日本のいちばん長い日
79回目の「終戦の日」を前に、半藤一利,1995『日本のいちばん長い日 決定版-運命の八月十五日』文藝春秋.を1月から読み進めて来ました。
太平洋戦争は、1941(昭和16)年12月8日ハワイ島真珠湾攻撃で始まり、1945(昭和20)年7月26日に連合国側が発したポツダム宣言を黙殺して来ましたが、1945(昭和20)年8月14日に日本政府はポツダム宣言受諾を米国、英国、中国等の連合国に伝え、翌15日正午に終戦の詔書を読み上げる玉音放送で国民に終戦が伝えられました。
1941(昭和17)年6月、中部太平洋ミッドウエー島周辺で行われた日本海軍と米国海軍との海戦(ミッドウエー海戦)で、日本海軍は大敗し日本は制空権と制海権を失い、ズルズルと後退(時の大本営は「転進」と表現)を余儀なくなりました。
1945(昭和20)年、戦局は絶望的になっていました。5月には同盟国の独が無条件降伏し、6月には沖縄守備軍が全滅しています。そして7月26日に連合国はポツダム宣言を発表して日本に無条件降伏を迫ったのです。そんな中、米、英、中国が発したポツダム宣言にソ連の名前がなかったことから、時の鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」し、ソ連による平和仲介にいちるの望みをつないだのです。
米国はこの「黙殺」を日本は「拒否」したと解釈。後に、これが原爆使用やソ連参戦の口実に使われることになりました。日本の最高戦争指導会議は、「国体の護持」「武装解除」「無条件降伏」に対する意見が揃わず、ズルズル時が過ぎて行きます。
その様な中、8月6日広島市に原爆が投下、15万人の市民の命が失われてしまいました。8月8日には、平和工作を頼んでいたソ連が日本に宣戦布告し9日未明ソ連軍の侵攻が始まります。9日の最高戦争指導会議の最中、長崎市にも原爆が投下され7万4千人の市民の命が奪われてしまいました。ここに至っても、「国体の護持」「武装解除」「無条件降伏」に足並みは揃わず、ただただ時間が過ぎ、戦争終結への動きは遅々として進みません。
8月14日午前11時からの御前会議で、昭和天皇は「これ以上戦争を継続することは無理と考える」「国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ」と、二度目の御聖断を下し、終戦の流れは覆されなくなりました。これを受け、ポツダム宣言受諾を決定し、連合国側に通告しています。13時過ぎから「終戦の詔書」作成に入り、同時に玉音放送の準備に入ります。しかし、終戦詔書案は、戦局の表現等でまとまらず、20時過ぎにようやく終戦詔書が決まり浄書作業に入っています。そして8月14日23時過ぎから玉音放送の録音が行われました。
日本国民及び戦地にいる将兵には、1945(昭和20)年8月15日の正午に昭和天皇による「終戦の詔書」の朗読の放送(玉音放送)が行われ、この放送によって、多くの国民が日本の敗戦を知りました。
「日本で最後の空襲」と呼ばれている空襲が秋田県でありました。終戦前夜の1945(昭和20)年8月14日 午後10時半頃から15日未明にかけて、秋田市土崎地区は約4時間にわたり激しい空襲を受けました。攻撃目標は、当時の日本で最大の産油量をあげていた日本石油秋田製油所でしたが、近隣の民家も多大な被害を受けました。グアム島を出発したB29爆撃機を中心とした約132機が1万2047発、953.9トンの爆弾を投下、犠牲者は氏名を確認出来た一般市民91名、軍人50名に、確認できない人を合わせると250名以上を数え、製油所のほか104戸が全焼、及び全半壊しています。
歴史に「もしも」は無いのでしょうが、どうしても「もしあの時」ズルズルとして体面を繕うような無益な議論を重ねていなければ、広島・長崎はなかっただろうし、15日早朝に特攻機で若い優秀な人材を失わずにすんだだろうし、日本各地への空襲で命を失い身体に傷を負わずにすんだだろうに、としまいます。
コンコルド症候群という言葉があります。金銭的・時間的・精神的に多額の投資を行った案件に対しては、それが損失を生むであろうであることが判明しているにも関わらず、それまでの投資を惜しみ、さらに投資を続け損失を拡大してしまう事を、超音速旅客機・コンコルドの商業的失敗に由来してこう呼ばれています。
日本の終戦末期の「決められない」「受け入れられない」「体面」(メンツ)等々の失敗が引き起こした史実を、私たちは大人はしっかり顧みて、後世に二度と同じ過ちを犯さないよう教訓として伝える責任があります。こうした責任感は、戦争抑止のみならず、様々な危機に直面したときの冷静は判断に繋がるように思います。
戦争に勝利者はいません。人を殺し傷つけることが合法的に行われる世界に未来はありません。人を憎み疎外する人心に、希望は生まれません。私たちには79年前のことが、今この瞬間に起きています。私たちは、過去を振り返るだけでは無く、今現在の中で、戦争などの行為に直接・間接に関わっていないのかについても考えてみる時間にしたいです。
ユネスコ憲章に「戦争は人の心の中で起こるのものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という一文があります。心に刻みたいと思っている言葉です。また、アフガニスタンで人々の命や暮らしのために自らの命をかけて尽力した中村哲医師は「違いを乗り越えることが大切」とおっしゃっていたそうです。同じような意味なのだと思います。
「戦争」をしていることを「そんなことはありえない」「信じられない」と何の後ろめたさもなく言えるかどうか、それを今回の記事は問いかけているのだろうと感じました。自分に都合がよい時だけ良い顔をして、自分とは相いれないと思ったらそっぽを向いたり不機嫌になる、ということを無意識に、案外日常的にしているものかもしれません。
文中にある『ズルズルとして体面を繕うような無益な議論を重ね』『「決められない」「受け入れられない」「体面」(メンツ)等々の失敗が引き起こした』ということをしていないか、一人一人が自分の心に問い「心の中に平和の砦」を築く努力の上に、真の平和が築かれていくのだろうと思います。
戦争がどうようなものであったか、また現在もどのようなものであるか、ということと共に、あらためてユネスコ憲章の言葉や中村哲医師の言葉も心に刻みたいと思います。