安全神話まさか 失った終のすみか(福島県原発事故被災地)

東日本大震災関連の記事第三弾です。この記事は、「ふくしま つづく避難と 復興への道のり――#知り続ける」(Yahoo!ニュース オリジナル 特集2022-03-08)を引用し、読みやすいように、主旨を変えない程度の変更を加えて掲載しています。以下引用です。

2022(令和4)年は、東日本大震災から11年を迎えます。しかし、当時福島県内で暮らしていた人の中には、東京電力福島第一原発事故などによる影響で、いまだ自宅に帰ることのできない人が数多くいます。全国で2万7000人を超えている状況です。時間の経過とともに、長期避難の課題の複雑化、多様化が進んでいますが、日本原子力学会は東京電力福島第一原発の廃炉が完了し、敷地を再利用できるようになるには、最短でも100年以上かかるとする報告書を公表しています。福島県の復興完了はいつになるのか、最終的な姿が見通せないとの指摘もあります。このことは福島県に限ったことではありません。災害大国である日本では、誰もがこうした大規模災害で避難する当事者になる可能性があります。

【最短でも100年後】福島第1原発の敷地 再利用の可能性(日本原子力学会の報告書による)。震災から10年以上がたち、福島県内の道路や港湾などのインフラはほぼ復旧しました。しかし、東京電力福島第1原発の廃炉はまだ緒についたばかりです。福島の復興の「これから」を時系列でたどってみます。

◇2023年春ごろ→処理水の海洋放出を開始。30年から40年かけて放出見込み。

◇2029年 帰還困難区域の全避難指示解除。

◇2031年3月末 復興庁の設置期限。

◇2041〜2051年 福島第1原発の廃炉(予定)。

◇2045年 除染で出た土の最終処分の期限(福島県外での処分が法律で定められている)。

◇2065年3月 福島第2原発の廃炉(予定)

【静寂に包まれた夜の町に10年10カ月ぶりの明かりが灯った】東京電力福島第1原発事故の被災自治体で、唯一全住民の避難が続く福島県双葉町。事故前は約7千人が暮らしていたこの町で、自宅などでの宿泊が特例的に認められる「準備宿泊」が2022年(令和4)年1月20日に始まり、この日は4世帯5人が参加しました。立ち入りが制限される「帰還困難区域」は、今なお福島県内の7市町村で指定されていますが、住民たちは復興に向けて少しずつ歩みを進めています。 

一方、2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災による避難生活を続ける人が、今なお全国に約3万8千人います。そのうち福島県からの避難者が約2万6千人いる(22年2月8日現在)。68.4%は福島県の避難者です。 

「まだ浪江町から住民票を移してはいないんです。なんとなく負けたような気がするというか・・・」ある浪江町からの避難者の言葉です。震災から11年。いまだ続く避難生活とはどのようなものなのか。復興の現在地はどこにあるのでしょうか。

松崎真希子さんは震災時、家族7人で自宅のある福島県浪江町から東京に暮らす夫の姉妹の元へ避難しました。その後、板橋区の都営成増団地に暮らし、現在は購入した一軒家に夫とその両親と住んでいます。11年前に学生だった子ども達は、東京で就職しました。浪江町の自宅近辺は帰還困難区域に指定され、今も住むことはできない状態です。 

2011(平成23)年4月中旬、浪江町の自宅周辺がバリケードで封鎖されると聞いた松崎さんは、夫とともに一度、自宅に戻りました。「雨がっぱを二重に着て、足にも靴の上からビニール袋を二重に履き、ゴーグルとマスクをして、頭にはシャワーキャップをかぶって、手袋もして。30分以内なら大丈夫とうわさに聞いたので、大事なものだけ取りに行こうと思いました。でも、いざ行くと何が大事なのか分からない。銀行関係の書類とか子どものものを持って、20分くらいで出ました」。 

現在、自宅の周りには緑が生い茂って、家が木々に埋もれているような状態だ。一方、帰還困難区域を除くエリアでは、復興に向けた建設工事が進んでいます。昨年、松崎さんはお墓参りの際、「道の駅なみえ」を見ました。「子どもが通っていた小学校、中学校も取り壊されていますし、新しい建物が建って、景観はすっかり変わっています。私の知っている浪江町ではないですね。

