かじってみよう“社会学”15講目 社会の変動「ただ乗りする人々」
前回は、私たちは、様々な集団に属して生活をしています。その集団という考え方を対比する三つの例を挙げて「人と他者とそれ以外の人たちとが、質的にちがう相互作用を継続的におこない、そうした相互作用の範囲が特定のメンバーに限られている場合、その複数のメンバーを集団という」定義の理解を促したところです。今回は社会学理論の最終章に「社会の変動」を取り上げ、皆さまに馴染みのある話題「ただ乗りする人々」に迫ってみます。「いるいる」とか「いるよね~!」等々の声が聞こえてきそうな内容です。
社会の中では、人々が関わり合いながら様々な行為が行われます。そうした行為の重なりや積み重ねがあるの生活場面です。そうした生活場面では、時として眉をしかめてしまう振る舞いをしたりする人が出てきたりします。
多数の人々が集まるということは、様々な考え方をする人が集まるということにもなります。そうすると、自分ではコストを払わずに利益だけを得ようとする人が出てきます。例えば何らかの社会運動団体があったとします。そこに参加している人達が一生懸命頑張って何らかの成果を勝ち取った、またはその事で環境が良くなった等の変化が生じます。そうした中で、それらの活動には参加もせず協力もしないで、活動の成果等の利益を享受する人がいます。こういう人を「フリーライダー(ただ乗りする人)(free rider)」と言います。公共財(集合財)は、その供給に貢献しなかった人でも利用が妨げられない(非排除性)ので、それが可能になります。労働組合運動の成果として勝ち取った賃上げや労働条件の改善等々の恩恵は、労働組合運動に参加しない人でもその恩恵は受けられます。
活動が少人数の場合は少し状況が変わりますが、人数が多くなると「誰かがやってくれるだろう」「一人くらいやらなくとも体勢に影響はないだろう」「一人くらいゴミを投げ捨ててもたいしたことにはならないだろう」等々人任せや自分勝手な行動が生じたりします。しかし、多くの人が「一人くらい・・・」と、コストを払わないで利益だけを得ようとする、すなわち誰もがフリーライダーになろうとした結果、だれも利益を得られなくなる、誰もが損失を被ることになる現象が生じます。これを「社会的ジレンマ」といいます。一人くらい、と思って道路のチョットした空き地にゴミを捨てる。これがいつしかゴミの山となって環境が悪くなる等はよく聞く話です。多くの環境問題はこの様にして生じているといわれます。問題が発生するメカニズムは、基本的に同じなので、フリ-ライダー問題は、社会的ジレンマの一種だと見ることができます。
こうした社会的ジレンマは、負の側面だけなのかといったら「違うのではないか」と私は思っています。理論的には整理されているかどうかわかりませんが、「一人だけでも」と「身銭を切って(コストを払って)」社会的利益を生み出す行為。私は、目の前で見ています。
ただ乗りする人々と対比した言い方にすれば「ただ乗せする人々」になるでしょうか。彼らは、ただ乗せする行為を通して、「これって楽しくないですか?」というメッセージを押しつけがましくなく全身で現しています。無味乾燥な事務的な場は、カーテンや壁紙そしてジャズが流れ、珈琲の香りが音符に乗って漂います。参加した人々は、その場の力や「ただ乗せする人々」との関わりの中(相互作用)で、心が和み、この様な場があることに感謝し、「また来ます」とか「私に出来ることがあったら」や「子どもの手が離れたら」とかの言葉を残し立ち去ります。
「ただ乗せする人々」は、「共感」という報酬を得て顔をほころばせています。「ただ乗せする人々」は共感という「社会的利益」を生産し、それを持って「一人くらい・・・」から「私も」を増やし、参加した人々と共に、住みやすい地域、暮らしやすい地域、子どもをみんなで育む地域へ歩を進めている様に思います。即ち、「ただ乗せする人々」がだれもが被る可能性のある損失(社会的ジレンマ)を防ぐことに一役買っているのです。
このことは、数人の心ある人々の行為で地域が変わる、社会が変わる可能性があると言うことを具体的に示しています。フリーライダー問題に対して「ハチドリの一滴」が社会を変える。第15講は、社会にずるい人がいるという視点よりは、小さなちいさな一滴(振る舞い)が社会を変えることができるということを知る機会になって頂けたらとても嬉しいです。
