かじってみよう“社会学”二講目イントロダクション「社会ってなに?」

社会学は、英語ではソシオロジー(Sociology)といい、社会について研究する学問です。そこで、社会学という言葉を社会・学と分けてみます。学(学問)は、わりとイメージしやすく、学ぶとか学ぶことが共通して持っている特徴、①問題意識、②真理の探究、③創造性で現すことができます。では、「社会」の方はどうでしょうか。個々人でイメージが大きく異なるように思います。

そこで、「社会」という言葉の成り立ちについて説明することから入っていきます。「社会」という言葉は、明治時代の初め頃、文明開化と言われ、日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した頃、ソサエティー(society)とう英語を翻訳するために、新しく作られた言葉なのです。ですから、社会という言葉は比較的新しいのです。英語圏の西洋では、societyを「異なる価値観を持った市民が、それそれに全体へ責任を持って参加する共同の場」という意味で使われていました。世の中の成り立ちが日本とは異なる西洋のsocietyを世の中とか世間と説明するわけには行かず、さんざん迷ったあげくに、これまで日本語にはなかった「社会」という言葉をつくりました。こんなエピソードもあります。当時訳語が迷走している中で、福沢諭吉(1835(天保5)年12月~1901(明治34)年2月)は、「人間交際」という訳語を提案しています。西洋の人達が、身分の上下なく意見を交わしている姿が西洋市民の特徴だと考えたようです。ソーシャルダンスを社交ダンスと訳しています。「人間交際」は、社会学が考える社会そのものを表しているような気もします。

私達の生活は、共同生活にしろ、集団生活にしろ、世の中にしろ、これがなければ成り立たない、いわばこれらの最大公約数的なものがあります。それが「人間と人間の関わり」です。これなしには、集団も共同も世の中もあり得ません。人間と人間が何らかの形で関わり、人間相互の関わりが寄せ集まって社会が成り立っています。社会とは、人間と人間の関わりです。そこで、社会学では、人間と人間が関わるということこそが社会の本質で有り、最も基本的な社会の単位であると考えています。

四万十川(四国)に架かる潜り橋

人間と人間の関わりとは、具体的にどのようなことを指すのか考えてみます。例えば、人間と人間の関わりを人数の側面で分類すると、①1対1、②1対複数、③1対多数、④複数対複数、⑤複数対多数、⑤多数対多数の大まかに6種類考えられます。これを現実の場面に置き換えると、夫婦関係は①、学校でのいじめは②、大学の大教室での講義は③、野球は④、コンサートは⑤、戦争は⑥となります。こうした視点で見ただけでも、人間と人間の関わりは、その内容や性質が非常に多様だと言うことがおわかりになると思います。この為、社会学の研究対象は多様で、「何でもありの社会学」等と揶揄(やゆ)されたりします(笑)。他に専門の学問があるのに社会学でも研究するジャンルには、政治社会学、経済社会学、教育社会学、宗教社会学、都市社会学などがあります。私が取り組んでいる福祉社会学もこの類いです。一方、社会学の十八番(おはこ)としては、社会病理学、家族社会学、農村社会学、メディア論等があります。

つまり、社会学は、他の学問が見逃しがちな部分を引き受けることによって、現在が全体としてどういう時代なのかを明らかにしようとします。この全体への志向(perspective)が社会学の大きな特徴です。社会学の研究分野は、理論社会学と具体的な社会学が互いにフィードバックし合いながら研究を行っています。理論社会学は、行為論、相互作用論、社会構造論等を受け持ち、社会学全体を俯瞰する役割を担っています。一方の具体的な社会学は、具体的なフィールドの研究を進めます。前述の家族社会学等々がこれです。

人間のやることなすことのいっさいは、人との関わりから始まります。社会が成立するには最低1対1、つまり二人いないと成立しないと考えがちですが、社会学ではたった一人でも立派に社会は成立すると考えています。私のように、物を書きながら、それをどう読んでくれるのだろうかと物思いにふけっている。私の中には常にあなたがいる。この様な状態でも社会は成立すると考えています。

社会ははたして何処にあるのか。社会は人々のふるまいの中にある。人と人との間にある。人々の集まりの中にある。人々の心の中にある。そして人々の記憶の中にある。従って、社会を知るためには、時には鳥の目を用いて大きな視野から俯瞰して、時には虫の目を用いて対象に接近し、あるいはごく間近から眺める。また時には心の目を用いて共感と違和感双方に引き裂かれつつ複眼的に対象と関わっていくことが求められる。私たちは、見えないものを見、聞こえないものを聴くための社会的想像力の翼が必要です。

