宮城県内をくまなく車を走らせた訪問型支援員(其の二)

前回お伝えした訪問型支援員の続きです。東日本大震災では、大規模化、長期化そして広域化という、これまでに無い特徴を持ちます。訪問型支援員制度は、こうした新たな災害規模に対応する為にはとても大切なシステムであったと振り返っています。しかし、各被災地域に整備された「震災伝承館」を見ると、こうした東日本大震災のこれまでに無い特徴である「広域化」「長期化」について触れている記述や展示がほとんど見当たりません。

その理由は、私には分かりません。しかし、従来の被災地にある災害の様子を伝える施設とほぼ横並びになっているところをみると、地震のメカニズム(天災)と「避難」の重要性を訴えることに重きが置かれていることに間違いは無いようです。

では、東日本大震災被災地での伝承館は、いったい何を「伝承」するのでしょうか、何を教訓として後世に伝えようとしているのでしょうか。地震のメカニズム(天災)については、特に「伝承」という扱いで無くとも、十分これまでの学校の学習(理科・地学)で学んでいけます。残る「避難」につては、「高台に逃げる」これに尽きます。

非常に長い期間避難生活を強いられる、これまで住んでいた場所(市町村や県を超えて)を離れなければいけない。こうしたことによって、人命や建物など目に見えて認識しやすい喪失だけでは無く、人と人との関わりを失う、故郷を失う、伝統的生活習慣を失う等々、目に見えない喪失がとても大きいのです。これを何とかして懸命につなごうとした、従来には余り問題視されてこなかった新たな支援が東日本大震災ではとても重要な役割を果たしていると思うのです。

前にも書きましたが、当時、被災者支援の対象は、応急仮設住宅で不自由な生活を強いられている人に目が向けられ、親族の側に移り住んだり、買い物や通院に不自由しない場所でアパート暮らしする被災者は、「避難生活をしている」という視点は弱く、「自己都合」で町を離れ生活をしているという感覚で見られがちでした。こうした考え方を変えて、被災者を生活の場で区別することの無い支援を行う必要があると考え、南三陸町では「訪問型支援員」を設け、南三陸町を離れて避難生活を続ける人々を支えたのです。

東日本大震災後に被災地に整備された「震災伝承館」は、後世に何を伝えるのでしょうか。地震のメカニズムと避難の記録や展示しか無い伝承館で、東日本大震災で学んだことを後世に伝えられるのでしょうか。震災関連死は、1995年阪神淡路大震災では921人(神戸新聞2022/01/07)、2004年新潟県中越地震では52人。2011年東日本大震災では3,789人(復興庁2022/06/30)です。地震・津波後の長い避難生活でこれほどの方が亡くなっています。

高い確率で予測されている南海トラフ地震では、東日本大震災以上の被害が予測され、避難生活の長期化や広域化は避けられません。こうした事態への備えとして、私たちのところにある震災伝承館で、それへの対応の仕方や備えの有り様を伝えることは出来るのでしょうか。多くの地域住民が被災者支援の第一線に立ち、長い復興過程を地元町民として支え続けていることを伝えることは出来るのでしょうか。なんとも心細い感じがしてなりません。

東日本大震災で起きた避難生活の長期化や広域化を知っている私たちは、これを後世に伝える「被災地責任」が有ると思います。今すぐにでもできることは、私たちから、子ども達へ東日本大震災で学んだことを伝え、彼らの言葉で「伝承」してもらう。長い目で見たとき、こうした身近なところでの伝承も大切では無いかと考えています。もうすぐ、12年目の3.11が来ます。この様な機を逃さず、家族内での「伝承」を行ってみては如何でしょうか。

ナビを頼りにアパート(見なし仮設)を探す訪問型支援員
見なし仮設の方々の様子を報告する方も聴く町長も涙が止まらない(2014/02/14)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

宮城県内をくまなく車を走らせた訪問型支援員(其の二)” に対して3件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    訪問型支援員が見なし仮設のみなさんから託された想いや発言を町に直に伝える様子と、それをしっかりと受け止める町長の感極まった表情が胸に迫ります。

    人々の心を打つシーンを記録出来る位置にいつでも本間先生はいらっしゃったということです。南三陸町民より更にコアな場面をたくさん見てこられたのですね。

    普段から地べたの虫の視点で細部まで観察し人々の声を拾い上げ、またある時は鳥の視点で全体を俯瞰的に見ている。その様にどっぷりと、でも誰よりも冷静に町のいく先を見据えて町民の手を引いてくださいました。私は先生のその献身的な利他の行為に、何度も何度でもお伝えしたいです、ありがとうございました。

    この町には先生が先導してくださった『町民による町民のための支援体制』があります。これは何処へ出しても誇れる、また災害から立ち直るために必須の営みです。私達町民が胸を張って世の中に伝承しなければならない貴重な体験だと思います。

    伝承館で全てを伝えることが出来ないならば、町民一人ひとりが伝承の一助となり、「この町に来れば何処からでも、誰からでも学べる」と言われるようになりたい、ならなければと心に刻みます。

    それがあの日から私達に課せられた大きな宿題なのだと思います。

    1. スマイル より:

      今回の記事と共に、鈴虫さんのコメントにも胸が熱くなりました。『普段から地べたの虫の視点で細部まで観察し人々の声を拾い上げ、またある時は鳥の視点で全体を俯瞰的に見ている。その様にどっぷりと、でも誰よりも冷静に町のいく先を見据えて町民の手を引いてくださいました。』という言葉にすべてが凝縮されているように思います。

      本間先生の県職員時代の経験、社会人大学生として学んだ日々、博士号まで取得した学び続ける姿勢、そしてそれらをずっと支えてきた信念や情熱が結集されたのですね。当時、どんなにざわついているところでも必要な言葉だけ耳に入ってきた、というようなことをお書きになっていたと思います。それまでの経験に加え、その場で発揮された本来人がもっている潜在的な能力や可能性まで動員されていたのだと感じたものです。

      こうして、南三陸町の方達が感謝を伝えてくださること、今でもしっかりと想いが受け継がれていること以上の喜びはないであろうと思い、記事と鈴虫さんのコメントに深い感銘を受けています。

      1. 鈴虫 より:

        スマイルさん

        今回のコメントに、無我夢中で過ごしていた当時の私が労われています。ありがとうございます。

        先生の記録記事に関する私の体験を書込みすることは、私の伝承活動のひとつのつもりです。こうして当時を振り返り、様々な場面でどんな気持ちだったかを思い出すことは、鼻の奥がツーンとするような少ししょっぱくて苦い感じがあります。でも、どれも貴重で大切なことばかりですので、ここでみなさんと共有出来ることがとてもありがたいです。

        この先、いつでも何処にでも降りかかる可能性のある災害です。その発災直後は、地域のその場に居る人達で協力して何日かを乗り越えなくてはなりません。そうなった時、私には何が出来るかを考えておかなくてはいけないと、機会ある毎にはんすうしています。

        私の武器は何だ?あなたの武器は?大切なこと、一人ひとりが心して取り組むべきことは、行政からしてもらうことをただ待つだけではなく、個人が地域の為に、みんなの為に出来ることを惜しみなく持ち寄ることではないかと思っています。そうした時、地域の様々な個性ある人材は、無くてはならない宝物になります。

        幸いにも私達はこのhp上に集い、普段から広域的に情報交換出来るお仲間を得ました。正に鬼に金棒!百人力ですよね!

        スマイルさん、みなさん、これからもどうぞよろしくお願いいたします🙇🏻‍♀️

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