体育館などでの避難生活は厳しい人々がいる(福祉避難所設置提案)

前回は、災害時には、情報通信手段の確保が大変重要になることの指摘に合わせて、その際の基本情報となる電話帳づくりを行ったことを書きました。今回は、不思議な体験を下にして行った支援について書きます。

被災地南三陸町で行政ボランティアを始めた4月、5月、6月の三ヶ月は、様々な支援活動を同時並行して行った、目に入ること、耳に聞こえることの全てが支援の対象となった時期でした。騒然とした中に居た私は、ある時に不思議なことに気がついたのです。様々な会話が混じり合い言、葉が言葉として聞き取れないような状況下において、突然テレビに出てくるテロップのように言葉が聞こえて来たのです。「避難所で迷惑行為を起こしている人が居る、どうも認知症らしい」「身体を硬直させてうずくまっている人が居る」「身体が不自由でトイレが辛そうだ」等々の言葉が、そこだけクリアーに聞こえてきたのです。自分でもビックリする体験でした。このことは、徐々に書き始める集団避難の時にも生かすことになります。

特養「慈惠園」
(福祉避難所に不可とした)
南三陸町社会福祉協議会

そんな体験をしている中で、多くの避難所が設置されていますが、さまざまな生活のしづらさを抱えた人のための「福祉避難所」が設置されていないことに気がついたのです。南三陸町では、最大時33の避難所に9,753人(平成23年3月19日)が避難していました。私が、行った時もほぼ同じ状況だったと思います。当然、この中には、認知症の方や精神に何らかの障害を持つ方や、身体に不自由さを持った方がいるはずです。

そこで、課長補佐に「福祉避難所」という考え方やその設置の提案を行いました。それではということで、町からは何カ所か福祉避難所になりそうな箇所の候補を挙げて頂き、私は使えるかどうかの現地調査をすることにしました。候補の中に、被災した特別養護老人ホームに併設されたデイサービスセンターもありました。様々な場所に出向き、設置までの時間や、改修にかかる費用等を勘案し、自分なりの判断を伝えました。

南三陸町及び設置主体の登米市の対応は迅速で、現地調査(4月11日)を行って、それを下にして、関係者との調整や福祉避難所の考え方の整理と設置提案(5月2日)を行い、程なく設置決定がなされ、突貫工事で改修を行い5月9日には「福祉避難所」設置の運びとなりました。南三陸町では、老人福祉センターに加え2箇所の福祉避難所を設置できました。約2ヶ月で本格的な福祉避難所が設置されたのは、宮城県内では早い対応だったと思います。

更に、福祉避難所の次には「福祉応急仮設住宅」の設置も必要になることから、こちらについても其の必要性を説いたりしています。福祉応急仮設住宅については、一般の被災者用の応急仮設住宅の整備が優先され、一般型応急仮設住宅の最後の整備とほぼ同時期になってしまいました。時間的にはだいぶ後回しになった感がありますが、その内容については結構満足の行くものが出来ました。東北大学大学院に在籍していたときに視察した兵庫県の事例などを参考にして設計提案を行い、それに近い建物が出来たと思っています。こうした場面では、県庁長寿社会政策課で高齢者福祉施設の整備を担当していたときの経験を生かすことが出来ました。

長寿社会政策課に在籍している時は、特に震災を意識して意識して仕事をしていたわけではありません。様々な基準に加えて高齢者に優しい住まいになるように意識して設計図書を審査していました。また、知識が不足していたので、人に優しい建物づくりをする為に「住環境コーディネーター」の資格を取り、バリアフリー等については特に意識して設計審査に生かしたりしていました。

段差解消はもちろんのこと、手すりの太さ、車いすでも楽に出入りできる幅員、緑黄変化を意識したカラーの選択、サイン(表示)の工夫等々、同じお金を使うにしても、わずかの意識で使いやすく安全な建物が出来ます。この様な経験が、福祉仮設住宅づくりに反映できたように思えます。

この様にして、南三陸町に入ったその日から、集団避難の手伝いに入り、夜は電話帳づくり、日中は福祉避難所や福祉仮設住宅の提案などのために、南三陸町内や近隣市町を走り回る様になりました。また、被災支援システムの提案や地元調達お弁当Project等の資料作りを夜な夜な行っていた4月でした。資料は全く持ち込んでいなかったので、頭の中にあるものだけを思い出しながら、行っていたように思います。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

