下働き其の二「手づくり電話帳」
前回は、南三陸町に行って始めに行ったのは、24時間役場仮庁舎2階の保健福祉課に住み込み、手づくりカレンダーづくり等の下働きをしていたことを書きました。今日は、それの延長で、職員のみなさんの机を見て気づいたことから行ったことを書きます。
行政職員を支援する行政ボランティアとはいえ、ボランティアには変わりありません。この為、あらゆる事は自己調達が原則で、寝るところも自家用車と考えていたのですが、町の方からは、ベイサイドアリーナや志津川高校等の避難所での宿泊を勧められました。でも、避難している方々の所で住まいするのは申し訳なかったので、テントが届くまでの間、保健福祉課に寝泊まりすることをお願いしました。このような経緯で保健福祉課に昼夜とおしていることになりました。
今、どの様な仕事をしているのかを具体的に知る為、職員が帰った後に机を見て回りました。当然、ロッカーなど十分備わっていなかったので、みなさんの書類の多くは、山積みになって机の上にありました。そのような状況にある書類を見ているうちに気づいたことがありました。机のあちこちに数字が書かれた付箋が貼られているのです。役所の名称と数字、直ぐに電話番号だと分かりました。
そこで、この付箋に書かれた内容をメモして、分類整理し即席の電話帳を作成することを思い立ちました。それは同時に、其の席の方はどの様な仕事をしているのかを知る事にも通じました。どの様な仕事で誰と連絡を取っているのかは、この方々に対してどのようなお手伝いが出来るのかを考えるのに役立つ情報にもなりました。
夜になって、職員のみなさんが三々五々退庁し、誰もいなくなった頃を見計らって、電気が消えるまでの短い時間を使って付箋のメモを集め、持参していたパソコンに打ち込みました。パソコンは、日中に充電しているので、夜に電気が止まってもバッテリーで動かすことができました。当時は、震災で停電になっており、発電機で電気を起こしていたので、電気の使用時間が制限されていました。なので、真っ暗な中でパソコンの光だけが机の一角を明るくしているような状況でした。付箋は、日に日に増えているように思えたので、夜に集めて打ち込み、翌朝には改訂版を出す、これを繰り返し行っていました。これを何度も繰り返す内に、職員の方々の机からは少しずつ付箋が消えていき、反対に手づくり電話用に書き込みが入るようになってきました。その為、今度は付箋をメモすることから「書き込み」を写し取る方法に変更していきました。
毎朝、「改訂版電話帳です」といって保健福祉課内の各係(島)を回りました。始めの頃は、みなさんきょとんとして「あなたはだれ?」と、いう感じで私を見ていました。それもそのはずで、派遣できている他県の職員は、保健福祉課長又は補佐から紹介されていたのですが、私は特段紹介されるわけでもなかったので、「あなたはだれ?」は当然だったと思います。何度も、顔を合わせているうちに「何処の県から来たのですか?」等と問われたりし、どうも宮城県職員だった人らしいと口コミで広がっていたようでした。
以下は、手づくり電話帳(5月上旬版)
行政機関では、各課・係の担当者名及び電話番号が掲載された「職員録」(名称は其の機関で異なる)を作成しています。多くの場合は、これを見て必要な機関と電話連絡を取り合っているのです。震災では、こうした電話帳も流されていたので、手探りで情報をネズミ算式で集め、それを付箋に書き留め机に貼っていたのです。手づくり電話帳をつくりながら、県庁の元同僚に連絡し、「宮城県職員録」を取り寄せ、各係に配ったりもしていました。こうして私の下働きは、少しだけ職員の仕事のサポートに近くなりました。
震災で役場が使えなくなると、あらゆる情報を改めて集め直す作業が必要になってきます。行政事務は、様々な機関との関わりに中で進められます。その相手先との通信手段の確保がとても重要になっています。通信手段の最も使用頻度の高い有線の電話は、電話線が断線して使えなくなっていました。この為、非常用として衛星電話が急遽備えられていました。しかし、この衛星電話は、置かれている位置の問題なのか性能なのか分かりませんが、とても聞きづらい状態でした。役場の職員が大声出話していたのは、気が立っていたのではなく、この聞きづらさが原因のようでした。
震災で役場等が被災したときは、通信手段の確保と相手先の把握がとても重要になることをここで学びました。私たちは、日常生活においてスマホや携帯に連絡手段の多くを依存しています。この為、スマホを何処かに置き忘れたりすると途端に、連絡先は分からなくなってしまうことがあります。特に、最近は書き留めておくことが少なくなり、全てスマホ任せになっている現実があります。当時の事を思い起こすたびに、便利なデジタルと堅実なアナログを平行して持つことの重要性を感じています。
手づくり電話帳,拝見しました!
