2040年には単身世帯の構成比が約4割になる
私のパソコンには、大手新聞社からWeb版の新聞記事が届くようになっています。たまたま目にとまった東洋経済ONLINEに以下のような記事がアップされていたのでご紹介します。執筆者は、荒川 和久(あらかわ かずひさ)独身研究家、コラムニストで、ソロ社会とソロ文化及び独身男女の行動や消費を研究する独身生活者研究の第一人者として、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・Webメディアなどに多数出演、とありました。なんかチョットっていう感じはあるのですが、この記事には、以前読んだことのある書籍(樋口恵子・若林靖永編,2015『2050年超高齢社会のコミュニティ構想』岩波書店.)と同様の指摘があり、ついつい比較しながら読んでしまいました。(以下引用です)
かつて標準といわれた「家族」が消えつつあります。「夫婦と子ども2人」からなる核家族のことを標準世帯といいました。世帯の中心は、この「夫婦と子」世帯であり、その構成比は1990年の国勢調査時点で4割近くもありました。しかし、それが25年後の2015年には27%まで激減しています。
一般に、家族はそれ以外の「夫婦のみ世帯」や「3世代世帯」「ひとり親世帯」も含みますが、本記事では、この「夫婦と子」世帯を便宜上家族と表現することとします。激減した夫婦と子の家族の代わりにトップに立ったのは、単身世帯(一人暮らし世帯)です。単身世帯の構成比は、今や35%にまで増えていますが、この傾向はますます加速します。国立社会保障・人口問題研究所によれば、2040年には約4割が単身のソロ世帯となると推計されています。逆に、夫婦と子世帯は23%にまで構成比が下がります。グラフにすると、単身世帯と夫婦と子世帯はまるで鏡のようです。
1990年から2015年までと、2015年から2040年推計までの各25年間の「夫婦と子」世帯数の推移を都道府県別に比較してみると、「消えゆく家族」の全貌が浮かび上がってきます。2015年まではそれでもまだ47都道府県中12県がプラスで、夫婦と子世帯が増えているエリアもあり、20%以上ものマイナス地域は北海道、長崎、青森、鹿児島の4つだけでした。ところが、2015年から2040年推計までの25年推移を見ると、プラス県はついにゼロになり、半分近くの23道府県が20%以上のマイナスエリアとなります。マップにすると一目瞭然、ほぼすべてが真っ赤になります。一方で、単身世帯はどんどん増え続けます。「夫婦と子」世帯と単身世帯との構成比差分を比較して、「夫婦と子」世帯のほうが上回る県は、2015年時点では、埼玉・奈良・岐阜・滋賀・群馬・富山の6県ありましたが、2040年にはゼロになります。全都道府県において、単身世帯が「夫婦と子」世帯を上回ることになるのです。
このように、日本は今後20年かけて、かつて標準といわれた家族が減り、単身世帯が4割を占めるソロ国家となっていくのです。ソロ社会化というと、どうしても大都市だけの話だと勘違いしている方も多いのですが、実は地方も含めて全国的な傾向なのです。
こうした状況は、確実に市場経済に大きな影響を与えます。かつて夫婦と子世帯を中心とする家族主体の市場を支えてきたのは、まぎれもなく「主婦」でした。日常の食品も家電も日用品も主婦の支持が得られなければ商売にはなりませんでした。ところが、今までご説明してきたように、もはや家族からソロへと人口ボリュームは完全に移行します。
今後は、ソロたちの支持がなければ立ちゆかなくなることは明白でしょう。ファミリーレストランのガストがお一人様(ソロ)専用の客席を用意したことは、その1つの表れです。もはや、ファミレスは、「ファミ(リーの)レス(トラン)」ではなく、「ファミ(リー)レス(less)」となってしまうかもしれません。では、このままいくと、昭和時代に中心を占めていた「夫婦と子」からなる家族という形態は、本当に消滅してしまうのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。未婚化が進んでも、夫婦になる人がいなくなるわけではないし、少子化が進んでも生まれてくる子どもがいなくなるわけではありません。家族は消滅するのではなく、人と人が関わるコミュニティの機能としての家族のありようが変わるのだと思います。
