南三陸町役場仮庁舎の被災者支援最前線(保健福祉課)に着く
2011(平成23)年4月3日(月曜日)の早朝7時半過ぎに、南三陸町スポーツ交流村の一角にあるテニスコートに建てたれた南三陸町役場仮庁舎に着きました。事前に道順を調べておいたので途中道に迷うこともなく、2時間30分ほどの時間で順調に来ました。
2階建てのプレハブ造りの仮庁舎は、コの字型に並んで建っています。テニスコートの上に建てられているので、グリーンの全天候型盤面が中庭の様な感じになっています。時間がまだ早いためか、驚くほど静かでした。震災から20日程しか経っていないので、24時間体制で動いているのだろうと想像していたので意外に感じました。8時を回った頃から、ビブスを着ている人や背の部分で市町村名が書かれている様々な色の作業着を着た人が、仮庁舎の部屋に入っていくようになりました。既に多くの他県・他市町村の方々が支援に入っていることは、様々な作業着で容易に感じ取れます。
8時過ぎに、保健福祉課の1階部分にある地域包括支援センターに出向きました。この場所を訪れることは、事前の打合せで町の方から指示されていました。受付カウンターの様なものがあったのでそこで所長さんとお会いしたいことを告げました。所長さんとは、一度だけ電話で到着日時の打合せをしただけだったので、この時に初めてお目にかかりました。私は、何処で何をするのか全く分からない状態で南三陸町役場に来ています。全て、役場の指示で動くだけなので、少々ドキドキしながら指示を待ちました。3月に私の行政ボランティアを引き受けると決断した保健福祉課長は4月1日付けで転勤になっていました。課長だけではなく課長補佐も転勤しており、保健福祉課の管理職には、地域包括支援センター所長から、改めて経緯を説明したようでした。
この時期には、行政機関は、関西広域連合という組織を立ち上げ、近畿地方や四国各県の県職員や市町村職員を計画的かつ大勢の支援職員を送り出しています。これに加え、姉妹市町村締結をしている市町村や東京都等々の自治体からも支援職員が保健福祉課に入っています。これらの支援職員は、1週間交替などで入れ替わりながら支援活動を展開しています。全ての応援職員は、県又は市町村から公式に派遣(出張)という形で南三陸町に入っています。そのような中に、元県職員とはいえ一民間人が被災者支援の中枢に入ろうとしているのです。
南三陸町は、地震が発生すると直ぐに防災対策庁舎に災害対策本部を設置し、担当職員や町の幹部職員が2階にある危機管理課に集まっています。気象庁は、11日14時49分に震度6弱、6m津波警報を発表しています。その後14時49分には、10m以上と修正発表が行われています。当時、役場職員や町民合わせて54人が防災対策庁舎の屋上に避難しています。
防災対策庁舎は、鉄骨造3階建てで屋上は約12mです。1960(昭和35)年5月23日4時頃にチリ南部でM9.5の巨大人が発生し、22時間半後の翌日午前3時半頃に太平洋沿岸に達し、南三陸町は、多くの被害が発生しました。町は、このチリ地震津波で最大波高5.5mの津波に襲われ、41人(宮城県内最大)が犠牲になりました。町では、チリ地震津波やその後の1978(昭和53)年6月の宮城県沖地震等のデータを加え、防災計画では想定津波高を6.7mに定めて、防災訓練などを重ねていました。この為、気象庁が発表した最大波高6mの予想は、12mの防災対策庁舎なら大丈夫では無いかと思っても、それを判断ミスと責めることはできないのではないかと思います。しかしある方は、「防災訓練をしっかりやって来た、しかし、しっかりやってきただけに、訓練の想定以上のことを考えようとしない隙を生んでしまった」と、悔やんでいました。
