東京電力福島第一原発事故と『100年後の子孫(こども)たちへ』

13年前の東日本大震災で甚大な事故を引き起こした東京電力福島第一原子力発電所事故。最近では、「溶融核燃料(デブリ)取り出しの準備作業を開始したが、初日(8月22日)に「初歩的ミス」が発覚し作業を断念した。」との報道で、消えかかっていた事故後の様子を思い出させられました。

そんな中で、原発事故で故郷は「帰宅困難区域」となり、『祖先より脈々と受け継がれてきた故郷が消え失せてしまうことが残念でなりません。そして風習や芸能、地域の中で培われてきた営みは、お墓に眠っている先祖たちは、さらには今まで育まれてきた地域の絆も、個々の思いも、生活から生まれた営みも、将来に向けた夢も全て失ってしまいます』という住民。100年から150年帰らなければ「浪江町赤宇木(あこうぎ)」はどうなってしまうのか、そんな思いに背中を押されて記録誌を作ることにした、と言います。

原発事故被災者の役に立ちたいと、宮城県内の市役所を早期退職し、福島県浪江町役場に仕事(私は仕事の範疇を超えていると思っています)の場を移し、日々浪江町民の健康を始めとする安心安全の暮らしを取り戻すべく、仕事に励む方からの紹介で、大変貴重な記録誌『100年後の子孫(こども)たちへ』を献本して頂きました。

この『100年後の子孫(こども)たちへ』は、学術的にも大変貴重な記録誌だと思います。役所で作る「自治体史」に、個々人の生活史を加えた、地域住民の息遣いをも感じ取れるような記録誌です。いつか、機会を設けて本書を携えながら赤宇木地区を歩いて見たいと思っています。

私たちは、この様な想いをしながら故郷を離れ生活をしている人達が、今も沢山いることを忘れてはいけないと思います。この方々に出来ることは何もないかも知れませんが、せめてこうした事実・現状を忘れないということは大切なことではないかと思います。こうした現状をどう受けとけるのかを私たち一人一人に問われている。そんな想いから、本書を皆様に紹介するものです。

https://www.youtube.com/watch?v=n_xhNmp-NrA

東日本大震災と原発事故
この様な暮らしの営みがあったのです

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

東京電力福島第一原発事故と『100年後の子孫(こども)たちへ』” に対して6件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    本間先生
    『浪江町赤宇木の記録 100年後の子孫(こども)達へ』をご紹介くださってありがとうございます。

    住民に対する国の説明会で「私達はいつ戻れますか」の質問に「この放射能の数値からすると、手を掛けなければ100年は帰れないだろう」と言われた時の一瞬の沈黙は、息をする事も忘れるほどの衝撃だったということに違いありません。
    しかし、そこから息を吹き返したのは「そんなはずは無い、負けてたまるか!私達は絶対に戻って来る!」そんな決意の表れだったのでしょうか。

    この記録誌のタイトルには、「100年経てばきっと此処へ戻ってくる人が居る。その子孫達に安宇木の貴重な愛おしい歴史を遺してやらなければ」という深い深い郷土愛と、遠い視線の先に繋ぐほんの小さな希望を感じます。

    どうかどうか、福島第一原発の廃炉作業が初歩的なミスなんかで二度と足止めされることの無いように心からお願いいたします。
    日本の優秀な技術と智慧を福島県に全集結させ、愛と真心を込めた誠実な作業が進められますことを心から祈ります。

    この貴重な記録誌を私も実際に手に取って読ませて頂く機会がありますように。

    1. ハチドリ より:

      鈴虫さん、いつかぜひとも手に取り、ご覧になってくださいね。

      初歩的なミス、私もほんとにほんと、がっかりの゙3乗でした。毎月勉強会あるので今度聞いてみっから!

      1. 鈴虫 より:

        ハチドリさん
        次の勉強会では、
        世界中のたくさんの人々が、我が事としてその廃炉作業の進捗状況を固唾を飲んで見守っているのですと、どうか伝えて下さい!

  2. ハチドリ より:

    本間先生、浪江町赤宇木(あこうぎ)地区のことを紹介していただき、ありがとうございます。
    この10年もの歳月をかけて編さんされた記録誌のことは、私が9年前に初めて福島に行った頃に自宅でNHKテレビを見て知り、それから間もなくして外出先でも再放送を見たのでした。そのため、「赤宇木地区と今野区長さん」のことは、とても印象に残っていました。

    昨年、仕事で県内を回っていた時にたまたま赤宇木地区のかたとお話をする機会がありました。私のほうからその記録誌のことを話題に出したらとても驚かれ、その時の縁がもとで今野区長さんに連絡が行き、私の元にも想いがギッシリ詰まった、約3㌔の重さもある『浪江町赤宇木の記録 百年後の子孫(こども)たちへ』が届きました。

    記録誌の冒頭にある今野区長さんの『先人たちにお礼を申し上げ、そして(赤宇木を去ることに)許しを請わなければなりません』というくだりは、その無念さが強く伝わってきて、胸が締め付けられる思いがしました。

    さっそく職場で回覧をしましたが、昔の懐かしい写真を見て、知っている人もたくさんいたようで歓声が起きたり、「ここの地区は、すごく仲が良かったんだよな~」と言う職員もおりました。記録誌がこんなふうに見てもらっているということがとても嬉しくて、不謹慎かもしれませんが、私はそんなふうに歓声をあげながら見てくれた職員たちの様子を録画して、今野区長さんに見てもらいたい衝動に駆られました。残念ながら動画は撮れませんでしたが、赤宇木出身の職員に「区長さんは何が好きかわかる?お酒飲むの?」と尋ねたら、さっそくご家族に連絡をしてくれ、「甘いもの、特に羊羹が好き」ということがわかりました。ということで、記録誌を見た職員の様子の報告も含め、とらやの羊羹を御礼に区長さんに送らせていただきました。先生、すみません、とらやの羊羹です!!

