かじってみよう“社会学”6講目社会学理論「準拠集団」

恐るべし“行為論”のお付き合い頂き有り難うございます。まだ50%の理解度というお話しも有り、私の説明不足やわかりやすさを追求すればするほど理論の深いところに向かうので、私自身の学びの浅さを痛感しています。今回は、比較的想像(イメージ)しやすい内容になると思います。

「人間は比較の中で生きている」と、いうお話しです。私たちは、様々な欲求を持って、時にはそれをエネルギーに変えて行為しています。私たちは、欲求等の様々な行為を起こす際にモデルにする人がいます。それを準拠集団(reference group)といいます。「自分自身の態度や意見の形成と変容において、自分を関連づけることによって影響を受ける集団」です(新社会学事典)。準拠集団は、一般には、家族、友人、近隣等々、身近な集団からなることが多いです。これらの集団の規範や価値観との関係において、自らの準拠枠の形を作り、それに基づいて自己の態度などを作り上げることになります。

もう少し簡単にいえば、私たちは周りの人に影響されながら、無意識の中で模倣しながら、自分の振る舞いを選択しています。ですから、自分が関わる人々との関わり(社会)は、少なからず影響を持ち、無意識のうちに模倣するなどして自分自身の振る舞いの下になっています。こうした考え方は「社会化」過程と同じ考え方です。

準拠集団は、自分の幸、不幸や満足、不満足を推し量る目安にもなります。私たちは、こうした目安(基準)を自分自身のオリジナルで持っている人は少なく、多くの場合は、準拠集団と自分を比較することで、幸不幸を推し量ってます。日本人は特にこの傾向が強く、他者との比較の中で自分の状況を判断することが多いといわれています。

例えばこうです。学力が高いレベルの大学に息子が合格して気分を良くしていたところ、学力レベルが同じか下だと思っていた近隣の子どもがレベルの高い大学に合格した事を聴いて、気持ちが暗転し滅入ってしまう。そして、全く関係のないところでその人に対して否定的な発言や態度を取ってしまう。大学時代の友人と会って、学生時代は同程度の学力でいつもつるんで遊んでいた相手が、高い役職に就いていたり給料が高いことを知るとガックリきてしまう。この様に、準拠集団と自分を比較することで、幸不幸などを推し量ることがとても多いのです。

この様に、他者が自分より幸福だと自分を不幸だと感じてしまう。このことを「相対的不満」と呼びます。これはまた逆も真なりです。「他人の不幸は蜜の味」等の話は良く耳にします。ハーバード大学のエルゾ・ラットマー教授(経済学)は、2005年に論文で「隣人達の収入が上がることは、自分の収入が減ることと同じ程度の不幸をもたらす」と、語っています。

「他人の不幸を喜ぶのは不謹慎だし、自分はそんなことはしない」「他人が優れたものを持っていることについて、嫉妬することはいけないことだし不道徳だと思う」。この様に、自分はそんな気持ちは持たない、と問題を覆い隠してしまえば、嫉妬の存在とそれに対する自己欺瞞の葛藤の中で、問題を解決することが不可能になってしまいます。まずは、自分の中に嫉妬心という感情があるという事実を認める。ただ、その嫉妬心をあからさまに表明することは社会生活上の軋轢の元であり、好ましくありません。だから、どう適切に対処するべきかをよく考えることが大切です。

人間が妬み(ねたみ)の感情を持っているからといって、それは悪い心であるわけではありません。進化の過程で、生物は生存競争のために互いに食物や異性を奪い合ってきました。結果的に見れば、他者の不幸は自分の幸福につながり、自らが子孫を残す可能性が高まるため、他者を妬み、他者の不幸を喜ぶことが生きていくためには必要でした。だから、妬みは本能といってもいい。否定するものではないのです。

私たちが暮らす地域社会は、誤解を恐れずに言い切れば準拠集団ともいえます。周りの人々の振る舞いを見ながら、自分の有り様を判断しているところがあります。前回4講目の感想でいくこさんが寄せてくれた「具体的な行為を見せ続ける」ことの大切さはここにあります。

人の不幸を喜ぶ社会にするか、小さな振る舞いに価値を見いだし、それをお手本にして更なる高みを目指す社会になるかは、私たちのつくる準拠集団としての地域社会次第です。私たちは、比較の中で生きています。その比較をどの方向(正のベクトルor負のベクトル)に生かすかです。同じものを見て、「困ったチャン」になるか「地域の力」になるか。

それを分けるのは何なのでしょうか。私は、特効薬はないように思います。自己実現を目指す自己充足的行為として「具体的な行為を見せ続ける」ことで、意識変容の時を待つことも方法かも知れません。

