少し思うところが有り、辞書をめくっていました。
少し思うところが有り、辞書をめくっていました。ここ数日、「志(こころざし)」の高い方々の振る舞いを見て、普段使っている志って、どの様なことを指すのかとか、その志の基(物事の根幹や土台)には何があるのだろうって改めて考え始めたのです。
地域福祉を市民レベルで考えてもらおうと学びの場CCSW(市民コミュニティ・ソーシャル・ワーク)を立ち上げ、直近では、東京電力福島第1原子力発電所事故の被災者支援を行っている方や地域福祉を市民レベルで考えてもらおうと学びの場を設けているCCSW(市民コミュニティ・ソーシャル・ワーク)の受講者をコーディネートして、宮城県及び岩手県の被災地で活躍している方々の声を直接聴く2泊3日の弾丸ツアーを企画実施しているダクルスさん。
東日本大震災後直ぐに、ご近所同士の助け合いの大切さを身に染みて感じて、この灯火を消してはいけないと、数人の仲間で始めたNaritaマルシェの増田さん。活動の範囲は、多義に渡り、中学校支え隊活動、富谷ユネスコ、学校に馴染めない子ども達を支える新たな枠組みで教育を行う場やそこに一筋の希望を見いだしている保護者の支援等々、様々な分野で活動しています。活動範囲は非常に多義に渡るのですが、地元に軸足を置いてそこから一歩も動こうとしないのは、私が最も共感する所です。
あたりまにあった言葉「おせっかい」が、死語になりつつある中で、あえてこれを口にし振る舞いに移そうと「OOC」(おばちゃん・おじちゃん・・・おせっかいクラブ)を立ち上げて「世界大会」までやっている鈴木さん。更には、大変なときには、それに手を添え勇気をもらえるようにと「ともしび」バッジをデザインし製作しています。この試みは、多くの共感を呼び覚まし、プラットホークになっているhpは時空を超えた「女子会」状態です。こうした中で、これまで口に出来なかったことを聴いてもらえる仲間が出来て一気に開花している感じがします。
福島浪江町では、「浪江ねっぱす隊」が組織され、よそ者と地元のキーパーソンが連携して、様々な課題に取り組んでいます。ここでは、自らの専門的スキルは表に出さずに、ひたすら地元の方々の声や想いを出発点にした「寄り添い」の中で、明日に希望を持てるように、その解決の糸口を一緒に解きほぐしています。本来の持続可能性を意識した「自律支援」とは、この様な姿を言うのだろうと思っています。
根っからお世話が苦にならない処に自らの体験が加わり、「がんサロン」を計画し、着々と準備を進め、山が萌黄色になり始める三月にはプレオープンし、四月からは定期開催を目指していると聞く高橋さん。四面楚歌の状況から、「がんサロン」という場を通して想いを共にする仲間ができ、新たな視野で活動が進めらそうで、楽しみしかない感じす。
南三陸町の高橋さんを始めとする「奇跡のおばちゃんたち」は、幾度となく触れているので、ここではかきませんが、志の高い代表的存在です。
まだまだ一杯、この様な方々がいらっしゃいます。このような方々は、使い古された言葉で表するのであれば「志が高い人たち」ということになるのだろうと思います。そこで、改めて「志(こころざし)」って何なのだろうと思ったのです。
志(こころざし)とは。『心の向かうところ。心にめざすこと』(広辞苑:第七版)。『ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標』(大辞泉)。字統(著者:白川静)は、漢文の基礎知識が無くて書いてあることの意味が分からなかった。私が好きな辞書「新明解国語辞典」では、『人生においける、その人としての到達目標。理想。』とあります。私は最後の説明が比較的しっくりくるように感じています。
でも何か、辞書の説明だけでは、十分にこの方々を理解することは出来ないような気がします。なぜなら、彼らには共通して「気負い」を感じないからです。「こうと決めたらトコトンやり抜くぞ~」とか「脇見もせず一点を見つめて突き進む」とか、いわゆる肩肘張った印象がないのです。
共通しているただ一つは「気づいたからやっている」ということだけのように思います。
