貴重な視点(8月28日への返信)

東京電力福島第一原発事故と『100年後の子孫(こども)たちへ』に対する貴重な返信がありました。数字の持つ意味について生活者感覚を下にした記述で、その着眼点にとても感心しましたのでご紹介します。返信の記述で、私が共感したのは以下の部分です。

『100年とは、今、生まれた赤ちゃんが100歳になるわけで、3から4世代に渡る年月です。100年後、もう、ご近所の人の顔もつながりも分かる人はいなくなるかもしれません。それでも、この『浪江町赤宇木の記録 百年後の子孫(こども)たちへ』が代々語り受け継がれ、赤宇木というその地区が確かにあったという歴史を知ることができる、とても貴重な1冊になるのだと期待をしてやみません。』

東京電力福島第一原子力発電所事故で、当初、原発設置市町周辺は、100年から150年は戻れないと言われました。その後、懸命な除染作業等が行われ、限定的な範囲ではありますが、帰還指示が解除された「避難指示解除地区」が増えています。同時に、依然として避難指示が継続している帰還困難区域が存在していることも見逃してはいけないと思います(左図参照)。

私は、100年という「数字」は、二つの側面を持っていると思います。一つ目は、「100年後に放射線量が低減し避難解除」また、100年後が更に短くなる可能性もある、という科学技術や復興事業の成果を現す科学ベースの数字。もう一つは、返信にあった生活者の人生の視点で見た100年という重さです。このいずれもが同じ100年です。私たちは、数字にはここにあるような側面を持っていることを知っておく必要があると思います。どちらの数字も現実です。その現実に、私たちはどのように向き合っていくのかを問われているのだと思います。

皆さん、福島第一原発事故は、奇跡的な偶然で被災が福島県に限定されています。もしかすると、東北地方全域と関東地域も避難の対象地域になっていたかも知れないのです。原発事故被災地を偶然にも逃れた私たち宮城県の人々は、彼らを応援する必要があります。彼らの復興に関心を持ち、経済的復興に「福島県産品」を購入するなどして復興の後押しをしましょう。そうすれば、科学的力だけではなく、私たちの力も加えることで、100年がもっともっと短くなるかも知れません。出来ることを出来る範囲でする。それだけでも貴重な支援になるように思います。

ちなみに『復興特別所得税』というのがあります。2011年3月に発生した東日本大震災からの復興にかかる費用の財源を確保するため政府が創設した特別税の一つです。2013(平成25)年から2037(令和19)年までの25年間、個人が通常払う所得税額の2.1%分を加算するものです(法人税にも課税されていましたが現在はありません)。私たちは、税金の面でも復興財源を担っています。こうした税金の使い道についても、しっかり見ていく必要があると思います。

右の図の出典:福島県https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11050a/(2024/09/02)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

貴重な視点(8月28日への返信)” に対して3件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    『百年後の子孫(こども)たちへ』に対する着眼点の鋭い返信に共感されたのは、きっと先生をはじめとして多くの方が同様であろうかと思います。

    ハチドリさんは、まだ浪江町の仕事が始まったばかりの頃には被災者の皆さんの訴えに十分に寄り添うことが出来なかったと漏らしています。
    その経験から放射線の知識をもの凄く学ばれたのですね。今では無知な私にも分かるように、機会あるたびに(いや、どんな隙間にも何かと放射線を紐付けして、積極的に)丁寧に教えて下さいます。
    そして、被災地の実りを大切に収穫しては美味しい物に仕立てて沢山の方々に振舞っています。
    私も色々なものをお福分け頂きますが、これまでは(なんてマメなハチドリさん)という認識でした。
    でも、今回の書き込みを読んで、被災地に対する並々ならぬ愛着を持って、福島県に骨を埋める覚悟でいらっしゃる事を知りました。
    それを知れば、浪江町の実りの放射線を計測し美味しく料理して皆に振る舞う行為や、自給自足の美味しい野菜をたっぷり摂って健康的に暮らす様子を発信する事も、身をもって浪江町の安全性が高いこと(一部地域ではありますが)、放射能を闇雲に恐れることは無いのだということを教えて下さっているのですね。
    おかげ様で私は放射線について少しずつ学ぶことが出来、安心して福島県産の食材を選んでは買って食べています。

    この様に地道に被災者に寄り添うハチドリさんの姿勢を見て、赤宇木地区の区長さんも大切な記録誌『百年後の子孫(こども)たちへ』を託されたのでしょうね。
    「この人なら正しい理解者のもとへ赤宇木地区の事を拡散し、語り継いでくれる」と確信したに違いありません。

    ハチドリさん、今回も貴重な情報をありがとうございました。浪江町赤宇木地区のこと、私も大切に心に留めました。

    この先は百年後と言わず、日進月歩の除染技術と沢山の理解者の見守りの中で、1年でも1日でも早く、故郷赤宇木地区を住民の手に取り戻すことが出来ることを祈っています。

    1. ハチドリ より:

      鈴虫さん、涙が出そうなコメントをありがとうございました。

      鈴虫さんの書いてくださった『放射能を闇雲に恐れることは無いのだということ』、まさにそれなんです。

      浪江町は、放射線の知識が何も無い私が『健康相談をお願いします』と言われ、飛び込んだ原発事故の地域でした。ほんとに何もわからなく、よく電話を取っていたものだと思います。いや、怖くて取らないようにしていても職員がいないから回ってきて、そしてドキドキしながら話を何度も聴くうちに、住民の人たちの疑問や置かれている状況が少しずつわかって来て、放射性物質、放射能、放射線がみんな意味が違うことを始め、何を気をつけなければならないのか、放射線の量と身体への影響のことも、よそから来た者だからこそ、客観的に理解できるようにもなったと思っています。それが、鈴虫さんが書いてくれた『闇雲に恐れることはない』に、とても通じるのです。

      今、浜通りで普通に生活していたとして、『原発事故の影響と自然放射線を含めて年間365日で浴びる放射線量は1.5㍉シーベルト以下になるようにする』が国の目標になっています。頑張ってもらった除染の成果と常にバックに入っている線量計のおかげで、私はもっと低い線量の中で生活していることがわかります。

      ちなみに病院で受ける胃のバリウム検査の被ばく線量は1回で3㍉シーベルト、CT検査では部位によりますが1回5〜30㍉シーベルトで、飛行機に乗れば必ず空の放射線を浴びます。医療で受ける放射線も飛行機に乗って浴びる放射線も、人体に与える影響は同じなのです。

      闇雲に恐れないとは、そのような例からも言えるのです。

      食べ物も日本は世界で一番厳しい放射能の基準なんです。それをクリアした物が店頭に並び、自家消費野菜や山菜もちゃんと測れるようになっています。この夏、住民の人が作った大きなマスクメロンや甘いシャインマスカットをいただきました。除染したばかりの土はなんの栄養もなかったはず。それを何年も丹精を込めて土作りをして、立派な果実を見事実らせたのでしょう。放射能検査も問題なくて、手を取り合って喜びました。

      しかし、除染(洗い流したり、汚染された土を剥ぎ取ってきれいな土を被せたり、木々の枝を切ったり等)の話が出ましたが、皆同じように除染はできません。平らな土地は比較的しやすいのですが、山林は下手をすれば山崩れや大雨で土砂災害を起こす危険があるためです。
      赤宇木地区は、爆発で飛んだ多くの放射性物質が風で運ばれたために線量が高い上に、どちらかと言うと山林が多いため除染ができないのです。なので、なかなか線量が下がらず、帰還困難区域となっているのです。他にもそのような地区はたくさん残っています。帰りたくても帰れないのです。

      先生が『皆さん、福島第一原発事故は、奇跡的な偶然で被災が福島県に限定されています。もしかすると、東北地方全域と関東地域も避難の対象地域になっていたかも知れないのです』と書いていました。そうなんです。
      福島第一原発には6つの建屋がありました。そのうち2つは震災の時に定期検査で運転を休止中、残りの4つのうち3つが爆発、残りの1つが他の爆発の影響でか建屋にヒビが入り、圧力が抜けたためか爆発を逃れたようなのです。それが奇跡と言われています。もし、残りの1つも爆発していたら、先生が書いていたようなことが起きて、当時宮城にいた私もみなさんも住み慣れた我が家、地域を否応なしに離れ、どこか遠い所に避難していたのかもしれません。

      でも忘れてならないのは、そのヒビから漏れた放射性物質は、すぐ近隣の双葉町や大熊町に降り注いだと言うことです。
      このようなことも忘れずに、奇跡にも感謝をし、ここで今できることをコツコツ&トコトンやっていきたいなと思っています。

      長ぐなってすみません。
      鈴虫さん、これからも私の作るさもない常備菜とか佃煮とか、食べるの手伝ってけらいんね。

      1. 鈴虫 より:

        ハチドリさん
        原発事故後の浪江町の健康相談は、みなさんの切実な健康不安から、生活や将来への不安などすべての不安が溢れ出す場面だったことでしょう。
        何処にも吐き出す場所が無くて、何もかもをその場で聴いてもらった人が沢山おられたに違いありません。
        その土地の者ではないハチドリさんがその矢面に立って、静かにみなさんの語る事に耳を傾けてくれたことに頭が下がります。
        この時の傾聴は、そんじょそこらの傾聴とは一線を画す、正に心の耳で聴いて下さったことと思います。

        そして、一筋縄ではいかない除染の話に、やはりその場にいて毎日感じなければわからないことだらけなのですね。
        それでも出来るだけ現地の話を聴いて、理解したいと思う気持ちを大事にしたいです。そうする事が、この先も長きに渡り『被災地、被災者』と呼ばれ続けなければならない福島県沿岸部のみなさんに、しっかりと寄り添うことになると信じています。

        話は転じて、ハチドリさんのお福分けは、お茶受けからお弁当の一品に助かるものまでバリエーション豊かで、どれも凄く美味しいの!
        大歓迎で何でも食べですけっから〜😆
        任せで〜👍

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