    町の広報誌には事故後1年経った頃から毎月、町内の各主要箇所の放射線量が掲載されています。国では1時間あたり0.23μ㏜以下を安全と言っているのですが、2012年4月の赤宇木地区集会所付近は1時間あたり10.2μ㏜、役場付近は0.61μ㏜でした。そこから12年経った2024年2月の赤宇木地区集会所付近は0.64μ㏜で、役場付近は0.06μ㏜となっています(ちなみに胸のレントゲンは1回0.60μ㏜)。この数値だけを見ると、赤宇木地区の線量も減衰しているんだなということがわかります。しかし、公報に載っているのはほんの一部の場所であり、動画にあるように、今野区長さんたちが各世帯や様々な場所の線量測定をして下さっていますが、まだまだ赤宇木地区の線量は高いのが現実です。しかし、他の帰還困難区域である『津島地区』には役場の支所もあり、復興拠点として部分的に解除され、まだまだに少ない人数ではありますが、今ではそこで生活を再開している方たちもいらっしゃいます。もしかしたら赤宇木地区でも100年経たないうちに、そこでまた生活の営みが始められるかも知れません。

    100年とは、今、生まれた赤ちゃんが100歳になるわけで、3から4世代に渡る年月です。100年後、もう、ご近所の人の顔もつながりも分かる人はいなくなるかもしれません。それでも、この『浪江町赤宇木の記録 百年後の子孫(こども)たちへ』が代々語り受け継がれ、赤宇木というその地区が確かにあったという歴史を知ることができる、とても貴重な1冊になるのだと期待をしてやみません。

    1. スマイル より:

      ハチドリさんがテレビで今野さんや赤宇木地区のことを知り、心(魂)の奥深くに刻んだからこそ届けられた本なのだとわかりました。そのことにまず心打たれました。

      先日梅干しをいただきました。その方の実家のある地域は梅の産地でその梅で漬けられたものでした。「この梅がやっぱり美味しく感じるの」という言葉にハッとしました。「馴染みのある場所」「馴染みの人がいる」ということだけでなく、「ふるさと」というものは「遺伝子レベルで刻まれている何か」がある場所なのかもしれない、と思ったのです。そう思うと、原発事故や震災などで一瞬にして故郷を奪われた人の痛み悲しみのはてなさの前に立ちすくむしかない、という気持ちになります。

      行政は「寄り添う」よりも「保身に走っている」と思われることがあるのは事実だと感じます。でも社会も行政も私たちひとりひとりを映し出す鏡のようなもの。そうであれば、私自身が「保身」に走りそうになる弱い自分を認め、「寄り添える」ようになることしかない、と思うのです。今暮らしている地域を愛しみ、慈しみ、そこに住むひとたちと手を取り合って、「ここを失うことなど想像できない」と思えるように過ごすこと、そうして初めて「失った人の痛み」も本当に、自分事としてわかるのではないか、と思うのです。

      そんなことを考えていました。とても大切なことをハチドリさんに教えていただきました。本間先生、紹介いただきありがとうございます。

      1. ハチドリ より:

        スマイルさん、ありがとうございます。
        スマイルさんが書いてくださった『寄り添う』と言うことが、何よりも大切なことだとを実感しています。

        私が福島に行き、今の仕事についた頃、そもそもの゙放射線のことがわからず、住民の人と喋るのが怖かった自分がいました。たくさんお話をされたあとにそれが理解できず、「何も゙わからないんだね」と言われてますます落ち込んでしまったことも。だから当時はそもそも寄り添うことなんてできていなくて、研修会に何度参加しても頭に入らず。

        でも、住民のみなさんと集まっておしゃべりしたりを繰り返し、そこで出てくる疑問や質問を調べ、一緒に考えていくうちに、住民のみなさんのやり場のない憤りやどんなに悲しくても涙も出ない苦しみ、この先どうして行けばいいのか何も゙見えない不安、家族がバラバラになった悲しみ、身体がどうにかなっていくのではないかと言う恐怖等々・・、少しずつ少しずつ理解できるようになってきました。

        そして、専門家や有識者と言われる人たちの「正しい話」ではなく、『自然に湧き出てくる気持ちを受け止めること』『純粋に気持ちに寄り添えること』が大切なんだと身に沁みてわかるようになりました。さらに私自身がこの地域を心から好きになり、大切にしたいと思う気持ちが大切なんだと言うことも!だから、本気でここで暮らして行こうと決めたのでした。

        そんなこんなから関係性ができてくると、騙されていると感じていた「正しい話」にも耳を傾けてくれるようになることも体験しました。

        こういうことって、普段の生活や地域社会の゙なかでもよくあることなんですよね。

        スマイルさん、いつもありがとうございます。スマイルさんは、人に寄り添える人だと心から思っています。私もこれまでどんなにか助けてもらったことでしょう。

        私もこの先ずっと、総てがわからなくとも、『その人の自然に湧き出る感情にそっと寄り添える』ような、他人の気持ちがわかる人になりたいなと自分で自分に期待しているところです。

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