玄関扉がわずかに開く(被災者生活支援センター開設当初の訪問状況)

「被災者生活支援センター」は、2011(平成23)年7月19日に設置し、三日間の研修及び支援体制を整え、8月1日から6箇所の地域拠点(サテライトセンター)と1箇所の本部に生活支援員を配置して応急仮設住宅の訪問を開始し、本格的に被災住民の見守り支援が、実施されました。

震災からまだ5ヶ月です。市街地からは、「瓦礫」と呼ばれて厄介者扱いされている元々は自宅だった津波で破壊された材木等の撤去が進み、松原公園に山のように積み上げられていました。そのような中で始められた応急仮設住宅の見守り訪問です。当初、生活支援員に対する風当たりは相当強いものがありました。「名札を下げて歩き回るだけでお金をもらえるなんて良い身分だ」「仮設の周りを歩く足音がうるさい」(当初、応急仮設住宅の周りは砂利が敷かれていました)「声がうるさい」「笑いながら歩いている」等々、様々な苦情が役場に寄せられました。

「ご苦労様」等々のねぎらいの言葉もあるのですが、玄関の扉を開けてもらえないまま、奥から聞こえる「用事はない」、明らかな居留守等々も日常茶飯事です。訪問から戻り、「来るなと言われました」と、泣いて報告する生活支援員も少なくありませんでした。この様な訪問時のやり取りが毎朝のミーティングで報告されます。

どのくらい経ってからだったのか良く覚えていませんが、生活支援員の心理的ダメージがキツくなってきたのを見計らい、お話しをしました。お話の主旨は二つです。一つは、「何故、そのような態度を取るのか」と、二つ目は「生活支援員のメンタルヘルス」です。

松原公園に山積みされた瓦礫(元住宅)
市街地の瓦礫撤去作業

一つ目の「何故、そのような態度を取るのか」についてです。応急仮設住宅で生活している被災者は、突然襲ってきた巨大津波で、家屋を流され、仕事を奪われ、生活手段の船も流されています。また、町内には800人にも登る犠牲者を出しています。いつも当たり前にやってくる明日が突然来なくなってしまいました。突然、着の身着のまま食べることもままならない生活に放り出されたのです。被災者がそれまで住んでいた住宅は、仙台に住む私からしてみればお城のような住宅です。広い前庭を備えた日本家屋の大きな家です。何とか抽選で当たった住宅は、以前の住宅からすれば作業小屋。雑魚寝の避難所から応急仮設住宅に移ってきたときは、皆さん大喜びでした。しかし、1ヶ月もしない間に不満ばかりです。隣から聞こえる生活音が気になる生活の日々です。

この様な状況に放り込まれて、何事も起こらなかったかのように平然としていたら、そちらの方が危ない。現状を受け止められず、怒ったり泣いたりする方が普通だとお話ししました。そして、キュウプラロス(Elisabeth Kübler-Ross;1926〜2004年)の受容五段階モデルのお話しをしました。怒りをあらわにしたら、それは回復過程を一段上がったのだと説明しました。なので、怒りを表に出していたら「回復過程を一段上がった」と理解し、よろこびなさいと。反対に、いつになっても喜怒哀楽がなく無反応であれは、そちらの方こそが支援は必要だと伝えました。何の理由もなく、ただただ怒りをぶつけられるのですから、それを受け止めることは難しい。でも、やりどころのない怒りをぶつけられる存在が、今の被災地南三陸町には必要なのだと思っていたのです。この様な説明をして「それでも行きなさい」と言い続けました。

あるとき、生活支援員さんは息せき切ってやって来ました。「今日、初めて玄関の戸を開けてくれました。目だけしか見えない幅でしたが、それでもとても嬉しかったです」。次の日、またやって来ました。「今日は顔が見えました」。更に「今日は全身が見えました」と続きました。この様な報告を嬉しそうにしてくれる支援員をみて、今度はこっちが泣けました。

ここまで来るのにどれだけ泣いたのでしょうか。きっと、賃金という大きな要因もあったのかも知れません。しかし、それ以上に、同じ町民である被災者の支えになりたい、この町の復興に役立ちたいという想いが勝っていたと思います。お金のためだけでは、こんなに泣けない。お金のためだけなら、見ず知らずの私からの「それでも行きなさい」に従わない。生まれて初めて「地域」を意識したという生活支援員さんがいました。彼女たちは、筋金入りの「奇跡のおばちゃんたち」です。

二つ目のお話しは次回に回します。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

玄関扉がわずかに開く(被災者生活支援センター開設当初の訪問状況)” に対して5件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    私達は、支援員という前にひとりの町民でした。時には誰かの辛い胸の内を聴かせて頂きながら、堪えきれずに泣いてしまうこともありました。それは支援する人らしからぬ姿だったのかもしれません。でも、私はその様な姿こそが、先生が町民を支援員にとした時に意図したことなのかもしれないと考えたのです。