昨年11月から始まったかじってみよう“社会学”は、4ヶ月を掛けて15講目を本日迎えました。これをもって本講座は終了となります。これまで約半年お付き合い頂きまして有り難うございます。テスト版として始めたのですが、皆さまの熱い眼差しの中で、慣らしアイドリング無しの全力疾走という感じで今日を迎えました。拙い内容でしたが、毎回コメントを頂き、そのコメントが回を追う毎に長くなる状況で、受け入れて頂けていることを実感致しました。こうした時間を皆さまと共有できたことを本当に嬉しく思っています。
皆さま有り難うございました。来週から「かじってみよう“社会学”」ありません。目覚めの良い週初めをお迎えください。さようなら。
2周目の15講目
社会の変動
『ただ乗りする人々』フリーライダー
活動に参加も協力もせず、成果等の利益を享受する人。
誰もがフリーライダーになってしまうと、誰もが損失を被る。環境問題等。
→社会的ジレンマ
反対に、ただ乗せする人が増えていくと社会的ジレンマを予防することができる。
ハチドリの一滴のように、小さな振る舞いが社会を変える可能性がある。
社会を変える可能性があるのなら、一人でもやり続ける。あいつなにやってんだと思われても気にしない。そういう人たちには笑顔であいさつしてやる!おはよう!
【かじってみよう社会学のまとめ】
社会学は学問であると同時に、人を生きやすくするための教えという一面がある。
宗教のようでもあるし、おばあちゃんの知恵袋のようでもある。
『他人に親切にすると自分が幸せになるんだよ』これは様々な宗教の教えに共通する真理である。しかし、おばあちゃんにも言われた記憶がある。
また、社会学を学び自分の内面を探求していくことで、自分というものを理解するよい機会となった。何と弱く、何と自分勝手で、何と幸せ者なのかと。先祖、親、家族、友人、知人、他人からも愛情をたくさんもらっているのだと知った。この社会に生きていることは、当たり前ではなく【ありがたい】ことなのだ。自分が幸せだと知ることで、他人にもやさしくなれるし、どんどん伝播していけば、きっと地域にまで影響を与えることができる。本当に学問というものは、戦争にも平和にも色々な活用方法があるものだ。おそらく社会学に限らず、学問とはこういうことなのかもしれない。ジャンル問わず、これからもたくさん学んでいこう。そして、人のために使いこなそう。学びだけで終わらせずに、行動までたどり着こう。
早速行動に移したことが一つ。8講目の本間先生のコメントに、日本人は特に場の空気に敏感に反応するとありました。仕事柄、自民党に近い団体にも所属していますので、『今これに取り組むと票になるぞ』という良い情報を多方向から流し始めました。
自民党県連が主体となり地域共生に取り組むと、高齢者や高齢者の世話をする世代に響く。このゾーンは最も投票率が高いので、票は確実に伸びるぞと。まずは一滴から。
1周目の15講目が終わった次の月曜日から始めた2周目が、本日終了しました。
この2周目でも、明らかに自分の成長を感じました。この機会を与えてくれた本間先生に感謝いたします。社会学では様々な学派があるようですが、僕は断然『本間学派』です。
15講目までお付き合いを有り難うございました。今回もいっぱい書いて頂きヒーヒー言いながらもワクワク感が増すばかりの時間を過ごしています。今、ARRL International DX Contestの最中です。そちらを気にしながら机に向かっています。
スマイルさん。このかじってみよう”社会学”ではスタンドオフ的役割を担って頂きました。この役目を担って頂いたお陰で、周りのみなさんは、どの様な視点で書けば良いのか、何を問われているのか等々の当たり、見当を付けることができたのではないかと思っています。有り難うございました。地域活動においても、こうした水先案内人的役割はとても大切だと思います。
さて、「その宝物を手のひらにとどめたい、という気持ちが『地域の居場所作り』へと向かわせました」。このように感じる人、語る人、考える人は山ほどいます。でも、実行に移す人は極めて少ない。自分の決断と勇気を褒め、同調してくれた友に感謝してください。