南三陸町は、この防災対策庁舎で43人の犠牲者を出してしまいました。その内、町職員は33人です。南三陸町は小規模な地方自治体です。そんな町の行政職員245人の内33人を一気に失ったのです。通常の行政事務に膨大な震災関連行政事務が加わり、人手は幾らあっても足りないという状況は容易に想像できます。小規模な地方自治体は、それでなくとも一人で何役もこなさなければ行けない状態が日常化しているのです。
だいぶ年数が経ってから、当時私を引き受けた保健福祉課長さんから、お話しを伺ったことがあります。「(私の)素性など全く分からなかったが、県職員だったので迷い無くお願いした。被災から時間が経つにつれ膨大な行政事務に忙殺されていた。とにかく人手が欲しかった」とのことでした。それでなくとも人手不足が常態化している中で一気に33人もの職員を失い、「街が消える」程の被害を受けています。「猫の手も借りたい」心境は、痛いほどわかりました。
地域包括支援センター所長に連れられて保健福祉課の2階に上がり保健福祉課長及び課長補に紹介され引き渡されました。保健福祉課長と同補佐は、周囲の喧騒の中にあっても穏やかな感じで迎えてくれました。私の机は、課長補佐の隣に用意されました。机といっても会議用テーブルを二つ合わせただけのものです。私としては、机があるだけでとても有り難かったです。これをして欲しいというお話しは無く、「現状を見ていて下さい」というものでした。確かに、他の地方自治体(県・地町村)から派遣されてきた職員(公務員)は、明確な仕事があり、それを毎回引き継いで支援にあたっていました。人手が無いとは言え、必要な業務には、南三陸町職員と他県から派遣された支援職員が組になって業務に当たっています。そういう意味では、私が入る隙は無いような状況でした。
私が南三陸町役場で行政ボランティアを始めた3日は、集団避難を決めた町民のうち、501人が県内の4つの市や町の避難所へ移動する第一次集団避難の日でした。南三陸町では約9,300人が避難生活を送っていましが、仮設住宅の建設に時間がかかることなどから、町は近隣自治体への一時的な集団避難を提案しています。町は、3月31日に町外への集団避難を希望した1,448人のうち、約77%に当たる1,120人に県内4市町の避難先を示し、4月3日から移動を始めることとし、6日までに約1,100人が集団避難する予定にしていました。
早朝の静かさから9時過ぎには一気にあちらこちらで大声で話している様子が見られようになってきました。通信手段は、数台の衛星電話と自己所有と思われる携帯電話です。電話や直接保健福祉課を訪れる町民でごった返し、被災地の最前線で奮闘する行政機関の只中にいることを否応が上でも感じさせられます。これまでの経緯や事情が分からないのでどう振る舞ったら良いのか分からないもどかしさの中で、だだひたすら職員の話や町民の声に耳を傾け、職員の机の上にある書類や書き込みを観察していました。
先生、今回もありがとうございます。
先生の献身と被災された方々のことを思うと、当時のことをここに投稿することがためらわれます、被災県とひとくくりにされながら普通に暮らすうしろめたさのようなものを感じていますが、私の体験も一つのサンプルだと思うので少しだけ書かせていただきます。
私の地域では電気は地震から3日後の月曜日に復旧し、ガス、水道、固定電話は、3週間ほど後でした。道路はいたるところデコボコしていて仙台に向かうとブルーシートがかけられたビルが目につきました。娘の高校受験の年で発表も入学式も遅れて、制服の注文に地下だけ臨時に開けられた三越に行くのに、臨時のバスを乗り継いて向かいました。
お風呂に入れないためか行き交う人が、私も含めてみな帽子をかぶっていたことを覚えています。電気が復旧した時テレビの映像を見て、現実とは思えず何も思いつかずただひたすら家族のご飯のことをしていたように思い出します。たまたま見たケーブルテレビで放送してた映画ブルースブラザース、夕飯の時間もそっちのけで家族で食い入るように見つめていました、笑いたかったように思います。仙台が舞台のゴールデンスランバーも放送されて、総理大臣が定禅寺通りで爆死するというストーリーに、映画の方が現実でこちら側が映画の中なのではないかと不思議な思いがしました。映画を観てから気持ちがしっかりしてきて動き出すことができたように思い出しています。とりとめのない話になりましたが読んでいただいてありがとうございます。