そもそも「家族」とはなんでしょうか?アメリカの社会学者タルコット・パーソンズ氏は、「家族は子どもの養育とメンバーの精神的安定という2つを本質的機能とする親族集団であり、必ずしも共住を前提としない」と言っています。さしずめ、現代においては、子を持たない夫婦もいますから、必ずしも「子どもの養育」が必須条件とはならないし、血縁関係に限定されるものでもないかもしれません。
となると、「家族とは、構成するメンバーの経済的生活の成立と精神的安定を機能とする契約に基づいた集団であり、必ずしも共住を前提としない」という定義もできます。共住を前提としない、つまり、同居することだけが家族ではないのです。ここにこそ、家族を消滅させない1つのヒントが隠されています。最近では、コレクティブハウス的な機能を持つ住居に、年齢や家族形態がバラバラな住人が共同生活をするパターンも見られ、それを「血縁によらない新しい家族の形」とする向きもあります。
が、それは、新しいというより、ある意味「所属するコミュニティ」への原点回帰といえます。江戸時代の裏長屋や農村地方の村社会もそうでしたが、寝食を共にする居場所をベースとして、その場所に集う人間を擬似家族としてコミュニティを形成するというのは、もっとも原始的なコミュニティスタイルです。それ自体は否定しませんが、共住を前提とした縛りがあることがかえって、ストレスを生むこともあります。所属することでの安心というのは、それと引き換えに、空気を読んだり、不本意ながら同調したりするという我慢も伴います。所属とは、皆と一緒なら安心だ、という共同幻想を信じることだからです。そしてその共同幻想が、同調しない者を敵視し、残酷に排除してしまう行動に向かうことも歴史が証明しています。
今後大切になるのは、血縁や共住など1つの枠組みだけに縛られず、「所属するだけではない、もう1つの安心の形」を作り上げることではないでしょうか。いつも一緒に同じメンバーで同じ場所にいるのではなく、必要に応じて、集まったり助け合ったりする関係性。場所としての家が家族なのではなく、何かをするために考え方や価値観を同じくする者同士が巡り合えるネットワークも家族といえないでしょうか。
私は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています一緒に暮らす家族を大事に思うことはもちろんすばらしいことですが、「家族だけしか信じられない」「家族以外は頼れない」という考えにとらわれすぎてはいけないと思います。家事も育児も「家族なんだからやって当然」と固執すると、夫婦が互いに相手の義務不履行をなじりあうという状況を生みます。
親の介護についても「家族が親の面倒を見て当然」という意識は、離職してまで介護を優先するという方向に向かわせ、結果本人の経済的破綻による親子共倒れに陥ります。かつて安心な囲いだった家族が、今や家族のみんなを縛り付ける鎖になっている。「家族を頼る」ことと「頼れるのは家族しかいない」というのはまったく違います。
奈良県橿原市にある「げんきカレー」という店では、お客が自分の会計に200円をプラスすると1枚チケットが発行されます。そのチケットを壁に貼ると、地域の子どもたちがそのチケットを利用してカレーを無料で食べることができるというシステムになっています。チケットを買うお客も、食べてくれる子どもの笑顔を想像しやすいし、そのチケットを利用する子どもたちも、誰かの温もりを具体的に感じて感謝できます。リアルに顔を見合わせて助け合うことでなくても、自分のしたことが巡り巡って誰かのためになるという、これも「接続するコミュニティ」の1つの形ですし、人のつながりだと思います。血がつながっていなくても、同じ屋根の下に住んでいなくても、いつも一緒にいなくてもいい。必要に応じて、場面に応じてつながり、自分のできる範囲で、助け合える。そんなお膳立てシステムこそが、今後は必要ではないでしょうか。(以上引用)出典:東洋経済https://toyokeizai.net/articles/-/290175 (20211209)
