近頃はイラつき悩ましいことばかり!

様々な専門機関は、何のためにあるのかという問いに対して、現実の世界と制度設計の間に距離を感じたり、現状追認に気持ちが向いたり揺れ動くのです。

先日、南三陸町に出向き、10月25日26日に開催される「小さな社協のこだわりフォーラム」の打合せに行ってきました。その際、パネラーになっている行政の方とお話し合いをしたのです。その中では、いったいどのような経緯で南三陸町社協が行った被災者支援システムが出来上がったのだろうかと、当時を思い返しながら振り返りました。

その中で、私を引き受けた、13年前の保健福祉課の被災者支援担当課長補佐は、振り返ってくれたのです。実は、被災者支援の具体的な話はしなかった。私から聴かれたのは、「南三陸町は何を目指している町ですか」「町民の自治意識は高いですか低いですか」「住民の気質は」「補佐は何をしたかったのですか」等々が矢継ぎ早に聞かれた。これを一日の仕事が終わると夜遅くまで話し合ったというのです。

私の記憶とも符合する内容で、二人で見合わせ笑ってしまうほどでした。何か、フォーラムの打合せだったのですが、一瞬にして当時の状況に戻り、お互い熱く語り合ってしまいました。補佐の中では、常にその間に南三陸町民がいて、彼らをこの瀕死の状況から救い出し、彼らの想いを形にする為の方策を様々議論していたのでした。これこそが行政の姿と、深くふかく感心し共感するのです。

そんな気持ちから冷めないまま家に帰り、地域内にある様々な課題に向き合うと、何とも歯がゆい現実が立ちはだかります。専門機関にも、相対する住民側にも、なんともスッキリしない現実が有り、「なぜそうなるの?」「どうしてなの?」「何処に行きたいの?」「誰のためなの?」等々が止めどなく浮かび、出てくるのはため息ばかりです。

信頼している人の言葉に落胆し、期待している人の振る舞いに慢心を感じ、いったい誰と組んで地域力を高める為に汗をかけば良いのだろうか。それぞれの内部事情が優先して、住民が不在になってしまっているような気がしています。何の作為も持たないと思っている振る舞いも、自信満々の振る舞いにも、何か釈然としない。私はいったい何をしているのだろうとか、こうした受け止め方に意味があるのだろうか等々、気持ちが落ち込む一方です。

私は、世の中の組織・機関や仕組みの全ては、地域住民の安心安全の担保にあると考えています。きっと、こうしたことに誰も異論は無いと思うのです。でも、現実の姿を見ると必ずしも共有されているわけではないのです。

東日本大震災では、国(内閣府)が被災地まで足を運んで、NPO等の団体を引き連れて言うのです。この様な団体に委託してサポートセンターを設置し、そこに専門職を配置して相談にあたらせてくださいと。被災者がその様な専門職の所に行って大変な状態を少しでも早く解決してもらいなさいと言うのです。

それを聞いて、私は『ダメだ』と思い、南三陸町被災者生活支援センターは、生活支援員という生活を支えるお手伝いをする職員を、被災者の生活の場(応急仮設住宅)に出向かせて彼らの生活を支えようとしたのです。即ちアウトリーチ型の被災者支援システムを設計して行政に提案したのでした。この時は、大変だったけどノーストレス。

平時の今でも、私の姿勢に変わりはありません。出来るだけ生活者の元に足を運び、生活の場で事を進めようという考え方です。「人々の中へ」という詩そのものです。先日見た中村哲さんの映画でも、彼のそうした姿勢に共感を持って観させていただきました。中村哲さんの住民の住む現地に足を運び、中村哲の活動は現地に戻す(地域で出来るようにする)ことを徹底していたように思います。ベクトルの方向によって使う資源や仕組みは全く異なるのです。私は、このことをまざまざと見せつけられたように思っています。学んでいるはずなのですが、「優柔不断」な私は、そのことを徹底できていないもどかしさがあります。いったい、世の中の様々な機関と、地域社会の人々と、何より友とどのような付き合って行けばよいのか、答悶々と否定増す悶々としています。

『論語』為政第二の四では「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」(70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事が無くなった。)とあります。しかし、思うままに行動することさえ出来ないでいます。民生委員児童委員をするようになって、こうした葛藤の場面がとみに多くなっているような気がしています。多くの人に共感を求め様とは思わないのです。せめて心の通じる友と目指すところを共感共有しながら、生涯を伴に歩みたいものです。残された時間をそのような振る舞いで没頭出来るようになりたいのです。そんなに難しいことだとは思っていないんだけどな~・・・!

