南三陸町長による町外避難町民へのビデオレター

1月25日「感謝の気持ちを届ける全国行脚」へハチドリさんからコメントが寄せられ「町長のビデオレター」に関する記述がありました。それを読んで、当時の様子を思い出したので、以下に書かせて頂きます。

宮城県南三陸町は,2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で津波により市街地のほぼ全てが浸水し,死者・行方不明者は748人,建物被害は3,311戸にも達する甚大な被害を受けました。5,362世帯(人口17,666人)規模の町で,避難者は10,368人(最大時)にも達した町では,浸水からまぬがれた狭い土地で長期間の避難生活を送ることは困難と判断し,南三陸町長は二次避難所を町外に設置しました。このことにより,県内外56箇所の二次避難所に最大2,246人が南三陸町を離れ避難しています。避難者の内65歳以上の高齢者は736人(32.8%)で,更にその内の384人(52.2%)が75歳以上の後期高齢者でした。

町内のほとんどが浸水した南三陸町に対して近隣自治体からの支援の手はとても早かったです。近隣の登米市長は3月20日に仮設住宅の敷地提供を、大崎市長は3月23日に鳴子温泉宿を使った二次避難所設置の申し出を行っています。その他,県内外の市町村からも避難所設置の申し出が相次ぎました。避難所設置の申し出のあった市町村は,宮城県は大崎市、栗原市、登米市、加美町及び色麻町の3市2町、県外は北海道、青森県、秋田県、山形県、新潟県、富山県、長野県の1道6県で、県内5,844人、県外9,086人の受け入れが短期間に整えられています。

この集団避難(二次避難所)は,町長からの説明から集団避難までの時間が10日もない中で決断を求めるものであしたが、4月3日の第一次集団避難から三度にわたって行われ、一部を除く概ね8月末の帰郷までに、最大時56か所(県内3市1町,県外2県2市)の二次避難所で2,246人の避難生活が続きました。この集団避難先は、緊急の一時的な学校の体育館などとの一次避難所は異なり、温泉旅館や集会施設を利用する二次避難所で、期間は仮設住宅ができるまでの概ね4か月から半年間を予定していました。

弁慶状態の苦情聞き
町長へのDVD反響の報告(2014/02/14)

集団避難による二次避難所での避難生活は、最大時2,246人にもなっています。当時,集団避難に応じた町民は、一次避難所避難者(最大時10,368人)の一部にしか過ぎず、役場職員は依然として一次避難所避難者支援に忙殺されていました。この為、比較的環境の整った中での二次避難所避難者に対する支援は、避難先市町に任せっきりにならざるを得なかったのです。こうした中、4月に集団避難した町民からは「町から誰も来ない」「町の情報が届かない」等々の苦情が相次ぐ事態になってしまいました。しかし,町では県内外に散らばる二次避難所56か所を回ることなど到底出来る状況にはなかったのです。

私は、当時(2011年4月)、南三陸町保健福祉課に行政ボランティアとして赴き、最初に行ったことが、この町外集団避難の支援でした。極めて短い時間の中で、町民を他市町村にお願いする役割です。そんな中で聞こえてくるのは、集団避難(二次避難)した町民からの苦情でした。個人からやまとめ役の自治会長から等々、多くの悲痛な声が寄せられたのです。それを課長補佐席の隣で聞いていた私はいても立ってもいられず、集団避難所(二次避難所)を巡回訪問する企画書を作成し保健福祉課長に提出しました。課長からは「申し訳ないが宜しく頼む」の返事を頂きました。その時お願いしたのは、「ボランティアの身分で町民の所に行っても意味がない、役場から来たという形を取りたいので、何らかの名前が着けてもらいたい」(以前勉強した「地位」です)と、お願いしました。その時に頂いた職名(「地位」)が「南三陸町福祉アドバイザー」です。私は、「役場(行政)が避難者をしっかり支えている」という姿で被災町民を安心させたかったのです。

