このような訴訟が続いている「障害者というだけで命の値段は低いのか」
河北新報の社説(2021/12/02)に、「交通事故で亡くなった聴覚障害者の逸出利益を巡り、加害者側が障害者の尊厳を傷つける主張を展開する訴訟が続いている」と、ありました。歩道にショベルカーが突っ込み、聴覚障害者(11歳)を含めた5人が死傷した事故の損害賠償請求訴訟でのことです。
訴訟で被告側は、「聴覚障害者は思考力、言語力、学力を獲得することが難しく、就職自体も難しい」この為「就職できても得られる賃金は低廉」であるとして、女性労働者平均賃金の4割を基にした逸出利益を主張したのです。障害者であっても、様々な自助具・補助具等技術の進化で、自らの可能性を切り開き社会で活躍している人は多い。しかし、人が公平・平等に扱われなければならない最たる場である訴訟の場で、このような偏見、差別と思われる主張が平然となされているのです。
この社説では、「生産性による価値判断は、過去に優生思想が招いた差別と大差ない。(中略)障害者の逸出利益に関し、差別を追認するような司法判断は見直されるべきだ」と指摘しています。
障害者施策の基本的方向を定める「障害者基本計画」(平成14年12月24日閣議決定)においては、我が国が目指すべき社会として、国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「共生社会」を掲げています。このような「共生社会」は、国民一人一人がそれぞれの役割と責任を自覚し、主体的に取り組むことによりはじめて実現できるものです。
障害者基本法(昭和45年法律第84号)においては、基本的理念として、すべての障害のある方に対し、「個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい生活を保障される権利を有する」こと、「社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が与えられる」ことを宣言するとともに、「何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない」ことを明らかにしています。
「障害者週間」は、平成16年6月の障害者基本法の改正により、国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理解を深めるとともに、障害者が社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に積極的に参加する意欲を高めることを目的として、従来の「障害者の日」(12月9日)に代わるものとして設定されました。障害者基本法は、毎年12月3日から12月9日までの1週間を障害者週間と定めています(内閣府)。
社説は、この様な言葉で締め括っています。「社会に根深く残る差別や偏見こそが『障害』であり、多くの可能性を閉ざしていないかを考えたい」と。
私は、この事実を知って何ができるのか考えてみました。そして何もできていない無力さを思い知らされました。私の友人は、長いこと地域福祉や災害支援に関わり、今年転勤して現在は障がい者福祉に関わる仕事をしています。その彼は「改めて学ぶことが沢山あり、この転勤は非常に有り難いことだと思っている」と、語っていました。私は、直接障がい者福祉に関われることは限られていると思いますし、障がい者の置かれている状況や心の痛みを十分理解することはできないと思います。できることは、理解しようと努力することくらいです。「社会的想像力」を持って、何とか障がいを持っている方々の心の痛みや可能性に寄り添えるように努力したいと思います。
上記は、現職の時に関わった、障がい者の生活の場は、かくあるべきではないかと考え既存の家を改修し、環境のケア力を意識して整備した「我が家」としてのグループホームです。
河北新報 社説(本来は許可を取らないといけない様です、すいません。)
今の時代はどうなのかわかりませんが、私が子供の頃、大人に自分達と外見の違うひとを「見てはいけない」と教えられたように思います。
それは「好奇の目で見てはいけない」ということだったのかも知れませんが、当時の私にはわかりませんでした。
小さい頃、いつも一緒に遊ぶお兄ちゃんが、耳が聞こえづらかったのか身振り手振りで会話していましたが、ある日、彼のお母さんがみんなに「お兄ちゃんはタンポポの種が耳に入っちゃって聞こえなくなったんだよ」と言いました。
私たちは「そっかー」と子供ながらに納得して、何も変わらず一緒に辺りが暗くなるまで遊び続けたものでした。
今思えば、お母さんはみんなに耳が聞こえない事は伝えたいけれども、何と説明すれば良いのかわからなかったのでしょう。
でも、お兄ちゃんの耳が聞こえない事は、私たち子供には特に意味が無かったと記憶しています。
その後、成長したお兄ちゃんは都会の大学に合格し、近所の誉れになりました。
この経験から、私は子供にはあるがままの情報を伝えることも有りなのではないかと思います。
子供なりの理解力で受け止められるのではないかと思うからです。
障害のある人を「見てはいけない」ではなく「みんな違っててあたりまえ、みんなで支え合うのがいいんだよ」と、子供の頃から教えてあげられれば、障害のある人もみんな一緒があたりまえの社会が自然に出来上がっていくのではないでしょうか。
私も、どなたとも目を見て気持ちを汲みながら話すことが相互理解の第一歩とあらためて心に刻み、心と心で対話していきたいと思います。
ハチドリさん
今日は寝不足ですね。
目の下にクマ?(笑)
運転とか気をつけてくださいね🚙
ありがとうございます。
濃いコーヒーを飲んで,徒歩出勤なので大丈夫でした(笑)
👍安心しました。頑張りすぎないようにして下さい。
そのような司法の判断があるとは知りませんでした。驚きです。そして悲しい気持ちになります。
社会に根深く残る差別や偏見こそが『障害』であり、多くの可能性を閉ざしていないかを考えたい」とありますが、このことをたくさんの人と考えていけたらなと思います。
ナイチンゲールの言葉で「世の中の最大の障壁は無関心」と言うのがあります。
マザーテレサの言葉で「愛の反対は無関心」と言うのもあります。
まだまだわからないこともたくさんありますが、根深く残る差別や偏見に無関心でいたくはありません。
私は、障がいがある人と接する時に心がけているのは、大切な自分の息子、娘、親、兄弟がそのような状態だったらどう接してもらいたいだろう・・と思いを馳せてみると言うことです。
『世の中の最大の障壁は無関心』『愛の反対は無関心』
偉人たちの胸に刻みたい言葉を教えていただいてありがとうございます。
障害のある人を可哀想な人として関わるのではなく、同じ心を持ったひとりの人として向き合うことを心がけていきたいと思います。
こういうことを改めて口にするまでも無く、人が皆おんなじに扱われる世の中で暮らしたいと思います。
ありがとうございます。
障害のための症状で苦しんでいるのを見ると可哀想だなと思いますが,S.Mさんの「障害のある人を可哀想な人として関わるのではなく、同じ心を持ったひとりの人として向き合うことを心がけていく」に共感です。
本当に,人が皆おんなじに扱われる世の中で暮らしたいですよね。
共感できるってチカラが湧きますね。
ハチドリさんありがとうございました!
こちらこそ🤗
ありがとうございます。
おやすみなさい。