この「気づいた」人は、結構いるように思います。しかし、その気付きを形にする、実行に移す人は、そうそういないのが現実です。では、気づきを行動に移せる、上記の方々は、他の「見過ごす人」「見て見ぬ人」と何が違うのでしょうか。このようなことを考えている中で、ようやく志の意味が見いだせたような気がしたのです。
この「こころざし」の心は、外に向いているのではなく、自分自身の心への問い!として向けられたのではないかと思ったのです。
「あなたはこのままで良いと思うのか」「あなたにできることはないのか」「今でなくて明日でも良いことなのか」等々の自分自身からの問いに真摯に向き合ったということではないかと思ったのです。
私は、東北学院大学人間科学研究科で修士論文を書いているときに出会った保健師さんに教わった言葉に「心が動けば身体が動く」と言うのがあります。当時、この言葉を教えて頂いた時は、高齢者の自律支援に関わる場面での事なので、介護等々の文脈で使われていたのだと思います。でも私は、この言葉はあらゆる部面につうじる言葉として、様々な機会に使わせて頂いています。
まさに、今書いていることでも、この「心が動けば身体が動く」がつうじるように思うのです。自分の心の中で自分と会話してやるべきことを見いだす。そうすると、目の前にある事柄にたいして、自分のやれそうなことを探し始める。このようにして心が動いて身体が動き始めたのではないかと。更には、その時、自分一人ではなく、「仲間」の存在が、大きな支えになっていると思います。換言すれば、「共感」が力を沸き起こさせ、想いを形にするとても大きな力になっている。
また、「共感」と共にもう一つの大きな要素に「利他」があるように思います。何もないところから「心が動く」のは希のように思います。心が動く人たちには、「人様にお世話になった体験や感謝」があると思っています。諸々の受けた恩も対する感謝や恩送りの気持ちが、行為を起こす大きな力になっていると思うのです。
また、恩を受けたことに対する「感度」も影響しているように思います。こうした「利他」のつながりが、心を動かす力にもなっていると思います。
私たちは地域社会が、より住みやすい優しさと潤いのある社会を築くために様々な活動・振る舞いをしています。そうしたとき、この「心をうごかす」為の「仲間づくり」「共感の場づくり」「感度を高める知る機会」。こうしたことを、身近な生活の足下にしっかり置いておくことが大切になってくるのかも知れません。心を動かす要素となることを、地味に丁寧に醸成していく、そのことが新たな「志(こころざし)」を生み育てる土台としての地域づくりの要なのかも知れません。
私は、そんな場に関わらせてもらえたら、これに勝る幸せはありません。
私は先生のhpを通じてご紹介いただいているみなさんのそれぞれの地域活動に、大いに刺激を頂いております。
私も常々感じておりました、志の高い人とは自ら気がついた課題解決の為に持てる限りの力を発揮しておられ、その姿勢から学ぶところが沢山あります。
さらに、課題解決の過程でさらに別の課題が見えてくると、それも放っておけず何とかしなくてはと手掛けることになるようです。
この何とかしなくてはという気持ちが共感を呼び、点から線へ、線から面へと活動の幅を広げ仲間を増やすことに繋がっているようです。
私はみなさんのお話を羨望の眼差しで追い続けるばかりで、まだ自分が主体となって活動を始めていません。
これではいかんと思いつつ、でも焦ることなく今自分に出来ることを一つひとつ行っていきます。
私の現状は本物の地域活動に触れて学ばせて頂きながら、いつでも動き出せるような体幹を鍛えている最中と捉えています。
みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。
おはようございます。
今朝もじわ~っと胸があたたかくなるお話ありがとうごさいます。
しばらくコメントお休みしてましたが、歯の治療でじたばたしていたせいです。そろそろ良いようなので、またおじゃまします。
先生、そろそろお味噌の天地返しして下さいね。
素晴らしい講話のあとにさもない書き込みで失礼します。