10余年前の記録(奇跡のおばちゃんたちの足跡)

特に急ぎの調べ物では無かったのですが、県立図書館に久しぶりで行きました。以前には、何かといっては、レストランでランチをしたりしながら緑の濃くなっていく庭を眺めたものです。

図書館に行って、本を探していたら何となくだけど、震災後に南三陸町被災者支援センターを開設して、生活支援員さんの活動の振り返りの為に、毎月活動報告を作成し報告し合う「月例会議」のことを思い出しました。この報告書は、生活支援員となった南三陸町民が、知恵と汗を流しながら書き綴った記録です。

私はこの記録を後世に伝えたくて、県立図書館や東北大学図書館等々に、貴重な資料提供として郵送していました。被災者生活支援センターが設置されたから程なく提供し始めたので、約10年分、東日本大震災の記録として宮城県立図書館に保管されています。東北大学の中央図書館にもありました。

いつの時か、生活支援員さんの孫たちから、「学校で東日本大震災のことを教えてもらったけど、おばあちゃんはその時何をしていたの?」と聴かれるときが来るように思います。そのような時、「実はね、おばあちゃんは生活支援員として被災した人達のお世話をしていたんだよ」って語ってもらいたいです。そして、「おばあちゃんが書いた記録が仙台にある宮城県図書館にるんだよ、見に行こうか」って。

そして、仙台に来たときに宮城県図書館に立ち寄り「南三陸町被災者支援センター生活支援員月例会議報告書」を見せてもらいたいと思っています。きっと孫たちは、おばあちゃんを尊敬のまなざしで見つめ、学校に行って、「家のおばあちゃんは・・・」って誇らしげに語ってくれることを夢見ています。

月例報告書には、見守り活動の詳細な記録の他に「ミニコミ誌」と名付けたミニ新聞が綴られています(写真)。毎週作成し仮設住宅に配っていました。その後、1ヶ月に一回となり、いつしか作らなくなってしまったようです。写真を添えて様々なエピソードが綴られています。また、今の時期だと「熱中症予防」に関する注意喚起や対策方法などが書かれていました。面白かったのは、クーラのリモコンの使い方が①電源を入れる②クーラーを選ぶ③温度設定④完了等と図解入りで説明していました。クーラーを付けようとして暖房になっていた事例があって、支援員さん達は速攻で図解入りの分かりやすいマニュアルを作ってくれたのです。

読み進めると、10年も前のことが手に取るように思い出されます。それだけ、当時の生活支援員さん達は、被災者にしっかり寄り添い観察して記録をしていたのです。

これまでは、簡単に手の取って読める開架でだったのですが、現在は、書庫で大切に保存されており、窓口に申請しないと手に取ることは出来ないようになっていました。パソコン検索で冊子を申請し読んでみましたが、一瞬で、書かれているときの様子が頭に浮かび、自分でもビックリしてしまいました。

私は、自分で保管していた分は、印刷業者に頼んで製本して頂き、南三陸町社協に寄付してあります。いつか、研究者の目に止まり、貴重な一次資料として活用して頂けることを願っています。更には、「市民的専門性」という言葉を生み出した、南三陸町民の東日本大震災との向き合い方を、減災の一つの姿として人々に語り継がれていくことを願っています。

サテライトセンター毎に毎週発行していたミニコミ誌
平成24年6月開催「月例総括会議」資料で5月分を振り返ります
裏表紙は、マスコットキャラクター「仮設ちゃんと仮設くん」
仮設住宅の訪問から戻り記録に取り組んでいる生活支援員
戸倉サテライトセンター(2012/03/12)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

10余年前の記録(奇跡のおばちゃんたちの足跡)” に対して6件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    これは懐かしい記録です!
    各サテライトで発行していたミニコミ誌は、近隣の仮設住宅間でなかなか交流がはかれていなかった為、それぞれのちょっといい話や周辺地域の話題などを紹介するために発行していました。

    ある時、大型台風接近に伴って裏山からサテライトと仮設住宅に向かって、雨水が小川の様に流れてきていました。住民達は、水害を特別に恐れていましたから「支援員さん達が帰った後、何かあったらどうしよう」と不安を訴えていている中、後ろ髪を引かれながら帰宅しました。

    翌朝、雨は上がりましたが、早めに出勤すると、みなさんが一斉に集まってきて「昨夜夜中にこの辺の消防団の人達が重機を持っでやってきて、仮設住宅に水が流れないように溝を掘って行ってくれたんだよ」との事でした。それが有難くて、すぐに消防団長さん宅にお礼に伺うと「この辺では、それが誰の家でもみんなで助け合うのはあたりまえの事だから」と、本当に何事もなかったかのようにサラッと受け流されたのです。

    お世話になった私達は、これを沢山の人に伝えることでお礼にしようと決めました。早速、ミニコミ誌に写真入りで団長さんのことを記事を書き、7箇所の仮設住宅は勿論のこと、臨時で地域の全戸にも配らせて頂きました。この様な事を通して、地域と仮設住宅の交流のお手伝いをしていました。

