南三陸町被災者支援で出来なかったこと(「定点撮影」)
東日本大震災後の南三陸町は、震災直後こそ痛々しいまでにその爪痕を残しましが、がれき撤去や住宅の基礎の撤去が進むと、自分の住まいの場所さえも分からなくなるほど街の様子を変えていきました。
災害公営住宅の整備に合わせて、山は削られ宅地が造成されていきます。道路は付け替えられ、仮設道路と新設道路がめまぐるしく位置を変え、元の街の様子が時々刻々と変わっていきます。お年寄りは、「復興したら別の町になった」と言うほどです。
このような状況から、町の様子の変化を記録しておく必要があると思い、南三陸町内10カ所程度を「定点撮影」しておくことを提案しました。理由は大きく二つです。其の一つ目は、復興過程の町並みを記録しておくことで、被災時の南三陸町と復興後の南三陸町をつなぐ役割を持たせ、復興が着実に進んでいることを住民に示し、未来への希望を持たせようと考えました。其の二つ目は、町外に避難している方々や移動手段を持たずに、町が変わっていく様子を見ることにできない高齢者等に変化の様子を伝え、町への愛着を断ち切らないようにしたかったのです。
しかし、説明が悪かったのか、「定点撮影」に対する意味や価値を持っていただけず、この事業は進みませんでした。
東日本大震災は、町の様子を劇的に変えました。その変化にはそれぞれ理由と目的があります。より安全で安心な生活の営みを願って設計されています。このようなことを読み取る意味でも復興過程の変化を残しておくことがとても大切だと思っているのです。過去と現在のつながりがなくなると人々の精神的安定感が揺らぎます。それを防ぐためにも必要だったのではないかと今でも思っています。
先日(5月22日)に南三陸町に行った折に、南三陸町東日本大震災伝承館 南三陸311メモリアルに行きました。その際、役場付近を中心とした志津川の町並みが個々の住宅の名前が付された模型で展示されていました。また、其の付近で生活されていた方々が持っていた写真が展示されていました。それを見ると、当時の生き生きとした暮らしの営みが蘇ってくるようでした。このような企画をみても返す返す残念な気持ちになってしまいます。