かじってみよう“社会学”9講目 相互作用論の世界「地位と役割」

前回は、年末年始を挟んだことから、リハビリのために社会学理論の核心には入らず、これから学びを進める相互作用論の世界の概観を行うと共に、チョットした話題提供として「ベーシック・サービス」について触れました。今日からは本論に入ります。始めに取り上げるのは、相互作用論において最も重要な概念「地位と役割」です。このテーマを何度かに分けて解説していきます。

前回も書きましたが、AさんとBさん二人の社会での場面を想定して説明します。AさんがBさんに何かの行為で働きかけ、それに応じてBさんはAさんに何らかの行為で応じる。この時、AさんとBさん二人の間には、ひとつの「関わり」が生じています。この関わりは、相互に行為を働きかける関係なので、「相互行為」とか「相互作用」と呼ばれます。また、人が何らかの形で他者に働きかける行為を「社会的行為」と呼びます。これが相互作用論の世界です。こうした相互作用論の中で暮らす私達は、様々な顔を持ってその暮らしを営んでいます。

私の場合で言えば、1年ほど前は、東北学院大学の教員の顔、現在は地域福祉研究所の主宰、たまに講義を頼まれたときの講師、仙台市の民生委員児童委員、家庭では、妻の尻に敷かれている夫、隣に住む娘の長男のお祖父ちゃん、アマチュア無線倶楽部会員といったふうです。このように、職場、地域社会、趣味団体、家庭等々の集団の中での立ち位置(ポジション)を「地位」といいます。また、その地位にある人がやることになっている行為の内容を「役割」といいます。

2022.01予定表

私たちの社会生活がそれなりに円滑に送ることができるのは、各人に与えられた役割をそれなりに遂行しているからです。また、私たちは、何らかの地位にある人間として、何らかの地位にある他者と関わっています。例えば、教員と学生、講師と受講生、夫と妻等々です。つまり、私達が暮らす世の中は、複数の地位で構成された無数の場によって成り立っています。

人間の相互作用(人と人との関わり)は、その場に固有の地位構造(例えば教員と学生)を踏まえて展開されています。私たちは、会社にいる時は課長の顔で振る無い、自宅にいつ時は、父や夫の顔をします。このように、人は、地位という顔をとっかえひっかえしながら生きているのです。

人が、ある場面にある地位を持って現れるときは、自分と相互作用を行う別の地位を持つ他者(自分の相手)に対して、その地位にふさわしい役割の遂行を期待し、他者も、その人にその地位に付随する役割の遂行を期待します。例えば、授業を行う教室では、教師は教員としての立ち振る舞いや学問の教示に工夫を凝らす様に努力し、学生は、教師が、教員としての言動や講義内容の充実に励むことを期待します。

役割の遂行の多くは、他者(役割遂行の対象)の期待を先取りしながら、ほぼ自動的に行われます。この様な状態の時、他者が役割の遂行を期待することを「役割期待」といいます。学生が、先生に対して、面白くて内容の充実した授業を期待する、といったような時に、学生は先生に対して、「面白くて内容の充実した授業」を行う先生を期待します。これが役割期待です。また、他者に対する自分の期待と自分に対する他者の期待とは、たいていうまくかみ合う様になっています。この様な状態を「役割期待の相補性」といいます。こうして、私たちの社会生活は、地位と役割は相補的に出来上がっており、互いの役割期待を先取りしながらそれを遂行することで、秩序ある社会生活が成り立っています。

日本人は、「地位と役割」をことさらに意識するといわれています。地位と役割で自分を保っていると言っても良いかもしれません。この様な質問の回答の例があります。質問「あなたは何ですか?」と、どの様にも応えられる様な質問を行います。回答「私は〇〇会社の課長です」「私は、〇〇の母です」「私は、警察官です」等々の回答が多いといいます。一方、外国の方(どの国か忘れてしまいました)は「私は音楽をこよなく愛する人です」「私は、趣味の多い人です」「私は、良く旅行をします」等々と、日本人とはだいぶ違った答えが多いといいます。

すなわち、日本人は、自分を説明するときに役割(会社の課長、母、職種)を意識した言い方になるのだそうです。みなさん、何となく心当たりありませんか?特に、男性はこの傾向が顕著だといいます。何か頼み事をするとき、男性の場合は、目上の方(地位と役割のある方)からお願いすると受けてもらいやすいといったことがあります。反対に、頼み事をするときに、平社員が一人でいったりすると、内容に関わらず「出直してこい」といわれてしまったりします。とかく男は扱いにくい(と、女性の方々の多くは思っています)。一方、女性は肩書きに弱いともいわれます。ブランド志向なども、もしかすると、ここに源があるのかも知れません。

