生活支援員が被災者支援で悩んだことの大きな一つ

不自由な避難生活を強いられている被災者の生活を支えるために、ひたすら寄り添い続ける南三陸町生活支援員。彼らは、日々葛藤の中で見守り活動を展開していました。「何事もない当たり前の日常の繰り返し」。この出番のない見守りこそが最大の成果なのですが、現実は、なかなか平穏ではありません。特に、外部要因による様々な課題に対しては、比較的解決手段は意外と見つかりやすいのですが、セルフネグレクト(self-neglect:自己放任)やアディクション(addiction:嗜癖)になると本人に意向が強く反映するのでなかなか難しいのです。

ある習慣に「不健康にのめりこんだ・はまった・とらわれた」状態を、アディクション(=依存症・嗜癖)といいます。よく知られている典型事例がアルコール依存です。アルコール依存のみならず、様々なアディクションに共通するのは、次のようなことです。①それに没頭することで、イヤなことを忘れるなど、気分が大きく変化する。②即効性を求め、しばしばその手段に頼るようになる。③頻度や状態が「もっともっと」とエスカレートしていく。④適切な範囲に留めておこうとしても、自分ではコントロールがきかない。⑤周囲の人を巻きこんで傷つけ、自分自身も傷つける結果となる。が、あげられます。

被災地で多く見られたのは、アルコール依存状態の方でした。これは、震災でそのようになったと言うよりは、以前からその兆候があり震災で助長されたというのがより実態に近いと思います。私は、アルコール依存の入り口が、とても日常に近いところにあると考えていました。「飲酒は最も手軽な娯楽」と支援員さんにお話ししていました。仮設住宅に居て、仕事もなく付近に娯楽もなくテレビ相手に過ごす毎日。そのような毎日の中で、缶ビール一缶、ワンカップのお酒。これほど手軽に暇つぶしの相手になる娯楽は他にありません。この為、意識しないままお酒を手にテレビの前に座ります。だれも、お酒に頼って悩みを忘れようと意識してお酒を手にしているわけではないのです。だから、怖いのです。

今日一日の記録を綴る生活支援員

分かっているのに止められない。こうした状況下にある被災者に寄り添い続ける支援員は、「自己責任」という言葉と常に向き合い、悶々とした葛藤に中で訪問を続けていたのです。アルコール依存状態の方にも、二通りの現れ方があります。周りに迷惑を掛けて、近隣と様々なトラブルを起こしてしまう人。セルフネグレクト状態になって健康が著しく脅かされている人、です。前者の場合は、仮設住宅団地から「出て行け」と排斥運動が起きたりします。支援員がとても大変になるケースはこちらの場合です。

ある仮設住宅団地では、アルコール依存状態にある人が何度も近隣トラブルを起こし、自治会長も業を煮やし、役場に仮設住宅団地から出て行くように要請したりしました。私は、こうした事例に対しては、「排斥は絶対ダメだ」と言い続け、そのような排斥という手段に至らないようにするのが私たちの役割だと言い続けました。理由はとても簡単です。根本的な解決には全く成らないからです。排斥された人は、移った先でまた同じようなことを繰り返します。結果的に、課題を拡散させるだけなのです。何より「自分達さえよければいい」と、いう考え方を認めることで、コミュニティー形成の基本から逸脱するからです。コミュニティは様々な方々が居て、その中で互いに過不足を補いながら暮らせるように努力して築いていくものです。都合のいい人たちだけで形成するコミュニティは、返っていびつなのです。

でも、現場で日々被災者と関わり合う支援員からは「あなたは現実を知らない、きれい事ばかり言う」と言われました。確かに、「毎夜毎夜大騒ぎする声で眠れずノイローゼ状態に落ちっている人を助けず、酒飲んでいい気になっている人を助ける。これって私たちの仕事なのか?」という切なる声も、とても理解できるのです。それでも、私しは「排斥」ではない選択肢を考えりようにと言い続けました。同時に、「依存」に対する知識を持てるように様々な勉強や医師の助言を受ける等々の手立てを行いました。でも、「どうしてその様な状態になっているのか」に目を向けるようにいくらお話ししても、「自己責任」という視点からなかなか抜け出せず、「きれい事しか言わない先生」でしかありませんでした。一方、こう思われても仕方ないほど現実は厳しかったということでもあります。

