南三陸町で献花してきます(東日本大震災から11年の3月11日)
2011(平成23)年3月11日14時46分に発生した東日本大震災から11年が経ちました。当時、私は市町村の方と認知症ケアネットワークづくりの打合せをしていました。突然、金属が軋む(きしむ)ような音を立てながら、建物全体が激しく揺れ、その振動は長く続きました。「来た!」と、咄嗟に思いました。想定されていた宮城県沖地震だとの確信です。職場の近くに居を構えて災害に備えてきたことが生きました。職場の床で寝泊まりしていても、最小限の補給はでき、救助活動を遅滞なく続けられました。
その時から今日まで11年の月日が流れました。今日はこれから、東日本大震災と向き合った南三陸町を訪れ、犠牲になった方々に献花し、残されたご家族にお見舞いを申し上げ、そして南三陸町の復興発展を祈って来ます。南三陸町の今日の様子は、戻ってから追記します。
その前に、少しだけ東日本大震災の概要を振り返って見ます。
3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島の東南東約130km付近(三陸沖)の深さ約24kmを震源とするマグニチュード9.0、最大震度7(宮城県栗原市)の大地震が発生しました。大正12年(1923年)の関東大震災のマグニチュード7.9や昭和三陸地震(昭和8年(19年))のマグニチュード8.1を大幅に上回るものであり、日本観測史上最大の大地震でした。また、この地震で巨大津波が発生し、地震発生から1時間足らずで太平洋岸の各地に到来し、その大きさは、福島県相馬市で最大波9.3m以上、岩手県石巻市鮎川で最大波8.6m以上、同県宮古で8.5m以上、同県大船渡で8.0m以上を記録しました。
この地震に関連する人的被害は、死者19,575人、行方不明者2,577人、負傷者6,230人にのぼり、阪神・淡路大震災を大きく上回るものでした。また、住家被害も、全壊121,776棟、半壊280,326棟、一部破損744,269棟、床上浸水3,352棟、床下浸水10,230棟、公共建物などの非住家の被害も106,587棟にのぼりました。(総務省消防庁:平成29年9月時点)
更に、大変な事故が起きました。東京電力福島第一原子力発電所の事故です。地震により発生した巨大津波は、同発電所を来襲し、1号機、2号機及び3号機の非常用ディーゼル発電機などの電源設備が浸水により使用不能となり、原子炉の監視や冷却の操作ができない状況に陥りました。その結果、原子炉内の核燃料が十分に冷却できなくなり、核燃料の外側を覆っている金属製の燃料被覆管が高温により損傷して放射性物質が露出する状態になりました。そして、原子炉に溜まった蒸気をやむを得ず排出したり、原子炉の配管の損傷部分から蒸気が漏れ出したりしたことにより、大量の放射性物質が大気中に放出されるに至ったのです。また、燃料被覆管が損傷した際に大量の水素が発生し、その水素が3号機と4号機の原子炉建屋上部に蓄積し、爆発するという事故も発生しました。
この事故により、およそ900PBq(ペタベクレル)の放射性物質が放出され、多くの福島県民が故郷から避難を強いられることになりました。また。現在でも、福島原子力発電所から20km以内の一部地域は、「警戒区域」に指定され、原則として立入りが禁止されています。福島県の被災は現在進行形なのです。
ベイサイドアリーナに設けられた献花台にいきました。時間が早く、中には入れずに外から手を合わせてきました。その後、震災伝承館の整備を担当している、当時保健福祉課の課長補佐をしていた、現在の伝承館整備の責任者に挨拶をし、「結の里」でしばらく当時を振る返りかえり、帰路につきました。
改めて献花台のあるベイサイドアリーナを見ながら、当時、遺体安置所があったこと、全国から頂いた物資で埋め尽くさていたアリーナ、炊き出しをもらいに並んだこと、行方不明者の居場所を知らせる名前を必死に探す人々、等々、当時の様子がありありと思い出されました。
また、現在の結の里をこの場所にするために奔走したことや災害公営住宅をアクセスリビングの如く、回廊でつないで、団地をひとまとまりにしたこと等々、様々な想いが形になっていることを、とても有り難く感じてきました。これらは、地元町民の熱意を引き出してくれた社協の力がとても大きいと思っています。私は、その為にほんのわずか助言をしち提案したりしただけです。
南三陸町では、830人の死者・行方不明者を出しました。行方不明者211人のご家族は、震災当時の3月11日で時間が止まったまま11年が経ちます。その家族に「復興」という言葉はありません。その言葉は酷です。高速を走らせる道々、車を走らせ、これから何をすべきかなど考えながら、11年を振る帰った時間を過ごしました。せめて1年に1日だけでも、東日本大震災を振り返り、成すべき事か考える時間を持ちたいと改めて思いました。