鎌倉
明月院庭園

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”6講目社会学理論「準拠集団」” に対して13件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    2周目の6講目
    『準拠集団』referennce group
    自分を関連づけることによって影響を受ける集団のこと。例えば家族・友人・近隣など。周りに影響され、模倣しながら自分の振る舞いを選択している。

    この集団は自分の幸・不幸を推し量る目安になっている。自分の準拠集団の中で、
    自分より幸せな人を見ると妬み、不幸な人を見ると可哀想と思ってしまう。別の言い方をすると、不幸な人を見ると自分のほうが幸せでよかったと安心する。喜ぶ。
    妬みの感情は本能なので、自己欺瞞で無理に覆い隠さなくてよい。

    妬みを否定しなくてよいと知り、安心した。人間は比較の中で生きているならば、過去の自分と比較して幸・不幸の目安にすることもできる。あの頃と比べて今は幸せだなあと感じることが多い。自分によいと思える集団に、新たに飛び込んでいくことも面白そうだと考えるようになったし、自分の所属する準拠集団によい影響を与える人になりたいとも思う。僕にも『あの人のように生きたい』と思う人がいます。その一人は本間先生です。

  2. welfare0622 より:

    第6講目のテーマは「準拠集団」でした。かじってみよう“社会学”6講目社会学理論「準拠集団」に対して皆様から11件のコメントがあります。次第にこのWeb学習会に慣れて来ているようで皆さんの意見・感想提出も多くなり、とてもやり甲斐を感じています。有り難うございます。

    阿部さん。どの集団に属するかによって生き方が変わる。これを逆手にとって、それを選択することで、自分の生き方に良い影響を持てるように意識する。そう考えると、人生は宿命的な要素だけではなく、自ら切り拓くことが可能なのではないかということも言えます。是非、自分の準拠集団を振り返えることで、自分をより良く知る機会、さらなる飛躍の道へと誘う機会になるかも知れません。

    スマイルさん。相手に対する評価は時として自分の傲慢にもなるかも知れない。なので、「正しいかどうかはわからない、でも『私はこうしたい』『こうするのが嬉しいし楽しいし幸せ』だから『する』。その方が軽やかに生きられそうな気がします。」何処までも謙虚で前向きな姿勢には共感と共に、私もそうでありたいと見習いたい気持ちで読ませて頂きました。

    山ぼうしさん。準拠集団というキーワードを当てはめて自分の今を考えてみると、様々なことが思い出される。ご紹介頂いたエピソード、素敵ですね。そのような関わりのある人生は豊かだと思います。山本潤子の「卒業写真」にあった「あなたは私の青春そのもの」を思い浮かべられるようです。「私もそうしたい、そうなりたい」。こうした振る舞いは、これから取り上げる社会的相互作用にもつながっていくと考えています。これからの講義も楽しみにしていて下さい。

    いくこさん。自分の準拠集団を知る事で、自分の取説をより理解できます。自分が関わる準拠集団は「暖かな場所」でありたいという姿勢には、強く共感を覚えます。鈴虫さんもそう語っていましたね。そういう姿勢は、地域の雰囲気をより暖かな居場所にしていく、誰にでもできそうで、でも難しい、大切な振る舞いだと思います。きっと、いくこさんの後ろ姿を見て「私も!」って言って、見えないところで拳を握っている人がいるように思います。

    鈴虫さん。如何なる準拠集団に属そうと、それに流されず、自分の振る舞いを選択する姿勢を忘れないようにしたい。選択という行為を通して自己実現を目指すと言います。他人のせいにせず、常に自分を忘れないという、大切な姿勢だと思います。

    ハチドリさん。「私たは比較の中で生きている。小さな振る舞いに価値を見いだし、それをお手本にして、継続して具体的な態度、行為に表し、実行していく。家庭でも職場でも地域の中でもお友達仲間でも・・ですね。なんか気持ちが前向きになって嬉しいです。」とても嬉しいコメントです。特に、「小さな振る舞いに価値を見いだし」という言葉には、とても強く共感を持ちます。大きな事柄で無くて構わないのです。日常の些細な営みこそ大切にしたいと思います。これを周りの方々と共有し共感し合いながら、世の中があるべき姿に進んでいく。これこそが「地域福祉」推進の王道です。

    今回も多くのコメントを有り難うございました。今回は、土日と出かけていたので、皆様への返事が遅れてしまいました。申し訳ありません。明日の月曜日も是非お立ち寄り下さい。お待ちしています。

  3. ハチドリ より:

    「人間は比較の中で生きている」
    なるほど!意識しているときもありますが、無意識に比較をし、自分の感情の浮き沈みを感じていることもあるように思います。
    嫉妬や妬みの感情を持つことは、これまでは精神の衛生上良くないと思っていましたが、悪いことではないのですね。むしろ、当たり前の感情なんだと少しホッとした気持ちです。
    でも、大切なことは「どう適切に対処するべきかをよく考えること」それも、確かにその通りだと思いました。