町長からのビデオメッセージ栗原市
登米市
大崎市鳴子

ひととおり、避難者が予定の市町村に腰を下ろせた6月1日から宮城県内はもちろんのこと、山形県、秋田県、岩手県及び青森県(早い段階で終了)を回り始めました。その中で、町民にとっての最大のタレントは「町長」だとわかりました。町長の肉声が被災者にとってとても必要なのだと感じたのです。私が出向いても何の役にも立ちません、町長の顔、声が避難者の頑張りを支えるのだと。そこで、ビデオを買い、町に戻った夜に町長を取材し、町の様子なども一緒に入れ込みました。編集技術もなかったし、そのようなことに費やす時間もなかったので、ただつないだだけのビデオレターをつくり、それを持って避難先を廻ったのです。

効果は絶大でした。思い出すと今でも涙が出ます。「町長も頑張れ、俺たちを心配するな、ちゃんとやってっから!」このようなことを、ビデオから映し出されたスクリーンに向かった話すのです。役場に戻って、この様子を町長に話をすると、町長は何度も何度も頷く様にしてむせび泣いていたことを思い出します。

集団避難先の訪問は、平成23年6月1日から二次避難所が閉鎖になる9月(一部の世帯は十月迄残った)までの間行いました。その後は、見なし仮設住宅で生活をする避難者支援を行いました。こちらは、平成23年7月19日に開設し「被災者生活支援センター」に、訪問型支援員制度を創設し、被災町民が担った訪問型支援員さんにお願いし仮設住宅での生活が解消し災害公営住宅に転居が完了するまで続けられました。町長からのビデオレターは、お正月などに、宮城県内は訪問型支援員の手で、他県に住む方々へは郵送で届けられています。南三陸町社協はこの見なし仮設訪問でも、もの凄く頑張りました。

書けば長くなるのでこのくらいで終わりにします。ハチドリさんには、いつどこで、どの様な機会にお話ししたのか全く記憶が有りません。この様なこと知っている人は南三陸町内にも多くはいません。コメントを頂き、被災から11年目を前にして改めて思い起こすことができました。手元で見つかったデータはこれだけです。ありがとうございます。

 ビデオメール(震災から3ヶ月)
  ビデオメール(震災から4年)
     (未編集)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

南三陸町長による町外避難町民へのビデオレター” に対して10件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    本間先生やハチドリさんは、被災地のみなさんの為にその時に出来る精一杯のことを心を込めて尽くされたのですね。
    損得無しに誰かのためにという行為は、傷ついたみなさんの心に温かいものを届けたことでしょう。ビデオレターを食い入る様に見るうしろ姿がそれを物語っていると思いました。

    1. ハチドリ より:

      鈴虫さん、ありがとうございます。
      私の勤務地は内陸部で、地震の被害は大きかったのですが、4月から赤ちゃん健診とか通常業務が出来るようになったことと保健福祉事務所の職員がすぐに一緒に動いてくれたことが大きな力添えとなりました。普段からの関係性って大切だなぁとつくづく思います。
      ビデオに食い入るように見る後ろ姿、ここで写真で初めて見たのですが、あ~、良かったな~と感動してしまいました。

      1. 鈴虫 より:

        ハチドリさん、まさに縁の下の力持ち的な黒子のお役目、ご苦労さまでした!
        普段から積み重ねている連携は、危機的状況では最大限のちからを発揮するのですね。
        私も心していい関係性を築いておきます。
        コメントありがとうございました。

  2. いくこ より:

    行政に携わる方々の奮闘が深く胸に届き感謝の想いを新たにしています。
    県外からの避難所設置の申し出に涙がこみ上げました、そして一つ思い出したことがあります。
    損保の仕事をなさっている方が、震災後に山形の顧客とのやりとりの中で、地震保険の申請について話したところ「宮城の人が先だべ~」と言われたとのこと、山形も地盤の弱い所はかなり被害があったのです。
    なんと人は優しいのだろうと今思い出しても胸がいっぱいになります。

    1. ハチドリ より:

      いくこさん、ありがとうございます。
      その山形の損保の方のお話、自分にしてもらったようにありがたくて、なんか涙が出てしまいました。山形、あったかいな~。いくこさんもあったかいな~!
      私も胸がいっぱいになりましたよ。素敵なお話をありがとうございました。