ただ乗りする人ではなく「賛同者」という捉え方は、人々を温かく迎え入れる最も大切な視点だと思います。こうした視点は「地域の居場所」づくりには必須だと思います。また、そうした視点は、活動の「クリエイティブ」さを下にした、ワクワク・ドキドキの中から生まれていることも、この活動の大きな特徴であるとともに強みでもあると思います。
「動機」「発想」は何よりも大切で99%それで決まるといっても過言ではないと言い切ります。私も同感です。私たちの振る舞いは、動機を下にして起こされ、発想を下にして活動の先を描きます。これが「クリエイティブ」とともに有ることで、より一層楽しさを内包した活動になっていると感じました。
「アーティストのように楽しむ社会」の提案。これに近いもので「地域デザイン」という考え方・活動が有ります。住民自らが地域生活をデザインするものです。是非、妄想を止めず実現してください。「これでさよならはなしで」、う~・・・ん!
いくこさん。いくこさんには、この講座で、「悩むこと、迷うこと」の必然性をみなさんに伝えて頂きました。みなさん、テーマを前にして自分を振り返り、自分に照らし合わせて、考えを巡らすとき、様々なことを思い出し、一筋縄ではいかない人生と向き合い、想像を超える他者の振る舞いに面食らい、自分の考え方にぐらついたり判断に迷ったり等々、様々な悩みとともに「自分」を見いだします。でもそれは「当たり前だよ!」っていつもみなさんに語ってくれる役割を担って頂きました。有り難うございました。
さて、人には「ただ乗りするとき」「ただ乗せするとき」の両面を持っているのではないかと、事例を下に説明してくださいました。これは「お世話する」という場面でも同じようなことが言われます。この両方に大切な事は、「双方向性を持つ」という柔軟性が大切なのだと思います。そうした双方向性のある社会が「人に優しい社会」というのだと思います。特別講義、う~ん・・・!
ハチドリさん。いつも身近な事例を下にして、みなさんが難しい理論をかみ砕けるように説明してくださいました。これは豊富な実践事例と些細なことにも関心を持つ観察力があればこそだと思い感心していました。こうした姿勢は、地域住民とともに学びを深めていこうとする「リスクマネジメント」にも役立ち、住民を主役にする関わりの有り方として大いに学ばせて頂きました。有り難うございました。
さて、小さな一滴(振る舞い)が線となり面に広がり社会をも変える力(波)になる。とても力強い言葉です。同時に、このことは、普遍性を持つ言葉だとも思います。こうした、普遍性をも持つ事を、身近な実践事例で説明して頂きました。プラゴミにほんのわずかな手を加えることでzeroカーボンシティーにつながる。この例で話されているのは、小さな振る舞いに大きな意味を感じる「社会的想像力」を磨くことの大切さだと思いました。小さな一歩が大きな地球環境に続く道だと語っているように思いました。また、こうしたものの考え方をすると、少しだけ面倒くさいことであっても、楽しく面白くすることができるとも思います。子ども達に、このようなおはなしをしてあげて頂きたいです。See You Again 、みなさんに向けて語ってくださいました、みなさんは喜ぶと思います。
鈴虫さん。鈴虫さんは、常に物事を真正面から取り組み、真理を目指そうとする「学生っぽさ」を漂わせて下さいました。こうの講座が「大学の講義」のような感じを作って頂くのに一役買って頂きました。大学院には、学部から上がってきた院生と社会人院生がいます。その両方がいることで、現実社会と乖離しない学びの場となっています。鈴虫さんには、毎回とは言いませんが、そんなストレートにものを見ようとする院生の役割を担って頂きました。有り難うございました。
さて、「全ての人には例外なく役割がある」名言です。ただ乗せする人が何らかの意図を持って「ただ乗りする人」にしていけば、その人は十分役割に応えている、と言えるのではないか。なるほどです。みなさんが日頃行っている事業には、確かにそのような構図が見えますね。そして「ただ乗り」「ただ乗せ」は表裏の関係に有り、表裏一体となり双方の役割を持っているのではないか。「誰かのためになる」時には「お陰様でした」をいう側にもなる。こんな繰り返しが「世の中って沢山の人々のお陰でうまく巡っている」ことになるのでしょう。次も楽しみに、う~・・・ん!