    私たは比較の中で生きている。
    小さな振る舞いに価値を見いだし、それをお手本にして、継続して具体的な態度、行為に表し、実行していく。
    家庭でも職場でも地域の中でもお友達仲間でも・・ですね。
    なんか気持ちが前向きになって嬉しいです。

    時間がなくて、ここまでしか書けませんでしたが、ありがとうございました。

  4. 鈴虫 より:

    私達は誰でもひとつの準拠集団にだけ属しているのではないと思います。いくつかの集団から様々な影響を受けながら暮らしているのではないでしょうか。

    その様な中に居ながら意識して、或いは無意識に、自分自身の心にスッと受け入れられるものと拒絶したくなるものを選択している気がします。
    良いと思うことには興味を持って真似てみたいと探究心が湧き、その逆では何でそうなるの?との疑問や、自分なりの考えを確認したり距離を置くなどして身を守っています。
    準拠集団にどっぷりとのめり込んで、何もかも仰せの通りとなれば私というものが無くなってしまいます。
    結局はどこに属して居ようとも、その中でどの部分に影響を受けて何を取り入れ、自分がどのように振る舞うかを選択するのは自分自身だということを忘れてはいけないのでしょうね。
    そう考えると今後、自己実現を目指して自ら準拠集団を選択し、より良い影響を受けられそうなところに身を寄せるというのは良い選択ではないか思います。

    最近では、本間先生のこのHPで難しい講義に苦戦しながらも、前向きなみなさんと交流できることに勇気や元気、ヤル気を引き出して頂けているのは私一人ではないと思います。本当にありがたいことです。
    自分で選択して参加している、これもまた立派な準拠集団ですよね。

  5. いくこ より:

    今回は「へぇー」ではなく「うんうん」と頷きながら読みました。
    遥か昔20代の頃、仕事先の休憩時間に同世代の人との会話で、価値基準の違いに衝撃を受けたことがありました。その時に、同じ社会に暮らしていると思っていても、実は空気の層が別というか、自分の解釈で築いた別々の社会で暮らしているのではないかと考えました。
    何十年も前にそこへ考えが及んでいても、いまだに衝撃を受けることが絶えません。
    「準拠集団」という言葉を心にとめていればそれが緩衝材となり、受け止めより良く対応できるように思います。まずは自分の準拠集団を知ろうとすること、そしてそれが暖かなものであるように心がけたいと思います。

    1. 鈴虫 より:

      とても共感出来ます。
      私は自分からその集団を暖かなものにしようという発想に及びませんでした。
      いくこさんの感性はどこまでも優しさに溢れているなぁと感心しました。
      素敵です。

      1. いくこ より:

        鈴虫さん
        お褒め頂いて恐縮です、人に優しくありたいと願いながら自分に言い聞かせております。
        鈴虫さんこそ、優しいまなざしでのコメント、いつも素敵だなぁと思っていました。
        ありがとうございます。

        1. 鈴虫 より:

          まぁ嬉しい!
          私もいくこさんの様に、私らしい精一杯をつくしたいと思っているのです。
          どうもありがとうございます。

  6. 山ぼうし より:

    準拠集団,またまた新しい言葉が出てきました。
    でも,今回はわかったような気がします。

    人の行動や価値観などに影響を与える集団や様々な行為を起こす際にモデルにする人がいる➡それが準拠集団なんですね。
    私,いろんな人のことを思い出し,自分の好きな行為との関連性を考えてみました。
    私は,退職などでその職場にいなくなる人がいると,小さな紙に職員全員からメッセージを書いてもらい,可愛い箱に入れたり,色紙に張り付けたりして渡すようなことを続けています。自分がそのようにしてもらってとても嬉しかったということもあるのですが,それよりもずっと前の,ある出来事がきっかけだっと思うんです。彼と岩手のペンションに行った時に,夕食を食べている最中だったか,ケーキを振舞われ,そこに泊まりにきていた他の知らないご家族のお母さまがお誕生日だということを知ったんです。それで,夕食を食べ終えて私たちは部屋に戻ったのですが,彼が何か紙に文字を書き始めたんです。それは,そのお母さまへのお誕生日メッセージだったのですが,部屋にあった缶ビール数本と共に「あのご家族に届けてきてあげて」と言われ,彼のその振る舞いがカッコよく見えて,心地良くて,私はその時に大きな影響を受けたように思っているんです。

    文中にあった,「私たちは、欲求等の様々な行為を起こす際にモデルにする人がいます。それを準拠集団(reference group)といいます。」
    改めて,仕事の仕方,立ち居振る舞い,ファッション,食事,好きな音楽・・・,私の欲求の行為を起こす際のモデルって??と考えてみるとなんだか楽しいです。

    準拠集団が,自分の幸,不幸や満足,不満足を推し量る目安にもなります・・という部分は,今日は考えないでおきます。
    また,今流行りの「インフルエンサー」とはちょっと意味が違うのでしょうか?