11年間は生活するのに一生懸命で、あっという間でした。ただ、まだ浪江町から住民票を移してはいないんです。長年住んだ家の住所が消えてしまいますし、なんとなく負けたような気がするというか。移したくて移すわけでもないのに、と思うんですね。夫は長男なので、お墓は守らないといけないと思っています」

【30年以上住んだ自宅を更地に 失った終のすみか】今里雅之さん(75)。現在は横浜市で妻(73)と暮らしています。神奈川県内および近郊に避難している人たちをつなぐ「かながわ東北ふるさと・つなぐ会」の会長を務めています。今里雅之さんは原発事故の直後、妻とともに福島県富岡町から横浜市の長女の元へ避難しました。長女が引っ越し予定だったマンションに仮住まいのつもりで住み始め、現在に至ります。 

すぐに帰れると思っていたんですよ。双葉町で建設会社に勤めていて、『原子力明るい未来のエネルギー』という看板をいつも見ていました。そういう安全神話の中で生活していたので、『まさか』でした」。富岡町の自宅は居住制限区域でしたが、2017(令和29)年4月1日、避難指示が解除されました。環境省による被災建物の解体除染は期限があるので、自宅の解体を決めました。「年に何度か家を見に行きましたが、窓が割れていて、ネズミの死骸があったり、動物の荒らした跡があったり。泥棒が入った様子もありました。昔は庭で藤やブルーベリーを育てるのが楽しみだったんです。その庭もジャングルみたいになっていて。家も街も住める環境ではないので、このタイミングで壊すしかないなと。終のすみかのつもりでしたから、切なくてね。取り壊しの途中はとても見に行けなくて、更地になってから行きました」 

取り壊し後は自宅跡地の管理が重荷になっているといます。除草などもしなくてはならないし、減免されていた固定資産税は、2021(令和3)年度から満額負担となります。「帰る選択肢を捨てたわけじゃない。帰るか帰らないか、気持ちは半々です。避難当初は孤立感が大きく、そんな中で私も妻も体調を崩し、通院する生活になりました。みんなあちこちに分散してしまって、寂しいと思うんですね。だから、避難者の人たちが集う機会を継続的に作っています」。

わずか、数人の声です。テレビや新聞の報道からは知り得ない当事者の苦悩・葛藤です。私たちは、11年経った今尚この様な状況を背負ったまま暮らしている方々がいることを知る必要があると思います。そして、その心の痛みを、またあるかも知れない災害や大規模事故に備える教訓として生かすことが必要だと思います。同時に、災害時のために、平時の今、何をすべきか考える機会とすることも重要だと思っています。

出典:ふくしま つづく避難と復興への道のりhttps://news.yahoo.co.jp/special/road-to-revitalization/(2022/03/08)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

安全神話まさか 失った終のすみか(福島県原発事故被災地)” に対して3件のコメントがあります。

  1. ハチドリ より:

    宮城県でも女川原発があるので,なんとなく頭に入れていただければとという思いでコメントします。
    放射線量が強いためにバリケードが張られ,自宅に自由に行けなくなる。その前に自宅に戻って大事な物を取ってこようと思い『雨がっぱを二重に着て、足にも靴の上からビニール袋を二重に履き、ゴーグルとマスクをして、頭にはシャワーキャップをかぶって、手袋もして。30分以内なら大丈夫とうわさに聞いたので、大事なものだけ取りに行こうと思いました。でも、いざ行くと何が大事なのか分からない。銀行関係の書類とか子どものものを持って、20分くらいで出ました。』とありました。
    放射線は,目には見えないくらい小さい放射性物質から発せられるので,その放射性物質が身体に付着しないように防護服を着ます。11年経った今では,もうその必要はありません。放射性物質は土にがっちり吸着されているからです。それをはぎ取るのが除染と言われているものです。
    『30分以内なら大丈夫といううわさを聞いたので』・・は,ちょっと残念です。私たちの普段のきれいな環境での自然の放射線量は,1時間あたり0.04μ㏜(マイクロシーベルト)前後ですが,原発事故があった市町村で,当時一番高かった放射線量が仮に50μ㏜(マイクロシーベルト)だったして,それは1時間そこにいたらそれくらい被ばくしますよという意味です。しかし,私たちが検診などで受ける胸のレントゲン検査では1回あたり60μ㏜の放射線を浴び,CT検査においては,1回あたり240~1240μ㏜くらいの放射線を浴びます。多い人では年に数回受ける人もいらっしゃいます。
    そのことを考えると,放射線がただ「怖い!」というだけではなく,何日もそこにいては心配だけど,1時間くらいいても胸のレントゲンくらいかなと理解できていたらもっと違う行動・行為となったのではと思われます。そのためにも9日の「このような公務員は国の宝だ」の投稿記事の中にあった『SPEEDI』による放射能の情報発信がとても重要なのです。それが無かったために,浪江町民は原発から遠い山の方に一時避難したのに,まさかそこが一番線量が高いところだったなんて・・。国への不信感につながるわけです。文部科学省では小学生や中学生,高校生が放射線に関する科学的な知識を身に付け,理解を深める一助になるようにと放射線の副読本を作成しました。小さい頃からの教育は大切です。ぜひ,小さいうちから学んでもらえたらいいなと思います。