阿部さん。阿部さんには、「普通」を違う角度でもう一度よく見てみよう、という「見立て力」を感じます。これは仕事以外も含めた様々な実践の豊富さを下にしてオリジナルな視点を持てているからなのでしょう。そして、このオリジナル性は、信念と情熱に支えられたもので、それを下に物づくりをしている。仕事とは、自分のため、家族のため、そして社会のためにすることだという、三河商人の哲学を彷彿とさせられます。
さて、フィリーライダー大いに結構、興味を持って賛同してくれたら口コミで広げてくれる。困るのは、何のコストも払わず「自分がやった」と吹聴する人、ボランティア活動のみならず様々な場面で「いいどことり」する人。いるよいるよっていう感じです。
こうした中にあっても「ただ一人になっても、ハチドリ役を担おう。ひとしずくでも運ぼう。そしてそれは社会を変動させるどころか、社会変動論すら変えてしまうかもしれないと信じて」。最終的にはここですね。
お約束の15講のお返しまでに辿り着けました。皆さま有り難うございました。かじってみよう“社会学”15講目 、大学で言えば半期2単位です。ここまで来られたこと、とても嬉しく思っています。何より嬉しいのは、読んでくださる皆さま同士の会話が生まれたことです。これは、南三陸町支援をしていた時と同じような感覚になっています。とっかかりは私が色々とやったのですが、次第に自律力が付き、地元社会福祉協議会とそこで活動する支援員のみなさん自身で、考えを出し合い整理し事に当たるようになってきました。私の考える「自律」とは、そのような様子です。
その様子が見えるようになって、私は南三陸町を離れました。私がいつまでも指導者ぶっていることは決して良いことではないと考えたからです。彼らのこれまでの学びを尊重し、彼らの「これは私たちが成し遂げたのだ」という思いを持たせてあげたかったのです。このhpでも同様の空気感が生まれているように感じます。「さようなら」は別れの言葉ではない。今度会えたとき、お互いにもっともっと成長していましょう!という誓いの言葉。こんな青臭い気持で、私も「さようなら」と書きました。
学ぶことに終わりはありません。「一生勉強一生青春」から「一生感動一生青春」へ(見つけてくれた方がいました)。こんなことを思い浮かべながら、明日も「知っている人しか知らない」hpを書き続けたいと思います。
本間先生
ここまでの講評ありがとうございました。私は自分自身のコメントの傾向を客観的に見ることが出来ないでいますので、とても勉強になりました。
なるほどー、「常に物事を真正面から取り組み、真理を目指そうとする『学生っぽさ』を漂わせた、、」ということは、まだまだ世間知らず?いやいや、まだまだ伸びしろが有る!ということと受けとめました。
ありがとうございます。
全く、みなさんに対する講評も、独り「そうそう、そうなんだよね!」と頷きながら読みました。
先生の分析力、理解力はいつも素晴らしく的確です。
世の中には名ばかりの先生が星の数ほどいらっしゃる(と、私は思っている)のに、本物の先生に巡り会えた私達は幸せものだと感じております🙇♀️
では、次の講義がいつどんな風に始まってもいいように、スタンバイしておきますね📕🖌
『「さようなら」は別れの言葉ではない。今度会えたとき、お互いにもっともっと成長していましょう!という誓いの言葉』
東日本大震災後に携帯電話の着メロをいきものがかりの「エール」にしていたことがありました。
♪さよならは悲しい言葉じゃなくて
それぞれの夢へと僕らを繋ぐエール♪
着メロだから自分では聞けないので、職場の電話で自分にかけてこの歌をフルに聴いて、自分を奮い立たせていたこともありました。
先生の『さようなら』は、それと同じなんだととても安心しました。
ありがとうございました。
またその日を楽しみにがんばります。
やまぼうしさん、おはようございます。
着メロで「自分を奮い立たせていた」。私もそうです!