  7. スマイル より:

    最近こんな会話を交わしました。「もし自分に何かあった時、たとえ夜中でも助けを求めれば駆けつけてくれる仲間がいる、そう思えるだけで十分支えになっている」というような内容でした。

    いつも意地悪な人、ずるい人に何かいいことがあっても素直に心から「良かったね」と言えるほど聖人君子ではいられません。そういう人とはなるべく関わらないようにする、というのができる精一杯。

    でも、想いを共にする仲間たちの喜びは自分の喜びで、悲しみは自分の悲しみとなります。これは理想ではなく現実であり、日々の実感です。そうあれることは何と幸せなことでしょうか。

    このところ思うこと。それは「正しい」「正しくない」という基準で判断することはやめようということ。「なんだかなあ」と自分が感じる人の行為も、その人なりの正義や理由があるでしょう。「相手が変わることを望む」というのは「こちらが正しい」と思っていることの裏返しでもあるような気がするのです。正しいかどうかはわからない、でも「私はこうしたい」「こうするのが嬉しいし楽しいし幸せ」だから「する」というようでありたいと。その方が軽やかに生きられそうな気がします。

    「他人の不幸は蜜の味」というようなことが書かれてありましたが、人と比べて落ち込んだり妬んだり、逆に不幸を知って幸福感を感じたり、という土台から始まる人間関係は、努力しても砂の上に城を建てるもののような気がしてなりません。土台はもっと別なところに作りたい。それは5講目の講義にあった「子どもたちの心に自己肯定感を育くむ大人の責任」ということに繋がってくるような気がします。まだ心が柔らかい子どもの心に「共に喜びを分かち合う幸せ」「悲しみを分かち合う心強さ」を実感として伝えられる大人でありたいです。

  8. 阿部 優 より:

    つい他人と自分を比較してしまい、いかんいかんと思い直すことがあります。
    いい家に住めてうらやましいなぁとか。

    これは本能なので仕方ないですね。

    準拠集団の影響を強く受けるとすると、どの集団に属するかによって、生き方が変わってきます。これは、ある程度選択できるのではないか。

    住む地域、学校、職場などは選んだり変えたりすることが可能です。変えることでよい影響を受けることができる。

    自分の所属する集団を、自らの行動で影響を与えていくことも素晴らしいですが、難しいなら集団を変えることも、よいのかもしれない。

    荒れた学校にいれば、自らも荒れますし、新宿歌舞伎町にいれば、悪い影響ばかり。

    ただし、小さな集団である家族や友人などは、なかなか辞めることが難しいですね。

    これから自分の準拠集団について、影響について考えてみたい。

  9. 岡本悦世 より:

    本稿とは、直接関係のないコメントですみません。
    西市民センターでの講演、ありがとうございました。いろいろな悩みあり、ご意見あり、で、答えはないと思いながらも、専門家の先生からのお話を聞ける機会と思って参加しました。観音講(ひまだれ)、結、役割を作る、というお話が心に残りました。
    これからも、自分にできることを少しづつしていこうと思います。がんばりすぎないことと、できること、の線引きがとても難しい、と感じておりますが。時折、先生のホームページをのぞきながら、学んでいくとヒントがありそうだな、と思っております。楽しみにしています。

    1. welfare0622 より:

      岡本さん。 コメント有り難うございました。学区社協の理事及び民生児童委員をなさって、様々な事例に日々格闘しているからこその感想と拝見致しました。「ここまで!」という線引きは、現実を目の前にするとなかなか判断に迷い難しいです。

      その判断は、人の話を聴きつつも、最終的には自分を信じて自分で判断するしかありません。その為にも、普段から他者の話をよく聴き、「自分ならどうするか、どうしたいか」を自分に問い考えておくトレーニングが必要です。

      多くの人は、「手伝ってもらう」ことよりも「今の窮状を理解して欲しい」という欲求が多いようです。私たちは「社会的想像力」を働かせ、相手の気持ちにより添い、自律力を高めるお手伝いが主たる役割です。主役は、相手様です。私たちはその引き立て役です。

      私たちの振る舞いが、相手の方の行動変容が起きる切っ掛けづくりにつながったら嬉しいですね。HPを訪問して頂き有り難うございます。気になることがありましたら何時でもご連絡下さい。コメント有り難うございました。

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