々しいそよ風が、私達の巡拝を支えてくれました。青空の下、鈴の音をそよ風に乗せて響かせながら境内を歩き、本堂及び太子堂で真言を唱え読経する。NHKの新日本紀行の一場面のような光景の中に入り込んだようです。また、特に高知県土佐湾の紺碧の海と抜けるような真っ青の空は、東北で見る海とは少し違い南の海と空そのものでした。石段の多い巡拝では、雨が降ると滑りやすく、足下が不安になるのですが、今回はこの心配は全くありませんでした。
第二は、メンバーに恵まれたことです。12回も巡拝して、先達(他の人より先に業績・経験を積んで他を導く人)の資格を持つ方及び在家で修行中の尼僧が加わっており、プロの先達兼運転手の案内や解説に補足をしてくれました。12回も巡拝している方は、赤色の納札を持っていました。納札は、巡拝の回数によって色が異なります。1~4回は白、5~7回は青、8~24回は赤、25~49回は銀、50~99回は金そして100回以上は錦となっています。
納札の始まりは、衛門三郎が、空海を追いかけて四国を巡回し始めた時に、空海がいたお堂に自分の名前を書いて打ち付け、空海が戻ってきた時に自分が追いかけていることに気がついてもらえるようにしたそうです。空海へ「ここにいました」というメッセージとして残したわけです。この目印の札が、四国お遍路の納め札の始まりと言われています。
また、尼僧は、仏教に関する様々な知識を私達に伝えてくれました。また、先達に代わり、読経をリードしてくださいました。読経は、誰かが、少し読んだ後にそれに続くように読みます。そうすることで、バラバラにならないで済むのだそうです。
第三は、コロナ禍の中にあって、中止や巡拝を控える状況があり、巡拝者は非常に少なかったです。団体と会うことは一回だけで、その他は個人の巡拝者は数人いるだけで、境内はほほ独占状態でした。この為、読経を待ったりすることもなくとてもスムーズに進みました。最終日に聞いたお話しによれば、四国、特に徳島県は新型ウイルス感染が深刻になってきており、お遍路の募集を中止したとのことで、私達のツアーはギリギリセーフだったようです。
第四は、先達兼運転手に恵まれたことです。50代の経験20年を超える方で、知識が豊富だけではなく、私達に対する配慮も行き届いていました。知識を押しつけたり、日程の消化に追われたりすることもなく、とても穏やかな誘導をして下さる方でした。サービス業だから当然という考えも有るかも知れませんが、仕事を超えた、まさに「おせったい」の心を持った方なのではないかと思いました。
こうした恵まれた状況下での四国八十八ヶ寺と高野山を巡るお遍路(巡拝)の旅は、私に何をもたらしてくれたのだろうか。仙台に戻ってから、御影(おみえ:御朱印と一緒に頂ける本尊を印刷した小さな札)をガイドブックに貼り付けたり、HPに投稿したりしながら、考えてみました。
私がお経を読むようになったのは、母が亡くなった2013(平成25)年からです。生前、何の親孝行も出来なかったで、今更ですがお経を読むことで幾らかでも供養になるかと考えたからです。毎朝、読経している内に、仏壇のある生活、手を合わせる場が身近にあることは精神衛生上もとても良いことだと思えるようになりました。私の目的はただ一つ母の供養だけです。特段信仰心が深いわけでも何でもありません。母を見守り支えてくれるのが仏様(曹洞宗なので釈迦如来様)であるのであれば、その方に母の供養をお願いするだけです。その為に、毎朝お経を読みお水ご飯あげているのです。なので、お釈迦様を信じているというのとは少し違い、あの世で修行中の母親に目をかけてもらいたいので、お釈迦様に多少こびを売っているのかも知れません。下世話な動機です。
お遍路の動機は、現職を終えたことが一番の理由です。大過なく仕事を全うできたことに感謝したい気持ちがありました。大過なく全うできたのは、仏様のご加護そして多くの方々の支えがあったからです。四国八十八ヶ寺と高野山を巡るお遍路をとおしてその感謝を伝えたかったのです。なので、私は、何か困っていることの解決をお願いするのではなく、感謝を伝えるお遍路でした。
この感謝という言葉は、2020(令和2)年10月、菩提寺である寿徳寺住職の位が上がり、そのお披露目として晋山式があり、その際の首座法座(しゅそほうざ:首座が禅の修行や悟りについて問答を交わす法戦式)で聞いて、「これだ!」と思いお遍路で使いました。首座法座で、若い修行僧が、僧侶になる修行が終わったので、これからはどの様にして次の段階に進めば良いのかとの尋ねたのに対して、「ありとあらゆる方・ものに感謝し新たな修行に取り組むことだ」と応えたのです。私も同じだとその時思いました。「大過なく仕事を全うできたことに感謝し、更に精進を重ねる」これこそが私のこれからの生き方だと思ったのです。
こうしたことから、私は四国八十八ヶ寺と高野山を巡るお遍路(巡拝)の全てで、これまでのご加護と多くの方々からの支えに感謝を伝え、新たな人生での更なる精進を誓ったのです。
仙台に戻ってからは、非日常のお遍路の環境とは異なり、日々淡々とした生活になります。こうした日常の中に、お遍路で感じたことや神仏との距離感をどの様に溶け込ませていくかが、これからの生活の過ごし方の課題になるのだろうと思います。些細な事柄に、些細な所作に「感謝」を生かしていく。なかなか難しい事ですが、心して取り組んでいきたいと思っています。
高貴なことは出来ないので、レベルは低すぎるかも知れませんが、先ずは草むしりの「作務」から始めよう。曹洞宗では、掃除(作務)は、自らの心も清めていく修行に位置づけられ大切にされています。雲水の気持ちになって草むしりをしていたら、そのうちに何かを感じる時がくるかも知れません。また、新たな役割が舞い込むかも知れません。その時を心静かに待ちたいと思います。修行は、私の残された人生を支える大きな機会になるかも知れないと考えています。