  3. スマイル より:

    ハチドリさん、素晴らしいコメントをありがとうございます。おかげで被災地の様子、本間先生の奔走を知ることができました。「いてもたってもいられず」行動した先生の姿が目に浮かぶようです。

    震災後間もなく、私が住んでいる地域のアドバイザーをなさっていた本間先生と出会いました。その時は南三陸に住み込んで支援なさっていることなど、全く知りませんでした。会議のアドバイザーとしての先生が素晴らしかったので、もっとお話をお聞きしたいと思っても、会議が終わると直ぐ会場を立ち去って行きました。「もう心はここにはないのだな」ということがその後ろ姿から伝わってきて、それ以上話しかけることができなかったことをありありと思い出します。

    一刻も早く南三陸に戻りたかった、いえ、会議が終わった途端、もう心だけ一足早く南三陸に舞い戻っていたのでしょう。ですから、ここに書かれてあることを実際には知らないにも関わらず、先生の姿だけは目に浮かぶような気がするのだと思います。

    こうして言葉にして残していただくことで、先生がなさったことが今後役に立つことがあると思います。本当は災害などもう起こらないのが一番ですが、それは難しいことと思うので、たとえ起こっても、二次被害、三次被害のような被害の連鎖が食い止められることを願います。そのためにも、本間先生がなさったことを(ここに書かれてあることはほんの一部だと思いますので)、お時間のある時に書き残していただけることを願います。

    1. ハチドリ より:

      『もっとお話をお聞きしたいと思っても、会議が終わると直ぐ会場を立ち去って行きました。「もう心はここにはないのだな」ということがその後ろ姿から伝わってきて、それ以上話しかけることができなかったことをありありと思い出します。』

      スマイルさん、その光景、私もありありと思い浮かべることができます。きっと何かの打ち合わせとかでまるで同じような思いになったことがあるからです。

      おーい、もしも~し、本間先生、聴こえていますか~?聴こえていたら「いや、そんなことはない😅」等と言わず、弁明をお願いしますね~‼️

      スマイルさん、ほんと、災害なんて起きて欲しくないです。でもこの数年を振り返って見ても、日本各地で地震、台風、土石流など家を失くしてしまうような災害が立て続けに起きています。自然災害を止めることは出来なくても、命を守ること、スマイルさんがおっしゃるように、その後の二次、三次被害は防ぐことができると思うので、被災地でどんな取組みがなされたのかを知っておくことはとても大切なことだと思います。

      お~い、本間先生、聴こえてますか~😆

      1. スマイル より:

        ありありと浮かびますよね。同時に、胸がいっぱいになるような気持にもなりますよ。おーい!聞こえてますかあ?

        1. ハチドリ より:

          (笑)
          もう一回呼んでみましょう😆☝️お~い🙌

  4. ハチドリ より:

    本間先生,ありがとうございました。
    私の以前の勤め先の方でも,南三陸町のみなさんを始め,女川町など沿岸部からの避難者の方の受け入れを行いました。知らない土地で過ごすということは,いろいろとお困りのことがあるのではという思いで,保健福祉事務所の職員と連携しながら二次避難先を訪問させていただいておりました。医療機関マップを作ったり,ミニサロンを開催したり,必要なことは南三陸町役場につないだり・・,その当時のことは,どんなに話をしても尽きることはありません。そして,「あっちの役場の職員は何してんだ」と言われていたことを私も覚えています。やはり,町民の皆さんが待ち望んでいたのは,私どもではなく,見離されていないぞと感じるような町からのメッセージだったんですよね。
    そういうことからも,本間先生が始めたビデオレターは,町民の皆さんの「がんばるぞ!」という力になったのは確かだったと思います。弁慶状態の苦情聞きもお疲れ様でした。ビデオレターは2011年だけではなく,お正月などに宮城県内は訪問型支援員さんの手で、他県に住む方々へは郵送で送られるなど,しばらくの間続いたんですね。知りませんでした。素晴らしいです!
    貴重なビデオを見せていただき,ありがとうございました。

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