食べ物への感謝(声の交差点より)
1月5日にアップしました「7月29日からは未来へに借金で生活(「オーバーシュートデイ」)」に皆様から多くのコメントを寄せて頂き、食にまつわる思い出話に花を咲かせていた丁度その時です。1月5日(水)の河北新報「声の交差点」に聞き慣れた方の投稿が掲載されていました。80歳で栗駒山に登頂した鈴木ちよのさんのおなさ馴染、鈴木一枝さんの『食べ物への感謝を忘れず』という題の投稿です。]
偶然にしては出来過ぎです。貧しい中にも豊かで愛情に満ちた「雑炊」への感謝、母への想いが綴られていました。三世代で台所に立ったり、笑顔で食卓を囲む喜び、いい感じに無くなるおせち料理、手打ち蕎麦、食材を丁寧に使い切る工夫等々様々な思いを込めた手づくりのもてなし。こうした食をとおした相手への想いというのが伝わり、とてもほっこりするきもちになりました。一枝さんの言う、「感謝する気持ちを忘れず楽しく元気に!」と符合する内容だと思います。
ちよのさんと一枝さんは、いつも一緒です。そして、何処にいてもいつでも気にかけ連絡を取り合っています。いつか、ちよのさん宅にお邪魔したときのお話しです。ちよのさんは「家出」して外の空気を吸ってきた。一枝さんはここから出たことがない。そんな話をしながら、互いが互いの生き方を「うらやましい」と、言っていました。私は、言葉は「うらやましい」という表現を使っているのですが、本音は、互いが互いの生き方を尊敬している様に聞こえました。それぞれ、選択した方法は異なるのですが、その選択に間違いは無かったと互いに言っているのです。なんて素晴らしい関わりなのだろうかと胸が熱くなったのを覚えています。
自分の人生を肯定してくれる人がいる。これほど幸せなことはないと思います。歳を重ね、やり直しの利かない後戻りできない年齢になって、こうした自分の生き方を認めてもらえることは、自分自身が自分の人生を「これで良かったんだ」と思えることに通じます。
“自己”は他者の言葉や振る舞いで、認識すると言われています(鏡に映った自己)。自己を見つめる為には、こうしたちよのさんと一枝さんの様な関わりのある他者が必要なのです。私にはいるだろうか?きっといるはずだ、そう願わずにはいられません。
栗原市住民様
鈴木一枝さんの、声の交差点『食べ物への感謝を忘れず』を読んで、とても懐かしく父母を思い出していました。
子どもの頃、質素ながらも母の優しさの伝わる温かい食卓を囲んでいたっけ。
そんな遠い記憶を思い起こし、私は愛情いっぱいに育ててもらったんだと、今、胸を張って語れています。
ありがたいことです。
「一枝さんの言葉が、遠くのみんなにも幸せを運びました!ありがとうございました🙇♀️」と、
是非ぜひ、一枝さんにお伝え下さいませ。
1/5に栗原市住民さんがコメントしてくださっていたちよのさんのお友達の声の交差点を読みたいと思っていたので、アップしていただきとても嬉しいです。
雑炊、私も食べさせられました。母の実家のおばあちゃんが作ったやつと母が作ったやつです。おかずがない時に作っていたような記憶で、実は看護師をしていた母が作るのは、忙しく作るためか時々焦げていて(天国のお母さん、ごめん、ばらしちゃいました😅)、それを鈴虫さん同様、トロッとしたのをハフハフ言いながら食べていたその味が鮮明に思い出にあります。
そして、今も無性に食べたくなるのは、じゃがいもとウドのみそ汁をご飯にぶっかけて、シャカシャカ食べるねこまんまご飯です。これは山菜の豊富な新潟生まれの父親が大好きだった子供の頃のおやつなそうで、小さい頃にそれをよく聴かせられていた私は、自分でも作るようになり、わざとみそ汁を残して冷たいご飯にかけて食べていました。あっ、春になれば今でも毎年です。
こと食べ物のお話しになると、思い出が蘇り話は尽きませんね~。一枝さんの「声の交差点」を教えてもらい、ありがとうございました。
そして、ちよのさんと一枝さんのような関係性、何歳になってもこういう関わりができるって本当にいいですよね。
え?先生、なんですって?
『私にはいるだろうか?』ですって?
先生のここでの投稿に対してだって、いつもみなさんからのたくさんのコメント、言葉や振る舞いがあるではありませんか?
私はとても素晴らしいのではないかと思っています。
鈴木一枝さんの記事を読んで、まるで母と並んで台所に立っているような温かい気持ちにさせられました。
そして、まさに私もタイムリーと思いました。
職場での会話、私の作った七草粥が数えてみたら五草粥だったと言って皆で笑っていました。すると、それを聞いていた方が「お粥もいいが俺は雑炊が好きだなぁ」と一言。
雑炊は私の父が好きで子供の頃一緒に食べました。嫁いでからは義父と二人のお昼の時「じいちゃん、たまには雑炊にしよっか」「いいな」と、はふはふしながら食べたものです。
そういえば、二人が亡くなってからもう何年も食べていません。
私にとって雑炊は、二人の父との思い出に繋がる食べ物です。
ひとつの食べ物から広がる思い出の世界。このような回想シーンを家族みんなに味わってもらえるように、やっぱり食事は大切にしたいなぁと思います。
野菜を切る音の優しさとは、なんて心に響くお話でしょうか。
私の台所は優しい音で満たされているかな、耳を澄ませながら立つようにしてみます。
新年となり、心に繰り返し湧いてくるのは、食卓を囲む喜び、食事を支度するということの深い意味、心を込めて大切に食材を扱うこと・・・
おせち作りをしていて、ハッとさせられたことがあります。使い慣れない、そしてあまり切れない実家の包丁で四苦八苦しながら千切りをしていた時、「あなたの切る音は怖い」と母に言われたのです。慣れない包丁で爪の先を切ってしまい(幸い血は出なかったのですが)それをかばいながら、ということもあって内心(だって・・・)と思っていました。でも、「切る音」をこれまであまり気にしていなかった自分に気が付きました。切られる野菜だって、心地よい音で刻まれたいに違いないと・・・そうであれば、やはり道具も大事になってくるし、結局は心で料理しているかということが大事になってくるのだな、と思ったのでした。
そうそう料理家の辰巳芳子さんが煮る野菜は栄養価が損なわれないという実験があって、そのコツは野菜が心地よく感じられるような火加減で煮ることだと読んだことがあります。「切る音」はそのことにも通じますね。
ひとつひとつ丁寧に食材を扱いたいと思った年末年始。それは食材への感謝につながり、食材を無駄にしないようにしようという気持ちが育つことにもなると感じています。
そんな折に今日の記事を読んで、まさにタイムリーな内容にすぐにお返事を書きたくなりました。また、さらにタイムリーなことに今日のNaritaマルシェのウェブサイトは帰省した娘のために作った料理のことを載せたのでした。ですから一層、一枝さんのお母様の子どもたちに少しでも栄養のあるものを食べさせたいという祈りに涙がこみ上げました。
まさに本間先生のホームページは『“自己”は他者の言葉や振る舞いで、認識すると言われています(鏡に映った自己)』とおっしゃっているように、私にとって「自己」を認識する場となっています。素敵な記事をありがとうございました。