この様なことがおかしいといっているのではありません。私たちは、「地位と役割」という概念が、少なからず私たちの行為に影響を与えているということをいいたいのです。また、男性、女性と区別してものを考えようとしているわけではありません。しかし、みなさんに叱られるかも知れませんが、絶対的ということではなく相対的に性差はあると思います。その違いを差別するのではなく尊重し活かすことがあっても良いのではないかと思います。

あ、この一文は蛇足だったかも知れません。聞き流して下さい。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”9講目 相互作用論の世界「地位と役割」” に対して11件のコメントがあります。

  1. welfare0622 より:

    かじってみよう“社会学”9講目 相互作用論の世界「地位と役割」New” に対して、9件ものコメントを有り難うございました。この中には、これを見ている方々同士のやり取りも有り、それこそが私の望む姿と喜んでいます。

    スマイルさん。「役割期待の相補性」の現実はなかなか厳しいものがあるようですね。阪神淡路大震災の記事から、「他者の期待」を背負って生きるだけではなく、むしろ「自分はどうありたいのか」を意識して行為する時代であってもらいたいとの考え方を示して頂きました。他者の期待や視線を気にする余り、精神的に不安定になる人が多きなっていることに心を痛めていると!これらの提言・注意喚起は、他者に寄り添い支えてきた自らの体験・経験に基づくもので、とても説得力のある言葉で、これから向かいたい姿を示して頂いたと思っています。

    自分勝手とは次元を異にする「自分本位に生きる」という日本人には苦手な考え方。これを「自分がそうしたいからそうしている」という潔さと考える。この潔さという感覚は、これも日本人にはある感覚なので、「潔い」という受け止め方にすると受け入れやすいのではないかと思いました。最終的にこうもいっています。「自分」と「自分の人生」に責任を持ち、出来るだけ良い方向に歩を進める。これに尽きると!

    そして「社会学」から「教育学」への視点の展開も、これからの活動の方向性を示す、ある種の決意の様に受け止めました。体験→学び→新たな方向性の獲得。この循環が無理なくそして理論的に積み重なっていることに感心させられたコメントでした。

    いくこさん。「ねばならない」の呪縛が自分を追い詰める。時々の役割期待に、「思い込みなのではないだろうか」と心が揺れる。そのようなとき、これは「自分が決めたことだ」という、揺るぎのない信念が自分を支える。これの繰り返しが、いつの時か確かな踏み跡としての「道」が後に続いている。これが私の人生、私たちの歩みだと!わかります。

    社会学は「外へ目を向けるほどに内へうちへと誘う作業である」これ、名言です!

    阿部さん。人間は様々なペルソナ(顔)を持ち、必要に応じて使い分けている。自然に選択しているようでなにがしの理由を持って行っている。少し自分を客観的に観察してみると、そのにはなかなか面白い自分がいる。そう思います。

    相手を選んで募金する。いったい自分の選択はどこから来ているのか。時間の流れをゆっくり巻き戻してみると、どこかに思い当たる出来事に出会うかも知れません。そこに、自分を知るヒントがある様な気がします。

    鈴虫さん。相互作用は、相手への興味関心で発展する。そして、その相互作用が相補性を持つか否かは、それぞれの振る舞いしだい。その為にも、役割期待に精一杯応えようとする自分がいる。私たち日本人は、こうした傾向を持つ方が多い様に思います。

    「他者心を尽くす」と同時に「自分」をしっかり持つ。一見、相反する感じもするのですが、ともに「さらに高みを目指す」という点では共通する様に思います。「相手」と「自分」のバランスを取りながら社会生活を営む。こうした意識を持居合わせることで、私は、「更に高みを目指す」は可能になると思っています。いくこさんや阿部さんへのコメント有り難うございます。このようにして、このhpに参加して下さっているみなさん同士がつながりを深めることが私の望みです。有り難うございます。

    ハチドリさん。おっしゃるとおり生まれてきたときから、もしかするとお母さんのお腹の中にいるときから、何らかの地位を獲得し現在に至っています。このような視点に立てていること自体で大きな学びがあったと思います。自分の地位での役割期待への振る舞いを振る返り、自分自身の有り様を思い返す。このような他者性(自分を客観視して判断する)を持つことは、更なる高みを持って行為するためにもとても大切だと思います。

    名刺、工夫されていますね。何より、自分の名刺一枚で、表現している。素晴らしいことです。自分の持つものに表現やメッセージを込めている。これは、ハチドリさんの「個性」ですね。

    皆さま、今回も有り難うございました。このようなやり取りは私の願いです。これからも宜しくお願い致します。

  2. やまぼうし より:

    女性は肩書きに弱いのですね。確かに・・!
    「日本一美しいスタバ」と聴いただけでとても行ってみたくなります。調べて見たら富山県環水公園とのこと。さらに調べて行くと他にも福岡大濠公園店、福岡大濠公園店がありました。何がどんな風に美しいのか役割期待してしまいます。

    脱線してすみません!

