地域づくりに関わる社会学
『かじってみよう社会学Ⅱ』第3講目の今回は、地域づくりを進めるに際しての視点を取り上げます。
地域活動で良く聴くお話しに、「女性は様々な機会に外に出てくるけど、男性はなかなか出てこない」「地域の方交流を図るためにお茶会を企画しても男性はほとんど参加しない、いつも女性ばかりしか集まらない」があります。
町内会活動を進める役員さん達や地域包括ケア推進を担う方々に共通してあるのは、こうした「男性が地域と関わらない」「自宅に引きこもっている」という悩みです。こういった現状に対して、社会学に何か参考になるヒントは見いだせないか考えてみました。
「お茶会に男性が参加しない」という現象に対して、私は次のようにその理由を説明しています。
男性と女性の会話の構造に根本的な違いがあるのではないか。女性はコップ一杯の珈琲で1時間もおしゃべりできるが、男性は5分も持たない。料理のこと、育児のこと等々、日常生活に関わることが次からつぎに、それも具体的な内容が話題に上がるのです。ある方は、「私たちのお話に無駄な話はない」と豪語します。
一方の男性は、そうした女性の会話について行けません。さっきまで話していたことが、今度は全く違う内容に簡単に移っていきます。女性には「生活上のこと」という共通項があるのかも知れませんが、男性には「さっきまでの話と違う」としか受け止められないのです。加えて、日常生活場面を下にした、具体的で現実的な内容に対して、男性は制度や仕組みといった枠組み的な内容に関心があり、具体性に欠けるところがあります。
男性の場合はお茶のみでは集まらないのでお酒は必要だと言われます。でも、これは少々的外れのように思います。お茶からお酒にすれば良いのかといえば違います。男性の場合は、お酒を頂き、天下国家を延べます。当然、趣味に関する話も出ます。これは女性にもあります。しかし、女性の場合は、やり方や材料などに関心が向きます。それに対して男性は、使っている道具に関心が向けられ、いつしか道具自慢になったりします。同じ趣味にしてもこれだけ違いがあります。
一般論ではありますが、こうしたものの見方や関心の向け方に大きな違いがあり、「お茶のみの場」では交わることは相当難しいのです。
更に決定的なのは、お茶会に対する受け止め方の違いです。多くの場合男性は、前述の女性が豪語した「私たちのお話に無駄な話はない」とは受け止められず、多くはお茶会(お茶のみ)を「ひまだれ」(生産に繋がらない行為は無駄なこと)といい、それに組みすることを避けます。
様々例を引いてお話ししましたが、あくまで一般的傾向であって、男性と女性の行動を決めつけているわけではありません。当然、「私は違う」という声があることは承知していていてのお話しです。
では、男性を巻き込むにはどうするかです。男性には「ひまだれ」ではない大義(役割とも言えます)が必要です。お茶会にしても、「お茶を飲む」という参加の仕方ではなく、「お茶を出す」方に視点を置く必要があります。飲むのが珈琲などの場合は、お茶よりも非日常的感覚も加わり、道具や技術に関心が向くので、男性を巻き込むときに、珈琲はとても有効です。
私が知っている活動では、「Origina lBlend」珈琲を開発し、その珈琲にお気に入りの名前を付けて皆さんに振る舞っています。これなどは、男性に参加して頂く仕掛けとしては極めてすぐれた事例だと思います。女性は飲む人、男性は淹れる人。これが絵になっているのです。
この様なことを意識して地域の居場所づくりや地域活動を考えてみては如何でしょうか。役割は、想像以上に大きな力を発揮ます。だまされたと思って実践してみて下さい。
女性・男性に差はないと思います。でも、ものの考え方や考えを形に移す時のやり方には違いがあるように思います。なので、その「違い」を意識して様々な活動を設計してみては如何でしょうか。
繰り返して言いますが、男性には役割が必要です。そして、何らかの困難さや技術的向上心を刺激する仕掛けが必要です。地域で良く行われる「お茶会」の場でも、こうした視点を意識して設計すると多少は参加者が増えてくるように思います。同時に、人数が問題なのではなく、関わる人達自身が「楽しい」と感じられることが最も大切です。人と人との関わりには、単にその場を共有するということだけは無く、そこに何らかの役割を必要とします。特に、男性にはその傾向が強いです。
「心」とは、何処にあるのか?という問いに、ある方は「心とは人と人との間にある」と答えています。他者との関わりに中に自分の意思や考え方が生じます。そして、同時にその関係性には何らかの役割関係が生じます。ここに、自分らしさや行為の原動力があります。人と人(他者)、人と社会(社会制度)の関わりが様々な行為を引き出すのです。