私はAIの「ハピネス」を着メロにして奮い立たせていました。
今、やまぼうしさんのコメントを読み、当時の今にも挫けそうな、でも頑張っていた自分を思い出し胸が熱くなりました。
私たちもあれから11年、懸命に駆け抜けてきたんですね。
やまぼうしさん ハグ!!
鈴虫さん、こんばんは!
新しい土地に畑を作ろうと張り切って出かけたのですが石ころがゴロゴロ。ショック~!
でも、少しずつ取り除けばきっと大丈夫と言い聞かせ、気づいたら薄暗くなっていました。
AIの「ハピネス」いいですね。元気と勇気がもらえて私も大好きです。
♪君が笑えば この世界中にもっともっと幸せが広がる
君が笑えば 全てが良くなる この手で その手で つながる♪
鈴虫さん、ありがとう、ハグハグ!
やまぼうしさん、おはようございます。
私達は思い入れのある曲に背中を押されているのですね。
そして、今年もまた春が来て畑仕事の季節なんですね。
私も種芋は準備してあります。
同じく小石を取り除きながらの作業ですが、癒しのはたけ楽しみにしているのですよ♪
やまぼうしさん、今朝はカラダが痛いのではないですか?お大事に過ごせますように🍀
受講生の皆さんへ
大人になってからの勉強というのは、本当にたのしいものですね。
子どもの頃は、あんなに苦痛・苦行だったのに。
皆さんと一緒に学べたことで、より一層たのしみが広がりました。
学校での講義は、課題を提出はしますが、みんなのレポートは見れませんでした。本講義では、皆さんのレポートを見て驚きや感動をいただきました。本当にありがとうございました。
それではみなさん、いつかお会いしましょう!
『それではみなさん、いつかお会いしましょう!』
阿部さんのこのご挨拶、とても心強く素敵だと思います。ぜひ、みなさん、お会いしましょう!
ついに感動の第15講目!ありがとうございます!
今日は社会の変動ですね。
フリーライダーは基本的に大歓迎です。コストは払っていませんが、興味を持って賛同してくれたらいくらでも利益を享受してください。その利益がとても有益であったなら、きっとフリーライダーでも皆に宣伝してくれるでしょう。それで輪が広がってくれれば良し。
少し困るのは、コストを払っていないのに自分が主導的にこれをやったのだと、ウソをついて自慢するやつ。ボランティア活動をしていると、終わるころ現れて『今日もよい活動ができた。次回もみんなでがんばろう』などと言う。疲れていないのでとても元気だ。実働している人たちは疲れがどっと出てくる。この悪循環は断ち切りたい。
さて、みんながフリーライダーだったらそれは怖い。町は廃墟と化すでしょう。社会的ジレンマとか、かっこいいことを言っていられません。捨てる人がいたら、拾う人もいないと。
ただ一人になっても、ハチドリ役を担おう。ひとしずくでも運ぼう。そしてそれは社会を変動させるどころか、社会変動論すら変えてしまうかもしれないと信じています。
かじってみよう社会学という本間先生の試み、ひとしずくが、大きな波紋となって僕たちに作用しています。生きている限り作用し続けるでしょう。また、人にも伝えていくでしょう。
とってもたのしかったです!ありがとうございました!
