OOC活動事例をお寄せ下さい(8月10日~16日迄の分)

またまた皆さまから日々様々な「おせっかい」に直面したり関わったりした事例を頂く日がやって来ました。今週は、どんな話題が出てくるのかとても楽しみです。

上記の期間中に何編でもお受け致します。ドシドシ、書き込んでください。お待ちしています。書き込みは、この下にある「コメントを残す」にお願いします。

新しい書き込みのルールは、「事務局からの連絡」に示しています。そちらをご覧下さい。

今週から「おせっかい」をチョット深掘りしてみる書き込みを掲載します。冷やかし半分でご覧下さい。

この河が氾濫しているなんて想像を超える
(山形県最上川)

『思いがけず利他』からの学び 其の一「共感の危うさ」

当分の間、歳を重ねてから授かった娘に教えてもらった『思いがけず利他』(中島岳志)の中から、「おせっかい」の参考になりそうなことを書いてみます。この本は、娘がCCOの参考になるかも知れないと勧めてくれた本です。以下は、中島岳志2021『思いがけず利他』ミシマ社.からの引用です。

始めは、「共感の危うさ」です。一般的には、利他的行為の源泉は「共感」にあると思われています。

「頑張っているから、何とか助けてあげたい」「とってもいい人なのに、上手くいっていないから、何とか助けてあげたい」等々、そのような気持ちが援助や寄付、支援を行う動機になっているのではないでしょうか。窮地におちっている人達への贈与は、様々な共感の連鎖によって起こりました。他者への共感、そして贈与につながる。この両者のつながりは非常に重要です。

しかし、一方で注意深くならなければならないこともあります。共感が利他的行為の条件になると、例えば重い障害のある人達のような日常的に他者からの援助・ケアを必要としている人達は、どのような思いに駆られるでしょうか。おそらく「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」と、思うはずです。「共感される人間」にならなければならないとしたら、自分の思いや感情、個性を抑制しなければならない場面が多く出てきます。「こんなことを言ったらわがままだと思われるかも知れない」「嫌なことでも笑顔で受け入れなければならない」等々。このような想いを持ちながら「共感」されるために我慢を続けてしまいます。

「利他」を行う人が、全く想定していない形で受け止められる「利他の影」が起きるとすれば問題は深刻です。著者は『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史)を例に、共感を超えた「別の規範」の存在を示唆しています。

「利他」は、何か単独で利他という概念が成立している訳ではないと言います。大きな世界観の中で、無意識のうちに、不可抗力的に機能しているものだと言うのです。「利他」は「利他」と認識されない次元の「利他」だと言うのです。ここで出てくるのが「業」(ごう)です。

「業」とは。止まらないもの、仕方がないもの、どうしようもないもの、不可抗力で意思を超えた存在で、因果を前提とした意図的行為ではない、すなわち「オートマティック」ものだというのです。「どうしようもなさ」という「業」(私の感覚で言うと突き上げてくる感覚(情動かな)や導きの感覚)が「利他の本質」なのではないだろうかと語ります。

かなかな、ピント来ないかも知れませんが、OOC事例を読みかえすと、「因果を前提とした意図的行為ではない『どうしようもなくつい』やってしまった」という感覚は、皆さん身に覚えが有り、分かるのではないでしょうか。どうも私たちの行っている「おせっかい」には、この「業」が関係しているようです。実は悟りに達したお釈迦様でも、この「業」を持っていると言います。お釈迦様は、いつでも、どの様な人でも苦しみから救ってあげようとしています。これは「仏の業」なのだというのです。

次回は『与格の構造』というお話をします。私は、今まで全く考えてもみなかったことですが、とても納得できる考え方です。

参考書籍『思いがけず利他』

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

OOC活動事例をお寄せ下さい(8月10日~16日迄の分)” に対して7件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    今朝の記事は一度読んだだけでは難しいところもありますが『こんな夜更けにバナナかよ』の映画は見ました。

    生きる為の行為の全てにおいて、人の手を借りなければならない主人公が、理不尽とも思える我がままの限りを尽くして周りの人達を振り回すお話です。見ていて少し腹が立ったりして、私ならサジを投げそうになるかもと思いました。でも、彼の我がまま放題を聞いているうちに、障害が有るということより先に、私と同じひとりの人間であることが前面に出てきました。

    同情で側に居るのではなく、手がかかってしょうがないヤツだけど、やっぱりかけがえの無い友達だよねと思えるお話でした。

    障害が有る無しではない、人として人を見る事にあらためて気づかせてくれた印象深い映画でした。

    1. いくこ より:

      「人として人を見る」シンプルですが大きなテーマですね。

      先日、友人が話してくれた愛猫のふるまいから学ぶことがたくさんあるという話を思い出していました。家族にとっては迷惑な猫の仕業、でも猫ちゃんは猫ちゃんなりの必死さでそうのようであると、わかってあげたいというお話。