体育館などでの避難生活は厳しい人々がいる(福祉避難所設置提案)” に対して4件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    東日本大震災が起きる前,日本で大きな地震を経験したことのある都道府県の人たちと話合いを重ねていたときに「福祉避難所」ということも話題にあがっていました。大規模な災害が起きた時に,在宅で介護支援を利用していた方たちが通常の避難所にいることは難しいので,既存の社会福祉施設などを活用して,要援護者のために特別の配慮がされた避難所とすることができる。それは災害救助法の適用を受けた避難所で,新たに配置された職員や介護用品,消耗機材等の費用については国庫負担を受けることができるとされているとのことでした。

    当時,私は内陸部に住んでいましたが,津波被害は無かったものの町の中の家屋の損壊が激しく,勤務していた建物はすぐに避難所となり,たくさんの市民が押し寄せてきました。医療機関の状況を自転車に乗って調べまわり,診てくれるところのリストを作成していた職員もおりました。震災から数日くらい経ってからでしょうか,日中車椅子に座ったままの人や固い床に敷いた毛布の中でずっと寝たままになっている人がいることに気づき,私も「福祉避難所」のことが頭をよぎりました。
    幸いに,建物の中に赤ちゃん健診などで使う広い畳の部屋があったので,そこを自前の福祉避難所もどきの部屋を作ることを提案。ケアマネさんに相談し,そこに簡易式のベットを入れてもらったり,介護職員さんに訪問に来てもらったりしました。ご家族も安心してそばにいることができていたように思います。

    今回の記事の写真,本当に凄まじくて言葉もありません。このように,津波で壊滅的になったところでは,どこにそのような場所を作るか!というところから考えなければならないのですよね。そして,福祉避難所のような制度のことも知っておくとその後の動きも変わってくるのでは・・と改めて思いました。それしても要援護高齢者に関する声だけがクリアに聴こえてきたという体験は,やはり本間先生の中にこれまでの豊富な知識や多大な経験がおありだったからだと思います。先生に聴こえるべくして聴こえたんですね。

  2. 鈴虫 より:

    津波被害で自宅を奪われた人達の絶望的な喪失感は、計り知れないものかあったでしょう。
    地域のみんなで避難所にとはいえ、プライバシーの保護など後回しの大きな空間は、健康な大人でさえ受け入れるのには時間が掛かったと思います。
    そんな中で、集団生活に馴染むことが難しい家族がいるところは、避難所を諦めて別の居場所を探したようです。
    親戚を頼って間借りしたり、アパートを借りたりした家族もありました。仕事もストップしていたため、貯金を切り崩してでも居場所の確保はいの一番にしなければならない事でした。
    福祉的な視点のある住居への支援は、本当に必要な町の仕事だと、今回のお話からも確信しています。

  3. 阿部 優 より:

    福祉避難所に入所する人々の心情・恐怖感までにも心配りをした報告書を拝見しました。
    さすが、本間先生!という報告・提案ですね。寄り添っている感じが伝わってきます。

  4. スマイル より:

    被災地の混沌として騒然とした中で「必要な言葉」だけが『突然テレビに出てくるテロップのように聞こえて来た』という経験に深く心打たれました。人が集中して何かを成し遂げようとするときの無限の可能性(神秘)を教えていただきました。「奇跡」や「神秘」と言われていることは、もともと備わった無限の可能性を引き出すスイッチが押されたときに起こる現象なのかもしれません。そのスイッチは魂の奥深くに埋め込まれていて、自分を役立てたいと心から願った時に見つけられるものなのではないでしょうか。本間先生は、震災後に南三陸に飛び込み、惨状を目の当たりにしてそのスイッチを無意識に入れたのではないではないか、と想像します。そして、実は県職員として働いていた現職時代に、じりじりとそのスイッチまで歩み寄っていたのだと、記事を読んで感じました。すべてはひとつの大きな流れに繋がっている大切な支流だったのだと思います。なんとあっぱれなことでしょうか。

    「福祉避難所」「福祉応急仮設住宅」、ここにすべてが凝縮されていると思います。そして、まだまだこれからも「ここに繋がっていくのね」というお話をお聞きすることができるのですね。

    先生のご体験をこうして知る機会をいただけていること、本当にありがたいことだと思っています。知り得たことを、少しでも自分にも役立てたいと思います。

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