全ての人はもれなく、その人ならではの役割を担いながら、それぞれの集団の構成にひと役かっています。
表舞台に立って対外的な役割の人もあれば、裏方に徹して黒子のように地味な役割の人もあります。その両者が集団にとって必要不可欠な存在であることを認め合い、お互いへの尊敬と感謝の気持ちがあれば最高です。その様な集団からは自然に素敵な空気が醸し出され、さらには世の中からも認められる集団になれるのではないかと思います。
『ただ乗りする人』はズルいひとなのか?ここに誰かのためにと思いを込めて『ただ乗せ』させる場を作ったら、そこに『ただ乗りする人』が入って初めてその場が完成するのですよね。
だから、『ただ乗りする人』は十分にその役割期待に応えていることになります。
そもそも、その人に自分がただ乗りしているという意識はあるのでしょうか?
例えばこんな感じ。なんだか面白そうだから覗いてみよう、その場に身を置かせてもらって味わってみたら美味しかった。その経験を美味しかったで終わりにすれば『ただ乗り』、自分の世界に取りいれてみれば『ただ乗せ』する側にもなれるのかと思いました。
私自身もある集団ではおもてに立つ役割をいただき、別な集団では黒子に徹する役割も担っています。このように誰もが表も裏も両方を担っているのだと思います。
そのどちらの役割にも共通の思いは『誰かのために』ということ。
それが家族のためなのか、地域のためなのか、もっと大きく世界のためなのかという違いはあっても、自分自身のためだけを考えている人というのはほとんど居ないのではないかと思うのです。
何か行為を起こす時、先ず、損得勘定をする人があります。でも、そんな人も集団には必要でみんなが皆んなお人好しばかりでは集団は成り立ちませんので、毛嫌いせずにブレーキを踏んでくれてありがとうと考えるべきなのでしょうね。(と、自分に言い聞かせる(^^;; )
たとえ誰かに理解されなくても、上手く伝えられなかったとしても、見えないところで誰かのためにと心を尽くしていてくれる人がいるのだと考えると、心底からおかげさまでという気持ちが湧いてきます。
このように世の中って沢山の人のおかげで上手く巡っているのですね。
私に関わるみなさん本当にありがとうございます!
かじってみよう社会学の最終講義まで終えた今でも、こんなまとまりの無い文章でコメントをしてお恥ずかしいです(汗)
どうか拙い表現から私の思いを汲み取っていただきまして、私なりの理解度ではありますが全講義をしっかりと受け止めさせていただいたことが伝わればいいと願います。
ここまでありがとうございました。
次も楽しみにお待ちしています!
でも先生、先ずは自分自身が大切です。心身共に健やかであることを蔑ろにしてはいけません。
先生もみんなと同じヒトなんですから、休む🦥、いたわる💆🏻♂️、解放⛩することを忘れずにいて欲しいと願っております!