フォーラム打合せ(丸々一日かけて3セッションの登壇者へ設計意図を説明し意見交換)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

近頃はイラつき悩ましいことばかり!” に対して2件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    先週の金・土の二日間,『小さな社協のこだわりフォーラム』に参加してきました。

    この8月2日に書かれていた,13年前に知り合ったという,『私の記憶とも符合する内容で二人で見合わせ笑ってしまうほどでした。何か、フォーラムの打合せだったのですが、一瞬にして当時の状況に戻り、お互い熱く語り合ってしまいました。補佐の中では、常にその間に南三陸町民がいて、彼らをこの瀕死の状況から救い出し、彼らの想いを形にする為の方策を様々議論していたのでした。これこそが行政の姿と、深くふかく感心し共感するのです』と書かれていた,当時の担当補佐さんにお会いできたらなと思っておりましたが,第一セッション「担い手になった被災者たち」の登壇者のお一人でした。

    お話の内容は,先生がここに書いてあることと同じことを,当時の補佐さんも感じていて,『この人(先生)なら信頼できる』と思い,『ちょっと無理じゃないかな・・と思ったことも,大丈夫と思いながら信頼して任せてきた』というようなことを懐かしそうに,とても嬉しそうに語っておられました。

    もし,どちらかがいなかったら,もしくは出会っていなかったら,南三陸町の『被災者生活支援センター』はできていなかったとも!

    素晴らしいめぐり合わせだったのですね。
    でも,めぐり合うべくしてめぐりあったのだとおぼし召しを感じました。そして,お話をお聴きしながら,ああ良かった!と心からそう思いました。

    元補佐さんは,最後に総務課長をなされて退職し,現在は3.11メモリアル伝承館顧問をなっているようですね。まだ,伝承館の上の方を見たことがないので,今度,そこを見学がてら,ご挨拶をしてこようかと思っています。

  2. ハチドリ より:

    暑い日が続きます。
    そんな中,南三陸町での「小さな社協のこだわりフォーラム」の打合せ,お疲れ様でした。
    13年前の町の保健福祉課の被災者支援担当課長補佐さんが当時のことを振り返ってお話をしているシーンからドキュメンタリー映像が始まる・・と,勝手に妄想していました。

    さて,今回の記事に対して,場違いなコメントかもしれません。
    土曜日に「地域防災」の研修があり,その時に『言葉とコミュニケーション』ということについて聴いた内容を多くの方にも知ってほしくて,すみません,この場をお借りさせていただきます。

    ーあるメールでー
    件名:瑞夏だよ
    本文:今はこんな形でしか伝えられないけど,いつかきっとあなたに直接伝えたい。私はあなたを心から愛しています。

     これは,2008年のある携帯会社の『iのあるメール大賞』で賞をとったメールだそうです。
    こんな内容のメール,ラブラブのカップルなら普通にどこにでもある内容かと思います。

    でも,どういう理由でこれが賞をとったのか。
    このメールの背景には,こんな物語があったのだそうです。

    『2年前,彼女は事故で首から下の自由が利かなくなり,言葉もしゃべれなくなりました。これは,彼女が病院でペンをくわえ,友人の携帯のボタンを必死に押して書いてくれたメールです。
    身体と発声の障害は重いのですが,一生懸命リハビリをしている彼女から直接言葉が聴けたとき,結婚しようと思っています。』

    こんな物語があってのあのメールの内容,この数行から,私は深い『信頼関係』と『愛』を感じます。審査員の皆さんも同じだったのではないかと思います。

    研修では,以下のようなことも話されていました。
    ・何か災害とか起きた時など,近所の人たちと行動を起こすときにまず大切なのは「日頃からの信頼関係の構築」であること。何気ない一言で思いが伝わることがある。その逆もある。コミュニケーションを支えているものは『信頼関係』であり,それが築かれているかどうかで決まってくる。
    ・また,ものごとの捉え方は1つではなく,わかっていても錯覚は起きるし,そう言われれば,そう思えたりもしてくる。異なる見え方,異なるわかり方,異なる意見もまずは認め,最初の段階で拒絶はしないようにしよう。
    ・受け手は,その人の心で言葉を理解している。受け手がどのように受け止めるかによって言葉の意味・価値は異なってくる。
    ・言った側は良かれと思って言ったとしても,受け手がその言葉で傷つくこともある。

    一つひとつが日常に中で自分にも身に覚えがある感じで,講師の話を自己覚知しながら聴いていました。そして,『信頼関係』=信じて頼るってどんなふうに構築していくものだろうと改めて考えたりもしました。それは,さりげない挨拶,誠実に対応,物事に真摯に向かい合う,約束を守る,知識も優しさもある,愛がある・・さまざまなことが頭をよぎりました。

    本間先生は民生委員になられて,こまめな訪問や『小さなおせっかい新聞』なども毎月発行,住民の方から相談事を持ち込まれることも出てきて,それは地域の方たちとの信頼関係が構築されてきているということなのだと思います。それでも,なかなか思うようにいかなかったり,イライラすることも多いでしょう。そんな時に支えになるのは,『そうだよね」と話を聴いてくれる信頼できる人との対話でしょうか。
    『せめて心の通じる友と目指すところを共感共有しながら、生涯を伴に歩みたいものです』という先生の気持ち,私は大切なことではないのかと思うのです。

    今日も暑くなりそうですが,うまく乗り切っていきたいですね。

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