3月11日14時46分,たくさんの場所でたくさんの国民の皆様が黙とうを捧げました。
私はその日,ある団体の方たちと町内の山の中におりました。
10日の記事の中に『夫は長男なので、お墓は守らないといけないと思っています』とありました。先日,住民課に「まだお墓参りに帰ったことないのだけど,線量はどれくらいですか?今度行こうと思っています」と電話が入ったそうです。
お墓は,故人との縁に想いを馳せ,偲び,語りかけることができる場所。放射線のことなんか気にしないで安心して故人に逢いにいっていただけるよう,町内90カ所近くあるお墓の「東西南北と中央」の5カ所の線量測定をしています。
11日はとても暖かい日で,山の中のポツンと1軒家みたいなお墓では,とてもいい香りのする沈丁花がきれいに咲き始めていました。ちょうど3.11の黙とうのサイレンが鳴り,その香りに包まれながら手を合わせ,お祈りをさせていただきました。
ハチドリさんのコメントに「山の中のポツンと一軒家みたいなお墓では、とてもいい香りのする沈丁花がきれいに咲き始めていました。ちょうど3.11の黙とうのサイレンが鳴り、その香りに包まれながら手を合わせ、お祈りをさせていただきました。」と、ありました。
このシュチュエーションは、静かな祈りの中に身を置く大切な時間になったことと思います。すっと心が静かになったことでしょう。
様々な想いを持って向き合う3.11、この様な時間を持つことは、とても大切なので良かったですね。お天道様もさぞかしよろこんでくれたことでしょう。
南三陸町の社協のみなさんの様子や活動に、何度か立ち会わせていただいたことがあります。そのたびに常に住民目線で物事を考え行動を起こすことをためらわない姿勢に感銘を受けてきました。また、誰よりも社協のみなさん自身が楽しんで企画し参加している姿を見て、心を照らしていただきました。同時に「ただ楽しい」だけでなく、課題もしっかり把握し次にいかす努力や工夫に余念がない姿に頭がさがりました。そういう地道な積み重ねの先にできあがる地域の温かさを知ることができたことは大きな励みです。
本間先生は「ほんのわずかな助言や提言をしただけ」とおっしゃいますが、そこに住み込み、痛みを分かち合いながら全身全霊で向き合わなければ伝わるものではないと感じます。そんな姿勢を知っているのも、また南三陸の方達でしょう。
震災後、自分に何ができるのだろうと常に考えてきました。想像を絶する痛み、哀しみ、苦しみの前には立ちすくむしかできない自分がいます。考えて考えて辿りつく先は毎年同じです。今自分が住んでいるところを良いものにしよう、互いに助け合えるようなコミュニティにしよう、ということです。そうやって住んでいるところを大切にすればするほど、それを失うことがどれほどの喪失なのかその痛みに少しは近づけるでしょう。周りの人を大切にすればするほど、突然失われてしまう慟哭をほんの少しでも感じることができるようになるでしょう。周りに明かりを灯しながら、痛み悲しみに少しでも近づく道として、そこに辿り着くのです。
「忘れない」ということは、私にとっては「教訓を生かし続けること」ではないかと考えています。そのためにも、本間先生のホームページを「学びの場」「自分がまだ知らないことを知る場」として大切にしたいと思っています。
スマイルさん。
「今自分が住んでいるところをいいものにしよう、互いに助け合えるようなコミュニティにしよう」。
私もこの通りだと思います。
今いる地域を大切にして暮らさなければ、不慮の災害でそれが叶わなかった人々に対して申し訳ないです。
このような気持ちを共有できる人がいて、とても心強いです。ありがとうございます。
鈴虫さん、嬉しいメッセージありがとうございます。
本間先生のホームページは「ここにも仲間がいた」という出会いがある、本当に貴重な場だと感じています。心通じる人との出会いは何ものにも勝る宝物だと思います。
これからも励まし合って社会を人生をより良いものにしていけたら幸せですね。
スマイルさん
「ここにも仲間がいた」という出会い、とても嬉しいひと言です!
少し沈みがちな気持ちがぐいっと引き上げられました。
ありがとうございました🍀
先生の助言で造られた地域は、徒歩圏内に必要な施設の揃ったコンパクトシティというものが出来上がったのですね。
残念ながらそれが町民全体の暮らす地域とはいかないのでしょうから、それ以外の地域からも多極化を目指して住民達が住みたい地域の青写真を描き、自ら出来ることをして、必要な支援を行政などにお願いしながらつくりあげていくのがいいのでしょうね。
自分達の誇れる地元を自分達で作ることは、この先ずっと愛着のもてる地域づくりになるはずです。
出来ることからひとつずつ、地域のみなさんと話し合うことから始めるのが良さそうですね。