『社会にずるい人がいるという視点よりは、小さなちいさな一滴(振る舞い)が社会を変えることができるということを知る機会になって頂けたらとても嬉しいです。』とありました。
1人ひとりの行為は小さいかもしれないけれど,それが線になってつながり,面になって広がり,社会を変えていくことはできるんだと思います。
とても小さな話です。プラスチックの容器,家ではすぐに台所で洗ってプラごみに捨てていますが,実は洗う場所が離れている職場では,汚れた容器をそのまま燃えるゴミに捨てる人がとても多いのです。今の私のひとしずくは,職場で食べたプラスチックのお弁当などの容器を炊事場に行って洗い,プラごみに捨てることです。このことを見てくれてた人が他の人のも集めて洗ってくれていました。こんな些細なこと・・と思ってしまいますが,ゼロカーボンシティに向けて,今,自分ができることをしていきたいと思います。
昨年11月にテスト版として始めたという本講座,先生は『物事を見る際の視点を一つ増やしてもらいたいという想いから」と語っていたと思います。それが,ひいてはより良い社会づくりに役にたつのではないかと。まさにそのように進めていただいたと思っております。本当にありがとうございました。
こちらもレポートの書き方が慣れておらず,そもそもあまり聞き覚えのない言葉などが出てきて最初は戸惑ったこともありました。まずは遅刻をしないようにしようと思いつつもなかなか書けず,ギリギリセーフのことも何回もありましたが,回を進めていくうちに大学生になったような錯覚に陥り,他の皆さんが書くレポートを読む余裕も出てきたり,コメントの交換をできて嬉しかったですね。何より,先生の丁寧な思いやりのある講評コメントを読むのがとても楽しみでした。自分の拙いレポートの内容が,先生の言葉のおかげで,「そういうことだったか!」と自分で自分に喜んだり,新たな発見につながったり,そんなふうに受け取ってもらえたんだと嬉しくなったりと,自分に気づきと自信を持たせていただきました。そして,スマイルさんが書いてらしたように,月曜日の朝に新しい講座がアップされているのが楽しみで,月曜なのに朝がワクワクな気分でした。ですので,最後の『皆さま有り難うございました。来週から「かじってみよう“社会学”」ありません。目覚めの良い週初めをお迎えください。』は,なんだこれ・・と自分が遠くにポツンと置かれた気持ちになり,『さようなら』に関しましては,「え?何にさようならですか」と考え込んでしまい,先生にメールまでしてしまいましたが,未だ答えは出ておりません( ;∀;)
他の曜日の投稿記事でも勉強になることは実はあちらこちらにあると感じてはいるのですが,例えば講座5回シリーズとか,またいつかお会いできますことを願っております。あっ,お土産は岩屋堂の羊羹でしたよね。友達は「ゴマ」も美味しいと言ってましたが,やはり餡子の本練でしょうか。では,See You Again!
先生、たくさんの時間を費やして講座を開いて頂いてありがとうございました。卒業式を迎えた気分でじーんと感動しています。
人はみな「ただ乗りする人」「ただ乗せする人」両方あるのではないかと思います。
24年前、長男が幼稚園に上がるのを機に現在の住まいに引っ越してきて、知り合いもなく幼稚園の保護者会に出かけました。年度初め恒例の役員決めの席で、すぐにお母さん二人が手を挙げてくれました。団地内は家もまばらで幼稚園までは歩くには遠く、なかなか保護者会の行事にも出かけることができずにおりましたが、翌年住まいの近くに開園した姉妹園に転園することになったとき、役員を務めたお母さんを中心に有志が集まって、転園する子ども達のためにひとりひとりの名前や先生の名前が入ったハンカチを作ってくれました。なんとあたたかな気遣いかと感動して私もできることはしようと思ったのでした。
時が過ぎ役員のお母さん方のお名前も思い出せませんが、その気持ちが今日まで続いていることを思うと、人の集まりで気まずい思いや嫌な思いをすれば次に繋がらないのは無理もないのではと思っています。ささやかでも私が「ただ乗せする人」になったときに居合わせた人が、誰かに優しくしてくれたらというのが願いです。
今から人に優しくする!と皆が思うだけで一瞬で世の中が変わると、夢見ています。
「NOWAR」9月11日、そしてまた今胸の痛むニュース、せめて笑顔を誰かにと思っています。
先生にお時間ができた時などの特別講義!!お待ちしています。ぜひ!!!