私たちは今、どのような時代でどの様な場所に立っているのでしょうか。社会学という「知の翼」の力を借りて、大きく変化しつつある社会の姿を理解し、その上で自分の振る舞いの有り様を考えて行くことで、より良い社会づくりに関われるのではないかと期待するものです。

吾妻高原聖アンナ教会(福島県)

最後に、私が社会学を本気で志す切っ掛けになったことを博論「関係性の再構築としてのケア改革」から引用してイントロダクションを終わりにします。

はしがき 公務員には転勤がつきものである,私は介護保険制度施行1年前の1999(平成11)年4月に10回目の転勤で,高齢者福祉施策を担っている担当課に配属された。担当する業務は,高齢者福祉基盤整備及び在宅福祉を進めるためのソフト事業も担当していた。中でも特別養護老人ホームの施設整備は,市町村を含め多くの方々が関心を寄せる,予算規模も大きな事業である。以前,学校建設に関わっていた経験から,施設整備が,その後の事業運営に大きな影響を持つと考えていたために,高齢者福祉担当課に配属されて真っ先に行ったのは,高齢者福祉サービスを提供している特別養護老人ホームなどの実態を把握することと関係する文献を読みあさることであった。そんな中で目にとまったのが,角がすり減った黒表紙の一冊の本にあった次のような記述である。

現代社会における一つの基本的な社会的取り決め(social arrangement)は,個人は異なる場所で,異なる参加者たちと,異なる権威に従って,全面的で首尾一貫したプランもないままに,睡眠を取り,遊び,仕事をするのが通例であると,ということである。全制的施設(Total Institution)の中心的特徴は,通常,前記の生活の三領域を区別する隔壁がないことである,と言いうる。第一に,生活の全局面が同一の場所で同一の権威に従って送られる。第二に,構成員の日常生活の各局面が同じ扱いを受け,同じ仕事を一緒にするように要求されている多くの他人の面前で進行する。第三に,毎日の活動の全局面が整然と計画され,一つの活動があらかじめ決められた時間に次の活動に移る。つまり,諸活動の順序全体は,上からの明示的な形式的規則体系並びに一団の職員によって押しつけられるのだ。最後に,さまざまの強制される活動は,当該施設の公式目的を果たすように意図的に設計された単一の首尾一貫したプランにまとめ上げられている。(Goffman 1961=1984: 7)

これは,今から50年程前の精神病院と刑務所を事例にした収容施設の実態を現したものだが,特別養護老人ホームとかかわり始めた1999年頃に,これと同じような様子を何度も見せつけられ,余りの一致点に驚きを隠せなかった。それから10年の歳月を経た今日でも,ここにある施設の姿を容易に思い浮かべさせる現場に出くわすことがある。

今から20年程前(2000年),高齢者福祉を担当することになって特別養護老人ホームを見て強く感じたのは,「なぜ人生の最後に,このような生活を強いられるのか」という疑問である。折しも,措置制度下から介護保険制度下の施設に転換し,新たな高齢者福祉の姿を描こうとしているまっただなかにあり,多くの特別養護老人ホームを見て歩いている時のことである。多くの施設では,「収容施設」という言葉が示すような,地域から孤立した介護環境の中で高齢者が生活していた。そこには,目を見開き口を開けたままベッドに長い時間横たわっている姿,キャスター付きのベッドに横たわり,裸の上にタオルケット一枚をかけられ廊下で入浴の順番を待っている姿,長い時間ケアワーカーステーションと呼ばれる介護職員の詰め所のテーブルにもたれかかりながら,何かを問いかけたげに介護職員を目で追っている姿,あらかじめ定められた時間にならないと交換してもらえず,汚れたオムツをしたままの姿,子どもに話しかけるような口調や反対に命令口調で強く激しい言葉でさしずされている姿があった。また,驚くことに,介護職員はこのような介護環境の中で,さしたる疑問を持たず,それどころか使命感を持って一生懸命日課をこなしている「けなげ」とも言い表せるような姿があった。

