かじってみよう“社会学”5講目社会学理論「対自欲求」

前回第4講目では、行為の四類型及びその講の原動力となる欲求について「欲求五段階理論」を取り上げました。この流れで、日本の社会学者が唱えている「対自欲求」について触れてみます。これは、現在の子ども達に大切な「自己肯定感」にも通じるので取り上げてみました。対自欲求という概念は、日本の社会学者見田宗介(みた むねすけ、1937(昭和12)年8月生、東京大学名誉教授、『現代日本の精神構造』(1965年)等々)が考えた概念です。

対自欲求とは「自分自身に対する欲求」で、肯定的自己確認の欲求、つまり自分自身を意味や価値のある存在として位置づけたいという欲求です。この欲求は、人間固有のもので、誰でも、しかも強烈にこの欲求があります。そして、この欲求は、人間を歪めたり高めたりし、人間を考える上で決定的に重要な欲求です。

自己意識とは、自分を見る自分と自分に見られる自分、あるいは自分を評価する自分と自分に評価される自分というふうに、自分の中には、二人の自分がいます。見られる・評価される側と見る・評価する側という、ベクトルの反対方向の二人がいるのです。これは、分裂病(統合失調症)でも何でもなくて、人間の意識構造は誰でもがこのようになっているのです。

人間は、様々な場面で「これはイイ!、これはいまいち」等と自分で自分を評価しながら生活をしています。あらゆる生活行為やその際に使った道具等々、人間と関わる事・物が評価の対象になります。同じように、人間もこの様に評価の対象になります。ろくでない、変人、凡人、優しい人、立派な人等々という風に評価しています。評価する際の要求水準は、一般的には自分と接する頻度に比例して高くなる傾向があります。料理人が包丁に強いこだわりを持ち、デザイナーが素材にこだわるのと同じ理論です。

人間にとって赤の他人には少々甘いこと頃がありますが、自分の家族や恋人には「こうであって欲しい」というこだわりが出て、ついつい要求水準が高くなる傾向があります。親の介護を身内が一手に引き受けてするのは勧められません。その理由は、ここにもあります。自分の親はいつも元気でシャキッとしていてもらいたいという想いがあります。弱った親の姿や何に付けても依存してくる親の姿は見たくないものです。自分の親には「こうであって欲しい」という要求水準がとても高いのです。この為、弱った親の姿を認められずに「これもあれも」とついつい多くのことを期待してしまうのです。私は、こうした状況を避けるためにも、親の介護は他人に任せ、身内は愛情を持って見守る役割に徹するべきと考えています。しかし、介護保険は、この様なことには関心を持たず、家族を介護要員とカウントして、「家族介護」を必要以上に美化して、これに向かわせています。下の世話をする方もされる方も、家族・身内であるが故に精神的負担が大きいのです。これはダメだ、高齢者のことになるとついつい熱くなる、先に進みます。

では、人間社会において一番接触頻度が高いのは誰か?それは、ほかでもない自分なのです。他の人間やモノは、どうしてもいやなのであれば縁を切りモノを捨てれば良いのですが、どんなにイヤでも人間は自分と縁を切ることはできないのです。更に、人間にとって一番要求水準が高くなる対象は自分自身だということです。これが対自欲求です。では、この対自欲求は、どの様にして充足されるのでしょうか。それは、自分を意味や価値のある存在だと思い込むことなのですが、何の根拠もなく価値ある存在として思い込みを持続するのは難しいことです。そこで、自分の存在意識を証明する根拠が求められることになります。これを得る為には三つの方法があります。創造、愛、統合です。

一つ目は「創造」という方法です。例えば、何らかの仕事をして、それが自分自身にとって有意義なことだと感じられ、周囲の方々からも感謝され賞賛されれば、自分の意味や価値ある存在として自分を評価することができます。仕事の内容は、給料を得るための仕事、家事、育児、ボランティア活動等々、何でも良いのです。

二つ目は「愛」という方法です。自分にとってかけがえのない人から「あなたは私にとってかけがえのない価値ある存在です」といわれれば、これほどの嬉しいことはありません。恋愛、家族愛、夫婦愛、友愛、師弟愛等々、愛とは互いの人格の全体を肯定し合う関係なのです。失恋がひどく身にこたえるのは自分の全てを投じている相手から自分という存在を否定されたかのように感じるからなのです。

三つ目は「統合」という方法です。いわゆるアイデンティティー(identity)の欲求がこれにあたります。自分を評価するためには、一定のまとまった「自分」のイメージが必要です。その時々の仕事や人間関係から得られる肯定的な自己確認を積み上げ、その全体をかえりみるとき、変わることのない「自分」なるものがどこかに、しかし確かに存在すると実感できるとき(自己実現)、ひとはゆるぎない自己肯定に達するのです。

この様にして、私たちの人生は、時間の流れを超えて確固たる自己に到達しようとする闘いなのではないでしょうか。

左近の子どもたちは、自己肯定感が低いといわれて久しいです。彼らに「創造」を生む成功体験を経験させ、「愛」というあるがままの姿を丸ごと認めてあげ、「統合」というあらゆる機会を捉えて「そこが君の良さだよ!」と言い続ける、大人の包容力による「心の安全基地」で育てる場を設ける。このような姿勢が私たち大人には必要なのではないでしょうか。子どもたちの未来は、私たちの手にかかっています。私たち大人は、この責任を心して全うすべく振る舞いたいものです。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”5講目社会学理論「対自欲求」” に対して10件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    2周目の11講目
    相互作用論のつづき
    『役割葛藤』
    地位と役割の数は幼いころは少なく、働き盛りで最も多くなり、その後徐々に減少していく。しかし、昨今は非正規雇用など、雇用不安のある地位もはっきりしない働き方が増えてきた。そこでは自分の役割を果たそうと努力する気にもなれないのではないか?