  3. ハチドリ より:

    『相互作用論の中で暮らす私達は、様々な顔を持ってその暮らしを営んでいます。』
    先生の例を読んで、お孫ちゃんのおじいちゃん、そういうのも地位なんだ・・と思い、私の場合、これまでの「地位」と言う概念、イメージを一度取っ払って、読み進めてみました

    そう考えると、生まれた時から、幼少期、学生時代、就職、子育てと自然な当たり前の何かしらの地位があると言うことですね。また、こんな仕事をしたいと考え、勉強をしたり、切磋琢磨して得た地位もあります。
    『人が、ある場面にある地位を持って現れるときは、自分と相互作用を行う別の地位を持つ他者(自分の相手)に対して、その地位にふさわしい役割の遂行を期待し、他者も、その人にその地位に付随する役割の遂行を期待します。』
    つまりここが、Aさん、Bさんの相互作用と言うことでしょうか。さまざまな地位を活かしていくために、役割って大切ですね。人前で何かお話するときはとても吟味したり準備したりするけれど、他の地位でも自分の振る舞いをちょっと眺めてみたいと思いました。

    「あなたは何?」
    山菜採りとアウトドアライフが大好きです(今はあまり行けてませんが)。名刺交換も大切にし、私の名刺には自分の好きな花や言葉をさりげなくいれたり、ほんのり好きな香りが漂うようにしたことがあります。

    あっ、私も性差はあっていいと思います。
    その違いを尊重し活かすことは、とても大切なことだと思います。重い物を持ったり運んだりはやっぱり頼りたいです。

  4. 鈴虫 より:

    AさんとBさんとの相互作用とは、そもそも多くの場合、相手への興味関心が無ければ発展しない関わりだと思います。
    一方からの役割期待が有って他方がそれに応えようとする時、どれだけの思いを込めて応えるかによって、その関わりが表面的な薄っぺらいものになるか、お互いに実り有る相補性の高いものになるかという差をうみ出すのではないでしょうか。
    自分が期待されていることに対して、精一杯で応えようとする姿勢こそが大切なのだと思います。

    また、いくこさんと同じく私も「ねばならない」という思い込みで自分自身を縛り付けてしまうことがあり、少し似ているなと思いました。
    でも、そんな時は深呼吸をして自分を解放してやる方が良いということをわりと最近覚えました。
    いくこさんは以前に「手の抜き方がわからない」とおっしゃっていましたが、それはいつでも精一杯を尽くしておられるということ。どうぞ、そんなご自分を認めて褒めてあげて欲しいと思います。

    先生、私は、様々な活動に私欲抜きに励まれるみなさんと同じ学びの機会を頂き、沢山の刺激を受けています。
    いつも本当にありがとうございます。

    1. いくこ より:

      鈴虫さん、いつも優しいコメントをありがとうございます。
      「わりと最近」私もそうです。手の抜き方はやっぱりわからないのですが、作りこんで足し算する方が「好き」なのだと気づきました。
      「深呼吸して自分を解放」ほんとうにそうですね、阿部さんもおっしゃってますが自分の有り様を俯瞰して「観察する」と面白がることができるのかもしれません。
      私の「解放」は少しの時間でもスタバなどのカフェに行くことでした、気分転換に大事なものでした。気づいて面白がりたいと思っているこれからのカフェ時間は、さらに楽しいものになりそうです。いつかご一緒したいですね。

      1. 鈴虫 より:

        いくこさんお返事ありがとうございます。

        作りこんで足し算するする方が「好き」これですね!
        そうなんだ私もそれが好きです!
        自分だけのこだわりは追求したいからやはり手抜きが出来ないのです。
        こんなもんでいいやをしたとたんに自分でなくなりそうで、それが私と納得出来るからいいのかなと思います。
        いくこさんの言葉ではっきりと自覚出来ました。
        ちょっと元気が足りない今朝、温かい気持ちになれました、ありがとうございました。

        今日はNaritaカフェの日でしたね、たくさんの笑顔に会えますように☕️😊

        1. いくこ より:

          うれしいお言葉、こちらこそありがとうございます。

  5. 阿部 優 より:

    『地位と役割』
    本間先生、今回もとても面白かったです。

    人は様々な地位(顔)を使い分けている。確かにそうだと思う節もあるが、僕は場が違うのに同じ顔をしていることが多いなとも思う。

    家での顔と同じように会社でスタッフに接し、同じようにお客様に接していることが多々ある。これは役割を遂行していないのか?おもしろいので、少し自分を観察してみよう。

    あなたは何ですか?と問われれば、僕はわがままなお人好しです。出会えた人の役に立とうとしています。範囲がわがままに限定的ですが、冬の夜に路上生活者に出会うと、これで暖かいものでもとなります。この時も同じ顔。でもユニセフには募金しない。いったい僕は何なのでしょう。

    1. 鈴虫 より:

      阿部様
      初めてコメント致します。
      いつも余裕綽々で講義を受けられているご様子で、私の一杯いっぱいとは随分違うなぁと感心しております。

      どんな場面でも同じ顔で居られるとは、大人な対応を心得ておられるからなのでしょう。
      そして、出会えた人の役に立ちたくてユニセフには寄付しないというのは、決してわがままなどではなく、ちゃんと目を見て手から手へ直接的に役に立ちたいということなのでしょう。

      この場では女性たちの他愛のないおしゃべりが飛び交っていますが、BGMのように聴きながらお付き合い頂けたらうれしいです。

  6. いくこ より:

    役割期待と役割期待の相補性、スマイルさんのコメントによって更に深く胸にせまります。
    「ねばならない」という言葉で自分の有り様を決める、もしくは追いつめる。
    親子関係のように関りが深い人間関係の相補性はどうでしょうか、役割期待に応えていると信じがちだと思いますが、時を過ぎてはたしてそうだったか、思い込みの独りよがりだったのではと心がゆれてしまいます(私の場合)。
    ゆれる心に答えを与えるのは「自分が決めたのだ」という事実です(私の場合)。
    さて、私は何なのでしょうか、問いかけられればその場その場で役割期待に応えてしまいそうです。
    社会学は外へ目を向けるほど、うちへうちへと向かう作業になってきています。

  7. スマイル より:

    「あなたは何ですか?」と聞かれたら、私は何と答えるだろう・・・真っ先にそのことが頭に浮かびました。そして、「なんと答えるのかな?」「なんと答えるのがふさわしいのかな」と折に触れて考えています。

    次に浮かんだのは、「他者に対する自分の期待と自分に対する他者の期待とは、たいていうまくかみ合うようになっていて、これを『役割期待の相補性』という」ということについて、本当に「たいていうまくかみ合うようになっているのかなあ」という想いです。

    そうこうするうちに、同じ日にアップされた『「忘」を選んだ追悼 阪神淡路大震災から27年』の記事を読み、さらに考えていました。いつか起きるかもしれない地震に備えて、日ごろからできる限りの備えをし、すぐに指揮をとれるような状態に自分を準備していた本間先生は、はたして「他者からの期待を先取りして遂行していたのだろうか?」と・・・むしろ「自分に対する自分の期待」ではないのかな、と。「こうありたい」という自分の理想や願いに忠実だったのではないかな、と。そして、これからの時代は、「他者の期待」を背負って生きるより、「自分がどうありたいか」ということを考えて行動する時代になった方がいいのではないかと。

    他者の期待や、周りの目を気にしすぎて精神的に不安定になっている人がとても多いことが気になっています。「自分勝手」とは全く別次元の「自分本位に生きる」ということ、日本人はとても苦手で、苦手なあまり「自分勝手」と混同してしまいがちかもしれないけれど、よくよく考えてみることが大切だと感じます。「自分がそうしたいからするんです」という潔さ。評価されてもされなくても(多少がっかりすることはあっても、これでよし、と最終的に思えるような)清々しく生きる生き方がいいのではないかと。

    このコロナ禍でいろんな価値観が揺さぶられています。それでも残るもの、「ああ、やっぱり大切」と思うもの、それはどんなものでしょう?今、まさにふるいにかけられているような気もします。結局は「自分」と「自分の人生」に責任をもって、できるだけ良いものにする、ということになるのではないかな、と思っているところです。自分に与えられた役割があるのなら、その時その時精いっぱい取り組みながら・・・

    さらに言うならば、「自分はこうありたい」ということが社会の秩序を乱さず、それどころか良い循環を生み出すようになるためにはどうしたらいいのだろう?と考えてみると、子育て、特に「三つ子の魂百までも」というように「幼児教育」が大切なのではないか・・・と「社会学」から「教育」へと考えが進んでいきます。

    そんなわけで、「地位と役割」という社会学の概念はとてもわかりやすかったけれど、どうしてもここに書いたような方向に考えがいってしまいます。

    さて、「あなたは何ですか?」という問いへの答えはまだ思案中。時々、自分にそう問いかけること、そしてその都度考えることこそが大切なのではないかな、と思いながら。

鈴虫 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です