介護保険制度が始まるとまもなく,さまざまな先駆的事例が報告されるようになった。これらの事例は,認知症高齢者グループホームや特別養護老人ホームの入居者を10人程度にグループ分けし,介護単位と生活単位を同じにしたケア方法を取り入れたユニットケア型特別養護老人ホームなどで顕著に見られた。私は,いつしか,それらの実践の中に飛び込み,職員の一挙手一投足を見ることができる距離に立っていた。そのような現場を注意深く観察していると,まだまだ少ない事例ではあるが,どこか見慣れたどこにでもあるありふれた日常の様子が観察されるようになってきた。これまで多くの施設で見てきた,常に小走りで回廊を走り回っていた介護現場とは明らかに異なる,落ち着いた穏やかさのある生活の場を感じるのである。それを見ているうちに,これまで抱えていた「なぜ人生最後に,このような生活を強いられるのか」という疑問が,しだいに薄れて行く感じがしてきた。それと同時に,なぜここには落ち着いた時間の流れがあるのだろうか,なぜ家族や地域の人々が出入りしているのだろうか等々,幾つもの新たな「なぜ」がわき起こってきた。

私は,しだいにそれらの施設からはどうしてあの疑問が感じられないのか,また,そこに介在するであろうさまざまな関係性を知りたくなり,今,その疑問に迫ろうとしてペンを取っている。

2009(平成21)年2月

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”二講目イントロダクション「社会ってなに?」” に対して14件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    2周目の2講目

    『社会』という訳語は、文明開化とともにやってきた制度や習慣に対応するために新たに作ったものである。社会の本質は人間と人間が関わるということ。それを鳥の目・虫の目・心の目を用いて対象と関わっていくこと。複眼的に見るので必ず共感と違和感を同時に感じるだろう。それでも自分の振る舞いの有り様を考えていくことで、より良い社会づくりに関われるのではないか。

    『社会』が明治から始まったのかと驚きましたが、どうりで違和感があるはずだとも思いました。西洋文化は確かに浸透してきましたが、僕たちは西洋人になったわけではない。令和の現在でも僕たちは日本人なのです。だから僕は『世間』のほうがしっくりくる。母からは『世間様に迷惑をかけるな』と言われて育ちましたし、自分でもそう思って生きています。西洋人は果たして『社会様』という概念を持っているのでしょうか。世間は当事者感覚でとらえることができますが、社会はどこか他人事のようにとらえがちです。僕は『世間学』でもいいなと。

    本間先生の感じた、特養の過酷さは僕もよく知っています。知っていますが、どこか他人事のように考えていました。しかし今では、知ったからには何かできることはないか?と考えています。こうやって自分の振る舞いの有り様を考えるようになりました。進歩を自覚できます。ありがとうございます。

    1. ハチドリ より:

      『世間学』?
      ふむふむ,面白いな~・・・と思いました。

  2. welfare0622 より:

    皆様、かじってみよう“社会学”二講目イントロダクション「社会ってなに?」へのコメント有り難うございました。稚拙な内容にもかかわらず、丁寧なコメントを頂きとても嬉しいです。また、他の方のコメントに反応した記述も有り、これこそが「やりたいこと」とニヤニヤしながら読んでいます。

    阿部さん。「社会的想像力」を持って「これはおかしい」→「なぜ?」→「そうだったのか」、この繰り返しが学びにつながると思います。

    ハチドリさん。「社会関係の蓄積がコミュニティ醸成の鍵」同感です。お福分けのわらしべ長者的関わりが温かい関係性を生み、社会関係資本を築いているのでしょうね、お人柄がうかがわれます。

    スマイルさん。目前の事象だけで判断し批判だけに終わってしまう。この様な負のサイクルを断つためには、その背景や基底にあることを「心の目を開いて複眼的に関わり、紐解いていく。それが”社会学”」100点です。

    鈴虫さん。「心の扉を開くのは自分、その学びへの好奇心を忘れずにしたい」。私もそうでありたいと思いました。

    LKさん。「互いに尊厳を持って接するという振る舞いが、無意識に行われる社会」良いですよね!そんなの当たり前だよ、って簡単に言い切る社会、最高っす!