    ある日突然,「遠くに避難してください!」と命令のように言われ,すぐに帰れるかと思っていたのに11年間も帰れず,でも町に足を延ばしてみれば元の景色は変わり果て,一部にぎやかな場所になってテレビで何度も放映されていてなんだか心から喜ぶことができなかったり,自宅は残っていても動物に荒らされ到底住めない家になっていたりと,自分をその方たちの立場になって想像し,考えてみるとどこにもぶつけようのない悲しみや怒りが私の中にも沸き起こってきます。当事者の方たちはその何十倍もの苦しみを背負ってきているのだと思います。様々な問題,課題に対してすべてが解決できることはないけど,寄り添って,傾聴し,できることに関してはできるだけ丁寧に対応できたらと思います。
    そして,ゼロではない,マイナスの状態から立ち上がって前に進んでいかないとその町は消滅していってしまいます。復興,そちらも大切です。少しでも元気になってきた町を見て帰りたいと思う人は必ずいると思うのでその発信も行っていきたいです。

  2. S.M より:

    東日本大震災とそれにともなう福島第一原発の事故から、疎開したまま未だに自分の土地に戻れない人達の、地に足の着かない葛藤の多い毎日を思うと胸が苦しくなります。

    被災地のインフラが整備されたからと言って復興出来たとは言えません。どんなにキレイにしてもらっても、そこに居るべき人達が居なければ、そこに自分の足で立ち、暮らすということが戻らなければ復興とは言えません。
    もし、あの忌わしい震災が無かったとしても、いずれ過疎が進む地域だったとしても、住み慣れた町並みの中で自然にそのときを受け入れていくのと、新しく誰かによって造られた場所で年老いていくのでは大きな違いがあります。
    壊れてしまったもの、なくなってしまったものにいつまでもとらわれていては前に進めないことはわかっていても、それでも何度も悲しみや虚しさが襲ってくる。そして、それは自分が弱いからだと自分を責めるの繰り返し。今の時期は特に、そのような人がたくさんいます。

    復興が進んだ、こんなに良くなったと声高に叫ばないで欲しい。ただ並んで歩み、背中に手を添えていて欲しいと思っている人もいるのではないでしょうか。
    そして、それは継続されなければならない、一過性の気まぐれであるべきではないということだと思います。
    見守り応援する人達はその様なことを心に留め置くのがいいのではないかと、ふと思いました。

    3.11が近づき少しナーバスになっているこの頃、先生のhpで木野正登さんという方が、まさにハチドリのように出来ることを黙々となさっていることを知り、大きな感謝と希望を見出すことが出来ました。
    福島第一原発の廃炉まで、まだまだ先の見通せない時ですが、今日の一歩が無ければ明日は無いのですから、木野さんの働きは未来へ繋がる尊いものと頭が下がります。

    私も、明日へと繋がる今日の一歩を大切に踏み出していこうと思います。

    1. 鈴虫 より:

      「壊れてしまったもの、なくなってしまったものにいつまでもとらわれていては前に進めないことはわかっていても、それでも何度も悲しみや虚しさが襲ってくる、そして、それは自分が弱いからだと自分を責めるの繰り返し」
      みんなの歩幅は一人ひとり違うのだから、自分がみんなから遅れがちだとしても自分なりの前進があればいいのだと思います。
      弱い自分がいたっていい、その様な人は弱い人の気持ちがよくわかるはずですから。
      みんなの列から遅れがちな人に、いち早く気がつき寄り添うことはいつの時代にも必要な心遣いです。
      私はそんな役割を担える人になりたいと思っています。

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