樋口恵子・若林靖永らは、2015『2050年超高齢社会のコミュニティ構想』の中で次のように問題を提起しています。私は、ここで指摘されているような「ソロ社会化」を是とする考えには立っていません。そうした社会に追い込む様々な社会システムにこそメスを入れる必要があると考えています。私は古い考えなのかも知れないのですが、親子という家族の最小単位を大切に持ち続ける社会に持続可能性を信じたいと思っています。しかし現実社会はソロ社会化への道に突き進んでいます。これは、私たちが「選んだ」「選ばされた」両側面を持つ結果としての社会の姿です。
私たちは、こうした生活環境を目前にしています。猶予はありません、こうした時代に適応していくための新たな社会秩序やコミュニティーを作り上げていく必要があります。小さくなり続ける「世帯構成」の脆弱さを補い合うために、自助・互助・共助・公助の有り方を具体的な場面をとおして一つずつ対応策を作り上げていく必要があります。私は、そのカギは「地域社会」にあると考えています。
子どもの「安全基地」となる地域社会づくりは、私たち大人が取り組むべき喫緊の課題です。最近、長命ヶ丘地区青少年健全育成推進協議会なるものの委員になりました。このような組織に関わりながら、個人(人)と地域社会の関わりの有り方をしっかり見つめ、考えて行きたいと思っています。
私は,同じ地域にずっと長く住み続けたことがないのですが,標準家族のなかで子育てや仕事を精一杯こなし,よく出かけ,地域のイベントや楽しい行事にもよく参加していました。近所づきあいがあまり得意でなかったのですが,子どもが小さい頃は,近所の子供同士でよく遊ぶようになり,私が台所の戸を空けて天ぷらを作っていればそこに近所の子が集まり,山菜の天ぷらを新聞紙にくるんで一人ひとりにあげたり,時々はおかずを持ち寄って何家族か集まって一緒にごはんを食べるようになったり,一緒にキャンプに行くようになったりもしました。仕事が忙しく,私はそのお付き合いに少々窮屈な気持ちになったりもしましたが,とにかく子供たちが楽しそうで,私がいない時も見てもらったりもしたので,あの頃が子供たちの「安全基地」だったのかなと思います。
私は自分ごととして,自分が暮らすところで地域づくりやコミュニティーづくりと呼ばれることに関わって来たことはありませんでした。でも,これからは意識して考えてみたいと(遅ればせながら)思うのです。
単身世帯が増え,ソロ国家となっていく。ソロ国家,初めて聞く言葉ですが,真っ赤なマップを見て,いったいどんな世の中になっていくのだろうと思いました。2040年ってあと20年もないんですよね。その頃の私はどんな生活を送っているのだろう。新たな社会秩序やコミュニティづくりとはどんなことだろう。小さくなり続ける「世帯構成」の脆弱さを補い合うためにとあるけど,まず自分の,自助・互助・共助・公助がどうあったらいいかちょっとだけ考えてみました。
自助・・・自分らしく,自分の好きなことをやっていたい。例え,認知症になってもいつまでも自己実現を感じていられたらいいな。
互助・・・あまりたくさんの関わりではなく,共感しあえる相手とゆったりお茶を飲んだり,何かあったらお互いに声をかけあったり助け合ったりできたらいいな。
共助・・・社会扶助,20年後ってどうなっているのか不安。医療,介護,年金は安心して利用したいけど,ソロ社会になった時,この制度の基盤がどうなっていくのかとても心配。
公助・・・セーフティネットっていうやつでしょうか。制度のはざまに陥ってしまった時に救ってくれるのは,それを考えてくれる人の存在かな。
この私の脆弱な思考と「地域社会」がどのようにか関連性があるのか,つながっていけるのか,考えてみるのも面白いかなと思います。
長命ケ丘地区青少年健全育成推進協議会の委員になられたとのこと。
これは民生委員・主任児童員委員ですか?
本間先生,専門的な知識・経験を生かし,積極的な活動をなさってくださる,適任だと思います。
頑張ってください。