    あの当時、私達は正に体当たりの傾聴をしていたのではないかと、今になって振り返っています。先生、全くの的はずれだったらすみません。

    スマイルさんは、先生の記事と私の話からこの話は完成するとお話くださいましたが、そこに更に、仮設住宅で私達の訪問を受けた方々のお話が有って、はじめて完成に近づくのかもしれませんね。

    スマイルさん、私はひとつコメントを入れた後に、さらに深く考えさせられています。いつも真剣に話を聴いて頂いて感謝しています。

    1. スマイル より:

      お話を聞いてこらえきれずに涙をこぼす・・・、それ以上の傾聴があるとは思えません。頼みの綱と頼った心理カウンセラーの先生は「私達には何も出来ません、ただ話を聴くだけでいいんです」と繰り返すだけだったとのことですが、言葉が足りなかったのだと思います。

      「話を聞いて、何もできない自分が情けなくなったり、思わず一緒に泣いてしまったり、そうやってありのまま向き合うことしかできないのです。そうやって向き合ってもらうことこそが、ほんのわずかでも救いになるのです。きつい言葉を投げかけられ理不尽に思ったり怒ったり、二度と行かないと思ったりしてもいいのです。それでもまた行く、それでもまた来た・・・、それを繰り返すことが大切なのです。この人たちは見捨てない、と思っていただけることが大切なのです」こう伝えるべきだったのではないか、と思います。

      きっとそれは本来のカウンセラーとしては「失格」なのかもしれませんが、鈴虫さんがおっしゃるように、それこそが本間先生が描かれた支援だったと私も思います。

      ここに書かれてあることは「更に、仮設住宅で私達の訪問を受けた方々のお話が有って、はじめて完成に近づくのかもしれませんね」という鈴虫さんの言葉を読んで、本当にその通りだと思いました。でも、直接先生からご指導をいただいた方達の言葉は、先生ご自身が言いたくても自分からは言えないことであり、南三陸で成されたことの「証」になっていると思います。そういう意味で、鈴虫さんたちの言葉がなければ完成しないのは確かだと思います。

      これからもどうぞよろしくお願いいたします。

      1. 鈴虫 より:

        スマイルさんのこのコメントは、本間先生の口から発せられた言葉の様に聴こえて不思議な気持ちになりました。とても心に染み入るお話です。

        今日アップされた東北学院大学応援団のエールと共に、私に大きなパワーを注入してくれました。有り難うございました。

        今、抱えている目の前の課題にも果敢に取り組める気がしてきました!スマイルさんは私の名カウンセラーです。こちらこそ、どうぞ宜しくお願いいたします。

  2. 鈴虫 より:

    今朝もまた、当時にタイムスリップして胸が熱くなっています。

    キュープラロスの受容についてのお話を覚えています。ありふれた日常を生きていた私にとって、目の前の事象を専門的に分析して見せられることは驚きでした。私が初めて目にする人間の行為、言動が、既に「こうだからこうなる、次はこうなっていく」というように読み解かれていることに衝撃を受けたのです。
    その様な場面が日常的にあって、その度に自分の無知や無力を知り、そこから「もっと学ばなければ」という気持ちが掻き立てられていきました。

    実際に訪問時には「あんた達は、話を聞くだけで何もしてくれないっちゃ」と言われ、サテライトに来てくださる心理カウンセラーにご相談しても「私達には何も出来ません、ただ話を聴くだけでいいんです。」と繰り返されるばかりでした。頼みの綱と思っていたこの心理カウンセラーから、胸にストンと落ちるお話を頂けたことは無かったと記憶しています。
    今思えば、この先生は素人のおばちゃん達に専門的な解説は必要無いと考えていたのかもしれません。
    私達は様々な専門家の方々のお話を聞かせて頂く機会に恵まれましたが、その中で本物とそうでないものを見わける目はおばちゃん達にも備わってきていたのでしょう。
    それは肩書きや役職ではなく、人を人として見ることを学べたからではないかと思っています。

    1. スマイル より:

      頼みの綱とすがった専門の知識を身につけているはずの心理カウンセラーからは「胸にストンと落ちる話をいただけたことはなかった」という言葉、同じような話をいろんな場面で耳にします。「専門の知識」とは何なのでしょうね。必死に答えやヒントを求めている人に、少しでも力になるようなことを伝えられる言葉はどうやったら身につけられるのでしょうか。

      人は自分の深さでしか人や物事を理解できないのではないか、と思うのです。本間先生の言葉が支援員さんたちの心を照らしたのだとすれば、それまでの道のりで必死に道を求めていらしたからなのだと思います。極限の現場でその必死さ同志が響き合ったのだと思うと、まさにその「奇跡」に心が震えます。

      「肩書や役職ではなく、人を人として見ることを学んだ」という鈴虫さんの言葉。「ああ、私たちは人生をかけてそのことを学ぶための道のりを歩いているのかもしれない」と思いました。同時にそれは「学問」として学ぶものではないのだとわかりました。とても大切なことがここに書かれてあって、先生の記事と鈴虫さんの言葉と両方あってはじめて今回の記事は完成すると思います。

      私も深く心に刻みます。お二人に心からの感謝をこめて・・・

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