全国から駆けつけてくれたボランティア
発災直後から、全国の方々が被災地に駆けつけてくれました。南三陸町の町長は、防災対策庁舎から生還したその日から毎日記者会見を行いました。この為、どの被災地よりも早く、そして具体的に東日本大震災の惨状を全国に伝えることが出来ました。多くのマスコミは、南三陸町に常駐して震災の現状を伝え続けてくれました。この為、これまでほとんど知られていなかった被災地「南三陸町」が全国にその名が知られることになり、多くのボランティアが駆けつけてくれました。
その受け皿となったのは、南三陸町社会福祉協議会が立ち上げた「災害ボランティアセンター」です。毎日300人ほどのボランティアが駆けつけ、社協職員は休む間のなく対応し、被災者の元に送り続けました。其の中心が猪股局長です。類い希なリーダーシップを発揮し、大量の地元ニーズと大勢のボランティアをマッチングし、甚大な被害からの復旧に尽力されました。
南三陸町社会福祉協議会の職員は少ない人数で運営されており、社協職員で大勢のボランティアを捌ける状況にはありませんでした。この為、どこの被災地でも行われていたように、応援に来た県外の社協職員の手を借りながらボランティアセンターを運営しています。猪股局長は、時として「強引」「ワンマン」と評されながらも、意に返すことなく被災者に寄り添うことを第一にしてボランティアセンターを運営していました。私は、震災直後は、それで良いのではないかと思っています。意識の違う人、対応レベルの違う人、外での経験を強いる人等々様々な人と協議しながら進めるというのは、言うは易く現実的ではありません。一方、災害が起きた地元社協の疲労困憊の様子がテレビの画面から映し出されることが多くあります。多くの場合、地元社協が少ない人数で災害ボランティアセンターを運営しています。この為、其の責任者となる社協局長に過重な負担がかかるのです。その点、南三陸町の猪股局長は「受援力」が高く、判断は地元が行い実務は応援の人に任せると言った、極めて効率的なセンター運営を行っていました。
南三陸町災害ボランティアセンターは、2011(平成23)年3月25日に南三陸町社会福祉協議会が設置しています。災害ボランティアセンターは、災害ボランティア活動支援プロジェクト会議(通称「支援P」)、近畿及び中国・四国ブロック派遣の県・市町村社会福祉協議会職員及び宮城県社協・近隣市町社協(登米市・栗原市)職員の支援を受けて立ち上げました。支援資材の調達は災害ボランティア活動支援プロジェクト会議が担い、災害ボランティアセンターの運営に関わる人的支援は近畿及び中国・四国ブロック派遣の県・市町村社会福祉協議会職員が担っています。
南三陸町町長は、震災直後から毎日記者会見を行うなど、全国に向けて被災地の窮状を訴えました。こうしたことから、南三陸町は全国に知れ渡ることになり、多くのボランティアが南三陸町に駆けつけました。発災から2014(平成26)年3月末迄で、宮城県内には延べ68万493人のボランティアが駆けつけ、その内、南三陸町災害ボランティアセンターでは、129,520人(18.6%)が活動しています。
災害ボランティア活動人数の宮城県内上位5市町は、南三陸町129,520人、石巻市122,747人、七ヶ浜町77,839人、仙台市61,876人、気仙沼市54,684人で、津波による浸水範囲に比して、南三陸町のボランティア数が飛び抜けて多いのです。地元社会福祉協議会関係者は、ボランティア活動を労働力として換算すると約12億円になり、義援金・寄付金総額10億円を超えると試算しています。いかに多くのボランティアが南三陸町に駆けつけたかが分かります。同時に、それを捌いた猪股局長の卓越した手腕が光ります。
南三陸町で最も時間を費やした支援活動は、泥かきや瓦礫撤去作業です。また、震災1年目から、漁業支援・農業支援という生業に関わる支援活動が行われ、3年目に入ってからは主たる活動内容になっています。南三陸町災害ボランティアセンターでマッチングしたボランティア活動の特徴は二つあります。一つ目は,瓦礫撤去ボランティア活動が長期間行われていることです。活動の長期化は,被害が大きく瓦礫撤去に多くの時間を要する現状に加え丁寧な撤去作業を行っていることに起因します。二つ目は、ボランティア活動が生業支援も対象にして行われていることです。
この聞き慣れない「生業支援」という新たな支援の形については様々な議論があります。沿岸部被災地では、多くの漁港施設が被害を受けました。また、養殖漁業を営む地域の多い三陸沿岸は、養殖設備が全滅状態に陥りました。海に出ることが出来れば高収益を見込める漁業支援のために「がんばる養殖復興支援事業」(農林水産省)が創設され、早期の復興支援が進められています。南三陸町もその例外ではなく、がんばる養殖復興支援事業を受け、早い段階からワカメ養殖の復活が進められ、各漁港に活気が戻るきっかけになっています。また、全国から集まったボランティアは、早い段階から漁港に入り、漁港にたい積した養殖漁具の撤去等を行い、漁港再開に向けた活動を展開しています。そのかいもあり、被災1年後の平成24年早々に1年ぶりの収穫にこぎつけているのです。
このような状況下で、これまではあまりみられなかったボランティア活動が行われました。刈り取られた生わかめの加工作業にボランティアが関わっている姿です。これまでは、近所の住民の手伝いを得て行われることの多かった作業をボランティアが担っている。しかし、ボランティアを活用した作業と従来からの近隣の手伝いによる作業が混在するために、地域内に少なからず波風を生じさせたのも現実なのです。少々きつい言葉でいうと、ただ働きの労働力としてボランティアが使われたのです。
ボランティア活動については、もう少し書く必要があるようです。次回も、この続きを書きます。