何もかもなくなったあの時,これはどんなに役立ったことでしょう。
頑張りましたね,先生!
昔は電話帳を見たり,手書きでメモ帳に必要な人の電話番号を書いていましたが,今ではスマホが電話帳であり,住所録でもあり,たくさんの情報が入っており,財布(とりあえず銀行)よりも免許証(再発行できる)よりも大切です “(-“”-)”
もしもこれを紛失したら,子どもに電話もできない!最低限,紙にでも書いて免許証と一緒に持っておくとかしないとなりませんね。
先生、今週もありがとうございます。
読むたびに感謝の思いとともに「備える」ということを考えています。まずは家族の衣食住、そして有事には仕事に向かうであろう家族の支度。そして近隣への援助。
話題にして共有していこうと思いました。ありがとうございます。
先生は下働きなどと謙遜なさっておられますが、まさに『見える黒子』そのものだったのですね。
手作り電話帳は、日々必要な連絡先が追加されているのに、全体的にとりまとめる作業は現場の職員では手が回らなかったでしょうから、かゆいところに手が届くと感謝されたことと思います。
ほとんどの人が震災で一度通信網を絶たれ、新たに携帯電話番号を交換したと思います。このことは、用件のある人と直接繋がれて話が早かったので助かりました。ところが、お年寄りの人達と話す機会が途切れてしまったことに気がついたのは大分経ってからでした。
親戚が自宅を高台に再建したと聞いてもなかなか訪ねられぬまま、新しい環境に戸惑いながら体調を崩しまった方もありました。
町の景色がよその町のようにキレイになることは、素直に喜んでばかりもいられなかった現実があったのです。
被災地での行政の方々のご苦労を知る機会はあまりないのだということに、あらためて気づかされています。記述を読んでいると、目の前にありありと光景が見えてくるようです。ご自身も被災しながらも、住民のために奔走してくださった方々にあらためて感謝したい気持ちでいっぱいです。
本間先生が震災当時の記憶をたどって綴ってくださることすべてが、本当に貴重な証言であり、またもし大きな災害が起きた時にどうしたらいいかの何よりの学びだと感じています。
あれほどの災害ではすべてが「想定外」で「誰も経験したことのない世界に放り出される」状況だったと思います。先生ご自身が県職員だったということが役に立ったこともたくさんあったと思いますが、「今何が必要だろうか?」「何に困っているのだろうか?」と、全身全霊ですべての感覚を注ぎ込んで「知ろう」としたからこそ見えてきたこと、出来たことの方がずっと多かったのではないかと思います。
身一つで南三陸に飛び込み尽力なさったことを、これからも思い出せることすべて、あますことなくお伝えいただきたいと思っています。このような視点の話は他ではあまり知ることができないと思っています。しっかり読ませていただき、学んでいきたいと思います。
追伸
「またもし大きな災害が起きた時にどうしたらいいかの何よりの学び」と自分で書いてちょっともやもやしていました。「起きてから」では遅いのですよね。先生が書いてくださっていることは、今この瞬間からでも備えて欲しいこと、すぐにでも考え行動を起こしてほしいこと、そういう祈りや願いだと思います。平時から手を尽くしてこそ・・・と心に刻みたいと思います。