そんな中でも、徹底してアルコール依存状態の方に寄り添い続けた支援員もいます。妄想「奇跡のおばちゃんたち」の主役、「ふく支援員」の事例です。彼女たちは、何度言ってもアルコールを手放さず、何度も危険な状態に遭っている被災者から目を離さず、寄り添い続けていました。その方の最期の時を振り返ったお話しを書いて今日のお話しを終わりにします。

『酒飲みの二人のおじいちゃん』

支援員の仕事で出会った、お酒が大好きな二人のおじいちゃんとの思い出は今でも忘れられない。一人は一人暮らしをしていた。お酒を飲んだら部屋に戻らず、外で寝る癖があった。そのため誰もそのおじいちゃんに寄り付く人はなく、声をかける人さえいなかった。支援員だけが「ここで寝ていたら危ないからね」と粘り強く話しかけた。「目立つだけだなあ、俺さこういうふうに声がけてもらって。おめえらに怒られっから。家さ帰って寝るから」といってそのときは帰るのだが、飲んでしまうとやっぱり外に出て寝てしまう。

雨の日に外で寝ていたときは、傘を持って行って入れてあげたこともあった。炎天下の中で寝ていたときは、脱水症状を心配して必死に声をかけた。何回声をかけてもなかなか起きない、ずっと寄り添ってきたおじいちゃん。そのおじいちゃんがあるとき体調を崩して病院に行くようになり、「もうだめだろう」と保健師にいわれた。入院していたが、「一回仮設に帰りたい」というおじいちゃんの要望で、一旦、仮設住宅に戻ることができた。ずっと寄り添ってきた私たちは仮設住宅に立ち寄っておじいちゃんと再会した。おじいちゃんは泣いていた。「おめえらのおかげでここまで生きてこられた、ありがとう」といってもらい嬉しかった。その次の日におじいちゃんは七四歳で亡くなった。

もう一人のおじいちゃんはお酒の飲み過ぎで入退院を繰り返していた。病院にいると大好きなお酒が飲めなくて、よく病室で暴れていた。とうとう病院では手に負えなくなって、仮設住宅に返されてしまった。心臓が悪いため呼吸も荒く、注意して見てあげる必要があった。おじいちゃんは仮設住宅で死にたがっていたが、支援員としては仮設住宅で亡くなってほしくはなかった。

朝、昼、夕方と一日三回、様子を見に行った。支援員が見ることができない夜は、そのおじいちゃんの両隣の一人暮らしの男性が様子を見てくれた。関係機関と支援員と周りの人でずっと見守っていた。体調が悪くなったおじいちゃんが足で壁をどんどんたたいた。その音に隣の人が気づき、支援員に連絡が入った。駆けつけると、おじいちゃんは「待ってた」といった。救急車を呼んだが、病院で亡くなった。(宮城県サポートセンター支援事務所編,2018『支え手になったあの日から地域を見守る支援員の語り』(株)東北プリント.p48-5)

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生活支援員が被災者支援で悩んだことの大きな一つ” に対して1件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    こちらの記事を読んで、深く心に残る事例であったことを思い出していました。

    様々な地区から抽選で入居した寄せ集めの仮設住宅でしたから、どの人も隣人のする事にとても神経を尖らせながら暮らしている様子でした。

    長屋造りで壁が薄く、家族の会話や物音(いびきや目覚まし時計の音さえも)が隣には全て筒抜けでプライバシーなんて有りません。そこにお互いさまの関係が築かれるまでは、本当にみなさん大変な思いをして過ごされていたと思います。

    その様なピリピリとした仮設住宅に他人の迷惑を省みない行動をする人が居ると、たちまち独り対全員のような対立関係に発展してしまいます。

    この様な問題が表面化するたびに、先生から「迷惑をかける人こそが支援を必要としている人。なぜ?どうして?と、その言動に至る背景を考えてみなくてはダメだ」「いかなる人も排除してはいけない」と口を酸っぱくして叩き込まれました。

    そうして支援員には迷惑行動の背景を考える習慣がしっかりと身についていったのです。

    私はこの『排除』(その当時は排斥でなく排除という言葉を使っていました)という行為が本当に大嫌いです。支援員時代に様々な場面で本当に苦い経験を重ねました。でも、この時の経験から大切な学びを頂いて今の私があります。

    苦い経験こそが大きな学びのチャンスだということを今は実感しています。こうして事例を一つひとつ思い起こすたびに美談だけではない、時には心が折れそうになりながら、支援員さん達は本当に良く頑張っていたなぁと感心しています。

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