いくこさん
「被災県とひとくくりにされながら普通にくらす後ろめさたのようなものを感じている」とのことですが、私もずっと同じ気持ちでした。
うちの子供達が「もう学校には行かない。このまま仕事を探す」と、学校に戻ることを諦めた様子を見て、何と悲しかったことか。でも、「学校は必ず再開するから、少し時期がずれても心配しないで待ってればいい」としか言えずにもどかしかった事を思い出しました。子供達にはいつでも希望に燃えていて欲しいと心底から思いますね。
コメントありがとうございました。
s.mさん
「子供達にはいつでも希望に燃えていて欲しい」ほんとうにそうですね、それが一番大事ですね。
そうであるために、こうしてここに来ていると思っています。ありがとうございます。
私もあの時の不自由な経験を経たからこそ、私らしく自由にのびのびと、世の中が良くなるための行為を重ねられればと思っているのです。
ありがとうございました。
『これまでの経緯や事情が分からないのでどう振る舞ったら良いのか分からないもどかしさの中で、だだひたすら職員の話や町民の声に耳を傾け、職員の机の上にある書類や書き込みを観察していました。』
そうなんですね。
4月、南三陸町に行ったばかりの時の状況がとてもよくわかりました。
そして、まもなく、また大きな揺れが来ましたよね。
本間先生がその様な経緯で町に来られたのですね。
丁度その頃、隣近所3軒で共同生活をしていた私達家族は、ようやく実家へ行き、発災以来初めてお風呂に入ることが出来ました。実家とはいえ浴槽のお湯を汚さないようにしながらも、恥ずかしいほどに垢が擦れ、すっかり生き返った気分になったものです。よそでもそれぞれに日帰り温泉に行く家族、親戚にお風呂をよばれる家族と有りました。我が家は、各自タライに半分程の川の水や薪で沸かしたお湯で体を拭いて済ませていました。日常生活がいつ元に戻るのか分からぬ間は、水も燃料も少しも無駄には出来なかったのです。ですから、たっぷりのお湯に十分な泡で洗髪などということは贅沢の極みでした。
その後、我が家の電気が復旧したのは6月のあたま、水道の復旧は更にひと月以上経ってからでした。
s.mさま
あの当時、ライフラインの復旧には思った以上に時間が掛かって本当に不自由な日常でしたね。当時の経験から、一人ひとりが生きる力を磨かれ逞しくなったと思います。
特にお風呂は一日の疲れを取るだけでなく、思考を整理したり、先々の楽しみを思い描いたりと、心地良い香りと泡に包まれて幸せを凝縮したような空間だったんだと、なくなって初めてそのありがたみを噛みしめたものでした。仙台の姉宅でも都市ガスが驚くほど復旧が遅く、自宅でお風呂に入れる様になったのは随分あとになってからだったと、後に知りました。
私達家族を物心ともに支えてくれた姉でしたが、あし繁く故郷に足を運んではよそ様の小さな必要を拾い、それに応える為に奔走する姿に触れ、あらためて姉夫婦を見直すきっかけにもなりました。
あの当時、周りの人達の振る舞いから十人十色の価値観を垣間見ることになり、とても濃くて貴重な人生勉強をさせて頂きました。
先生の回想記録のおかげで、色々な出来事が思い出されますね。どんな些細な出来事も、次の世代に語り継いでいきたい事ばかりだと思います。
コメントありがとうございます。
もっともっと辛い思いをした方があるのに、この程度の事はこぼすべきではないと弱音を吐かずに飲み込んでしまった人達が大勢いました。でも私は、それぞれが経験した想定外の非日常を語り継いでおくほうがいいのではないかと考えています。
ささやかな伝承ととらえていただければ幸いです。