      また別の話ですがテレビ番組で、性同一性障害のある方が若いころに母親に言われたことがトラウマになっているという話、相談を受けた方(占い師)が「お母さんは悪くないですよ」と話したことで相談者の方はホッとした表情でした。ちょっとわかりにくい説明かもしれませんが、私にはその時ストンと心に落ちるものがありました。猫ちゃんとお母さん、私がもしその立場であったなら同じような態度であったかもしれない。鈴虫さんがおっしゃる「人として人を見る」先生がおっしゃる「共感を超えた別の規範」そういうことなのではと考えています。

      猫ちゃんの話は、私に話してくれたスマイルさん、忙しそうですが時間が出来たときに書いてあげてください。って振るのもおせっかい(笑)

      1. スマイル より:

        先生の自慢の教え子でもあり娘のような存在である方が紹介してくれた本の内容、とっても素晴らしく深く共感します。でも、それはまた後にして「いくこさん」のおせっかいである「振り」への返答から。

        我が家の愛猫ちゃんは、ある日私の妹がとっても可愛い子猫を迎え入れたと我が家に連れてきた時、ついつい私が「めちゃ可愛い!」と抱っこしたりしたものだから拗ねてしまって、いつもは行かないロフトに3日間引きこもってしまったんです。いつ覗いても不貞腐れた顔で「ふて寝」していました。そしておしっこの匂いもきつくなったのです。

        その時、本当にいろんなことを学び感じました。きっと子どもも同じではないかしら?大好きなお母さんが他の子を「可愛い」と言って抱っこしたら、もう理屈なしでとっても悲しくなってどうしていいかわからなくなって、体にも影響が出てしまうこともあるのではないかしら。そうだとしたら下の子が生まれた時に「お姉ちゃん(お兄ちゃん)でしょ」としっかりすることを求めるのは、子どもによってはとっても酷なことになってしまうなあ、と。想像しただけで泣きそうになってしまいます。ああ、そんな時ギュッと抱きしめてあげたらいいんですよね。

        「頭で判断するのではなくて心で受け止める」ということが大事だと愛猫が教えてくれました。でもそれはシンプルでありながら、とっても難しくて、それができなくてみんな苦労しているというものだとも思うのです。

        先生がここに書いてくださった本の内容にも通じるように思います。

        1. ハチドリ より:

          スマイルさんちの猫ちゃん,ほんと可愛いですね。
          拗ねている様子が目に浮かぶようです。

          さて,私が二人目の子供を産んで間もない時,3歳上のお兄ちゃんがちょっと赤ちゃん返りのようになりました。ベビーサークルの中で泣く真似をしたんです。
          その時に先輩ママさんから教えてもらったことは,『生まれたばかりの赤ちゃんには悪いけど(まだわからないから大丈夫),上のお兄ちゃんのことをいっぱいいっぱい「お前が一番可愛い!」と言って何度も抱きしめてあげてね』ということでした。
          即,実行,とても参考になったアドバイスでした。

    2. ハチドリ より:

      私もその映画を見ました。
      実話なんですよね。
      鈴虫さんが書かれていたとおり,『理不尽とも思える我がままの限りを尽くして周りの人達を振り回すお話』でした。
      重度の障害があっても,様々な手助けや支援をもらって?利用して?自分らしく生きていくことを改めて考えさせられたり,タイトルどおり,「なんで,この真夜中にバナナ買いに行かなきゃないの?(私だったら,明日の日中ではだめですか?と言っちゃいそうです)」と,人として考えちゃいました。

      先生が書かれていた『共感を超えた「別の規範」の存在を示唆しています』とは,どういうことなんでしょうか?夜中にバナナを買いにいった彼女の行為は「業」だったのでしょうか?
      う~ん,かじってみよう社会学のときよりも私には難しい内容でした。でも,なんだか面白いです。

      1. いくこ より:

        バナナを買いに行くかどうか?要望に共感はできないけれど認める、認めるけれど自分に我慢をさせずに寄り添うようでありたい。
        願っていますが、そうできるかと自分に聞いています。
        できなくても買ってきてと命じた人が悪いわけではないとわかっていたいなと思います。
        う~ん、難しいからコーヒーでも飲みながらゆっくり話してみたいですね、みなさん。

        1. 鈴虫 より:

          そう、難しいですね。
          でも、それだけ立派に自己主張している人に対して、私達は彼を弱い者だとか守ってあげなければ等という感情はわきにくいように思いませんか。私は、その様な彼になら相談事さえ出来そうと思うのです。
          それこそが共存、同じ目の高さで生きていると言えるのかなと思いました。

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