    こうした被災者支援センターでのミニコミ誌発行の経験は、先日の「縁側日和かわら版」創刊号発行に大いに活かされています。

    先生、今度私も県図書館に見に行ってきます。そして、孫たちがいつか興味を持ってくれるのを楽しみに待ちたいと思います。支援員達の汗と涙の記録を大事に保管される場所に預けて頂いて、ありがとうございました🙇🏻‍♀️

    1. スマイル より:

      鈴虫さん、消防団長さんのお話にぐっときて思わず涙がこぼれそうになりました。「みんなで助け合うのは当たり前のことだから」なんと素晴らしい言霊なのでしょうか。私も胸をはってそう言えるようでありたい、そういう人生でありたいと思いました。

      ぜひぜひ、県図書館へ。その時はぜひ前もってお知らせを。一緒に見させていただきたいです。

      そしていつか、お孫ちゃんとご一緒に・・・子孫に残せる何よりの財産ですね。素晴らしいです。それらを影となり日向となり導かれた本間先生も本当に素晴らしいです。ありがとうございました。

    2. いくこ より:

      鈴虫さん
      当時のことを話してくださってありがとうございます。
      「あたりまえのこと」便利になり、たいていのことはお金で解決できるようになって、ちょっと手を貸すということが、だんだんと手を離れていく気がしていました。
      消防団のみなさんの姿が胸に迫る思いがします、それを伝えるということが、皆を繋いでいくのですね。
      みなさんの在りように感謝したいです。

    3. 鈴虫 より:

      スマイルさん、いくこさん
      支援員の地域との関わりにご理解と共感のコメントをありがとうございます。

      震災で立場が分けられた仮設に住む人達と地域住民が、どうしたらわだかまりなく、皆同じ南三陸町民だという気持ちで関わることが出来るかを常に頭に置いていました。
      その様に意識しながら活動する事で、支援員がどちらか一方だけを向いて壁になってはいけないと考えていました。
      そんな時の支援員は黒子でした。

      幸い、私達の活動の場は被災を免れた入谷地区で、昔ながらの景色と人々の営みが残る温かい地域でした。
      そこに仮設住宅がいくつも建設され、地域の人々は何か力になりたいが出過ぎてはいけないと躊躇している様子でした。
      それを知った支援員が繋ぎ役として入ることで、少しずつ交流が生まれていきました。
      当時、地域からの提案は「農地を提供するから一緒に畑をしないか」「果樹園の繁忙期に手伝いを頼めないか」など、決して可哀想だから憐れむというものではありませんでした。
      私達は行く先々で、真心いっぱいの地域のみなさんに大切なことを沢山教えて頂きました。
      今でも私は南三陸町入谷地区のみなさんに、感謝と尊敬の念を抱き続けています。

      この様なこぼれ話もこのhpをご覧のみなさんに紹介出来ること、有難いことです✨

  2. いくこ より:

    素晴らしいおせっかいですね。
    実際に活動されたみなさんは夢中で過ごして、ご自分がどれほど素晴らしいことをなさっているかを感じていらっしゃらなかったのではと思います。
    後で紐解くことが出来て、まして後世に残すことが出来るなんて幸せなことですね。
    そしてやっぱり実際に行われたことを物語のように読むと理解が深まるのではと思います。
    ありがとうございます。

  3. ハチドリ より:

    常々思うことがあります。
    それは、大きな災害を経験して様々な活動をしたり考えたこと、後世に残したいことは、ぜひ、平常時に多くの人に見聞きしてもらい、「これはいいね。」と、語り継いでいってほしいという事です。手に取って読める開架の所に「今だからこそ読んでほしい」みたいなコーナーを作ってもらって、『月例総括会議』も一部でもそこにあったらいいですね。

    少し前、親友のみなさんと一泊で出かけたことがありました。お部屋に着いて「さあお茶でも一服しよ」の時に出た第一声は、「本間先生の作るスライドショーって、本当にいいよね。なんか、見る者の心に響いてくるって言うか・・」でした。そして、美味しい夕食を食べ、シャンパンでほろ酔いになり、部屋でフルーツ盛り合わせを食べていた時、夜も更けて、さあそろそろ寝る時間よねという頃の会話は、「本間先生には長生きしてもらわないと!」でした。
    それは、配役まで決まっていた?『南三陸町被災者支援センターを開設して行った生活支援員さんの活動』のドキュメンタリー映画を製作したいと言う夢を実現してもらうためです。よしんば映画は難しくても、今まで撮った写真や動画でスライドショー製作でもいいのではないか。「そういう、ビジュアルで作ったものをたくさんの人に普段の時に見てもらったらいいよね・・」という話がその晩の締めくくりでした。
    そんなスライドショーを見たら、孫ちゃんたち、感激するでしょうね〜!

    「本間先生には長生きしてもらわないと!」
    あの日は先生、夕方からずっとくしゃみをしっぱなしだったのではないでしょうか。
    だとしたら、そのくしゃみはアレルギーではなかったと思います(笑)

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