    いくこさん。「違和感と共感」、”共感に助けられながら違和感を磨いていく”名言です。有り難うございます。

    その他の皆さんも有り難うございます。読んでいてもコメントまでは、と躊躇している方もおおくいらっしゃると思います。無理強いはしませんが、たまには気楽に書き込んでみてください。チョットだけ、心の扉が開き、見たことのない世界を目に出来るかも知れませんよ。

  3. いくこ より:

    学問として社会を見る、そうすると家庭や人付き合いの中にも小さな社会があり、社会と認識すると日常にある様々な問題を冷静に捉えることが出来ると改めて思いました。
    私も”はしがき”にひきつけられました。「違和感と共感」これまで感じてきた違和感は大切ににして良いものだったと教えて頂いたように感じました。共感に助けられながら違和感を磨いていこうと思いました。
    第一講目、ありがとうございました。

  4. LK より:

    「人間と人間が関わるということこそが社会の本質で有り、最も基本的な社会の単位であると考えています」と言うところが印象的で、そこには互いを尊厳すると言う振る舞いが無意識に行われるようになったらいいなと思いました。

  5. 鈴虫 より:

    日々の関わりの中で、誰かに誰かの価値観を押しつけることは出来ません。でも、どんな人でもより良く生きたいという思いは同じはず。
    そこで、お互いに歩み寄り、どこかで折り合いをつけながら、ほんの少しでも良い方向へと進むように努力する。その一歩の大小が問題ではなく、良い方向に進んでいるかが重要です。

    世の中の誰もが、これだ!という知見に触れているわけではないので、幸運にもこの様な場で社会学をかじらせて頂ける私達が、周りの人々を少しずつ巻き込んでいけたら素敵なことだと思います。

    毎日この講義を読んでいるうちに、見えないものを見えなくしているもの、聞こえないものを聞こえなくしているものは私自身の心の扉なのではないかと思えてきました。
    こんなもんでいいやと諦めず、もう少し前へと学びへの好奇心を忘れずにいたいと思います。
    毎日我が身を振り返る時間を持たせて頂きまして有難うございます。

  6. スマイル より:

    「時には心の目を用いて共感と違和感双方に引き裂かれつつ複眼的に対象と関わっていくことが求められる」という文章について考えていました。それはまさに、本間先生の博論「はしがき」に書かれてあることなのでは、とハッと気が付きました。

    養護老人ホームでは「自分の親がこのような扱いを受けたとしたら胸がえぐられる」というような状況であっても、「そこで働く人は使命感をもって一生懸命こなしているけなげとも言えるような姿」であったということ。その状況には、さまざまな共感や違和感がないまぜになっていると感じました。高齢者の扱われ方への「違和感」、でも同時にそれが使命であるかのように一生懸命働いている人たちへは「わかる気がする」という共感があるように思います。それが「働いている人たちが悪いわけではないのだ」という視点へと導びき「ではどうしたらいいのか?」と解決の糸口を模索する道が開けていく、という循環。

    大切なのは「悪い」と決めつけ批判だけで終わってしまわないようにすること。紐解いていき、根本から解決するにはどうしたらいいのか、と考え続けること。それがまさしく「社会学」なのではないかと・・・

    「心の目を用いて複眼的に対象と関わっていく」という言葉が難しく、考えて私なりの解釈をしてみました。アドバイスをいただけたら嬉しいです。

  7. ハチドリ より:

    確か、中学生くらいがわかるような内容で・・とあったような気がするのですが、私は中学生未満なのか何回も何回も何回も読んで、やっとコメントしてみようという気持ちになりました。
    「社会」という言葉、明治時代の初め頃に作られたとあったので計算してみたら、約160年前くらいに出てきたのですね。それが新しいのか、古いのかはピンときませんが、今では当たり前のように使っている「社会」という言葉がそんなふうにして作られたんだ・・というのがまず勉強になりました。
    福沢諭吉の「人間交際」という訳語は斬新というか、確かに社会そのものを表しているように感じます。人間と人間との関わり、社会関係資本の基本ですよね。
    今、私は人口が1,700人ちょっとの町にいて、子供や故郷の知り合い、共通の趣味を通じて知り合った仲間から「淋しくない?」とか言われたことがありました(過去形)が、町を歩けば声をかけてもらい、野菜や果物のお福分けがあり、窓口に来た人と加工品の仕方で話が盛り上がったりとポジティブな社会関係資本が蓄積されていると思っています。人口はなかなか増えませんが、街中での井戸端会議や食品検査で知り合ったおばあさんから「○○がいっぱいできたら採りにきて」と電話が来たり、なんとも温かいコミュニティが醸成されているとも感じます。