東日本大震災の時、津波の被害はなかったものの、ほぼ住んでいる地域に閉じ込められるような状態が続きました。あの時の近隣の密度の濃さは今でもはっきり覚えています。小さなことも声を掛け合い、情報を伝えあい、助け合って過ごしました。数日後に電気が通った時は、会う人ごとに喜びを分かち合いました。大変なことがたくさんありましたが、とても大切なことに気づかせてもらえたこともたくさんありました。
日がたつにつれて、その密度が薄くなっていき、何事もなかったようなよそよそしさに変化していくことは、大切な宝物がどんどん手のひらからこぼれおちていくような気持でした。その宝物を手のひらにとどめたい、という気持ちが「地域の居場所作り」へと向かわせました。
ほぼボランティア(自分のものを持ち出すことも日常茶飯事)の活動ですので、もしかしたら参加してくださる人たちは「ただ乗り」ということになり、私たちスタッフは「ただ乗せする人」ということになるのでしょうか?そのことを考えてみました。
「ただ乗りする人」という言葉から受ける印象は「嫌な仕事は人にさせて美味しいところだけいただく」というものです。でも、私たちの活動に参加してくれる人たちは決してそういう人たちではなく、趣旨に賛同して集まってくれる人たちです。だからこそ、なのでしょうか?私たちスタッフは誰一人「ただ乗せをしている」とは思っていない、そういう発想にはならないのではないか、と感じています。社会をほんの少しでも動かすものになるとしたら、この点がとても大切だという気がします。
さらに自分たちの活動を振り返ってみると、どちらかというと「クリエイティブなものだ」という気がしています。「次はどうしよう?」「何をしたら楽しいかしら?」と企画している時わくわくドキドキします。理想に近いものになるような場づくりをして、そこに集まってくれる人が笑顔になってくれたら、それは最高の喜びです。きっとアーティストの人たちは「この作品はいくらになるか?」という損得勘定ではなく、どうしたら自分が表現したいことが形になるか、ということに全身全霊で取り組むでしょう。そして思うように仕上がった時の喜びはたとえようもないものでしょう。そういうものに近い気がします。
参加してくれた人は、その「作品」の創造に関わっている、ということが無意識にわかるのではないか、だからこそ楽しく、ついつい長居になり、次回も参加してくれるのではないか、と思うのです。
そういう発想が広がったら、もっともっと地域や社会はいいものになるのではないでしょうか?「動機」「発想」は何より大事で、むしろ99%はそれで決まる、という気がします。「社会学」で「アーティストのように楽しむ社会」も提案いただけたら、どんなにわくわくする世の中になるかしら・・・と妄想しています。
自分たちの活動について、今までこのように考えたことがありませんでしたが、本間先生が提案してくださったおかげで、「そうか!そういうことかもしれない!」と、なんだかとってもすっきりし、清々しい気持ちになり、そして励まされ、あらたな希望を感じ、喜びに満ちています。「腑に落ちる」ってとても大事で、そのためにも「学び」は大切で、その「学び」も受け身で終わっていたら決して喜びが湧き上がってくることはなく、自分の頭で自分の言葉で考えてこそなのだと、あらためて知ることができました。この「かじってみよう社会学」は、そんな本物の学びの場でした。月曜日は目覚めが悪いどころか、新しい講座がアップされることが楽しみで仕方ありませんでした。読んでからあれこれ考える時間、そして共に学んでいる人たちと分かち合える時間は至福の時間でした。何歳になっても(むしろいろいろ経験したからこそ)深い学びができるのだということは本当に嬉しい発見でした。
15講座大変だったことと思います。先生ご本人も書いていらっしゃるように、全力疾走だったこと、きっと受講していた方みんな納得だと思います。毎回心をこめ真剣にコメントを書いてくださることが本当にありがたかったです。ありがとうございました。そして、ぜひぜひ一休みなさったら、また次の講座をお待ちしています。私たちには「学び」が必要です。「これでさよなら」はなしでお願いいたします!