    私も上記の阿部さん同様、もっと社会的想像力を少しでも身に着け、見えないものを見、聞こえないものを聴こえるようになったらと思います。

    追伸
    実は、はしがきがとても面白かったです。20年前の「自分の親を入れたい施設づくり」の勉強会もとてもタメになったことを思い出しました。仕事が終わってから仙台まで新幹線に乗って、もしくは同僚と自家用車に乗り合いで・・、今思えばすごいエレルギーだったと思います。

  8. 阿部 優 より:

    この数年、世の中の変化スピードが加速しています。今まで10年スパンで考えて行動していたことも、1年ごとに更新していかなければ置いていかれるので、焦っています。

    この講義での学びで、社会的想像力を少しでも身に付けたい。そして、社会にしっかりと対応したいと思っています。

    上記の介護職員さんや、僕のような一般人にこそ、
    『これはおかしい』という視点が必要なのだと感じました。ありがとうございました。

  9. いくこ より:

    素敵な青空の写真、雲がかかった頭も澄み渡るように感じます!
    先週のページを読み返し、少しずつ読んでいます。
    この感じですと私の場合、講義に対してのコメントは週末近くなるものと思われますが、
    先生、ひとつ長い目でどうかよろしくお願いいたします。

    追伸
    みなさんハンドルネームをお使いなので、
    私も鈴木郁子からコメント用の名前を改めることにします。
    よろしくお願いします。

    1. welfare0622 より:

      ゆっくりゆっくり読み進めて下さい。そん様子を思い浮かべながら、こちらも執筆に励みます。

  10. スマイル より:

    写真もとても素敵です。絵葉書みたい!先生ご自身が撮影なさったものですか?

    1. welfare0622 より:

      はい、そうです。四国四万十川に架かる潜り橋は、四国八十八ヶ寺お遍路の時に撮りました。教会も機会があって様々なお店が立ち並ぶ場所にあった教会です。とても素敵だったので切り取った一枚です。

  11. スマイル より:

    今回の講義、いろんなことが心に浮かびます。この頃の医学は細分化しすぎて全体を見ることができるお医者さんが少なくなっていると言われます(医学だけでなく全体にその傾向があるのでしょうが、わかりやすい例として)。そんな中で『全体への志向(perspective)が社会学の大きな特徴』という言葉に心打たれました。とても大事な学問であるとあらためて感じました。

    福沢諭吉が『人間交際』という訳語を提案した、ということもとても面白いと思いました。

    最も心に響いたことが二つあります。
    ひとつめは以下の文章です。
    『社会ははたして何処にあるのか。社会は人々のふるまいの中にある。人と人との間にある。人々の集まりの中にある。人々の心の中にある。そして人々の記憶の中にある。』という言葉です。世の中にはいろいろな人がいます。一般的にコミュニケーション能力が高い人が「能力がある」と思われがちですが、どのような個性もそれぞれに価値があり、存在意味がある、ということをこの言葉が表しているようで、書き留め心にとめたい言葉だと思いました。この言葉を読んだだけで、本間先生の講義の価値が伝わってきます。

    二つ目に心揺さぶられたのは、最後の博論からの引用(はしがき)の文章です。
    本間先生の心を動かしたその動機に共感すると共に、その動機を現在にいたるまで持ち続けているその姿こそ、学ぶべきものだと感じました。誰でも「それはおかしいのではないか」と思うことはあると思うのですが、「ではどうしたらいいのか」「自分に役立てることはあるのか」ということを模索し続け、県職員という激務の中にありながら、大学院に通い博士号まで取得したその姿勢。その姿勢への尊敬こそ、この講義を受講したいと希望する理由です。最も知りたかった先生の「有り様」も知ることができるということに大きな喜びを感じています。

    第一講「イントロ」で「オリジナルな理論を申し上げられるほどの学問的知見や研究成果はありません」「多くの学者が積み重ねてきた知見を、できるだけわかりやすく解説するやり方で行います」とありました。でも、私個人的には「知見をわかりやすく解説」以上に、本間先生が現場で見てきたこと、感じてきたこと、希望すること、などを知りたいです。それはすでに、誰にもまねできないオリジナルな世界だと思います。

    書ききれない想いがいろいろありますが、また考えがまとまりましたら書かせていただきます。「見えないものを見、聞こえないものを聴くための社会的想像力の翼(本文より)」を身につけることができるよう、これからも楽しみに受講したいと思います。

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