    逆に、役割が重なっている状態(働く主婦など)では、役割期待に応えようとするあまり自分を卑下して落ち込んでしまうことがある。一生懸命尽くそうとする人ほどこの葛藤が強くなる。→日常の悩みの多くが役割葛藤

    無理なら断る・優先順位を付ける・効率化を図る・手を抜くという方法もあるが、対自欲求の満足を得たいのでがんばってしまう。この矛盾をどう解くか?

    僕の考える解決案
    ①自分を褒めてあげる
    少しでも成果を出した自分を褒める。褒められたら葛藤はなくなる(減る)。

    ②そこまで期待されていないことを知る
    自分が思っているほど相手は期待していないものだ。『君には期待しているよ』という言葉は全員に言っていると思っていい。

    ③対自欲求を抑える
    まず、自分で自分の要求水準を高くしすぎないこと。
    次に、役割期待に応えることで対自欲求を満たすことは、5講で学んだ『創造』という方法だが、これだけに頼らず、『愛』と『統合』に頼る。

    子どもにはもちろん、大人にも言ってあげたい。人は必ず誰かに愛されて生まれてきたし、君にしかない良さがあると。

  2. 阿部 優 より:

    2週目の5講目
    対自欲求とは「自分自身に対する欲求」、つまり自分自身を意味や価値のある存在として位置づけたいという欲求。誰もが強烈にこの欲求があり、人間を高めたり歪めたりする。

    人間は関わるものや人を評価しながら生きている。接する頻度が高いほど要求水準は上がっていく。他人<恋人<家族<自分。一番接触頻度が高いのが自分なので、
    要求水準は最も高くなる。存在意識を証明する根拠を得る方法は3つ。
    ① 創造・・・仕事をして自分も周囲も有意義に感じることで創る。
    ② 愛・・・恋愛、家族愛、夫婦愛、友愛、師弟愛等々、互いの人格の全体を肯定し合う関係で根拠を得る。
    ③ 統合・・・アイデンティティー。変わることのない『自分』を実感する。

    子どもに限らず、誰かの心の安全基地になってあげたい。そこが君の良さだよ!とみんなに言ってあげたいと強く思う。

  3. welfare0622 より:

    山ぼうしさん。コメント有り難うございます。とても的を射た内容なのですが、期限後提出なので評価は60点になります(笑)。

    自分の存在意識を証明する根拠、それは想像、愛そして統合と書きました。その事によって自己肯定感を持てるようになると。その為に、揺るぎのない「場」をつくるのが私たち大人の責任だと。「そこが君の良さだよ!」こう言われた子どもは、自信を持ちうなだれていた頭を上げ、前を向いて歩み出すことができると思います。

    ここで提案されてるような関わり合い方は、とても大切だと共感を持って読ませて頂きました。私たち大人が、ほんのわずかな気遣いや、ほんのわずかな目配りをすることによって、子ども達の「心の安全基地」を設けることはできると考えています。

    決して難しいことではありません。私たちが大人としての自覚と責任をほんのちょっと意識する機会を自らの内に設けるために、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸するだけです。

    夜遅くまでコメントして頂きまして有り難うございました。

    1. 山ぼうし より:

      60点いただけるのですか?
      ありがとうございます。
      次回は間に合うように提出しますのでよろしくお願いいたします。

  4. 山ぼうし より:

    大遅刻です。
    申し訳ありません。
    スルーしていただいていいのですが,以前仕事で学んだことで,自己肯定感を持てるようにするために,このようなことも大切ではないかとコメントしたいなと思っていました。

    阿部さんの「大人が起こす事件が、年々子どもっぽくなっている」というコメントは,私もすごく感じていて,最初の「行為」と「行動」の講義の所でつまずいてしまっていました。
    秋葉原通り魔事件のあったあの頃から特に増えていると思います。
    暗い重い話にしたいのではありませんし,ここに参加の皆さんはとっくに聴いたことがあるかもしれません。

    私が仕事で学んだこととは,小さい子供にテレビ,ビデオ(今はDVD?),スマホ等で子守りをさせない,1時間以上見せないということです。見るときは大人が一緒に「こうだね,ああだね」と話をしながらが大切です。ゲームは私の息子が小学校低学年の頃,約30年くらい前からブームになり始めたように記憶していますが,その子たちが子供の親になっています。
    バーチャルな世界にのめり込むと,「創造」「愛」「統合」というあらゆる機会が少なくなりますよね。「そこが君の良さだよ!」と言われることも少なくなります。

    たんぽぽの綿毛は風に乗って飛びながら,コンクリートの上に落ちたらまた風に乗って柔らかい包容力のある「心の安全基地」に落ち着くそうです。しかし,人間の子供は自ら安全基地に飛んでいくことはできません。小さなことでもいいので気になったり,気づいたりしたことがあったら隣の子供にも声をかけてあげる,いいところを見つけて褒めてあげる,そういうことが必要な気がします。そのようにしたいと思います。

  5. welfare0622 より:

    スマイルさん。相変わらず切れの良いコメントを有り難うございます。人間を歪めたり高めたりする「対自欲求」を「自分自身と自分の人生に責任を持つことからしか始まらない」との指摘への展開には膝を打ちます。「自分自身にできないことは人にもできない」「自分を認めていない人は他の人も認めることができない」「自分が満たされていない人は他の人も満たすことができない」「創造的な日々を歩んでいなければ「創造」とはどういうものか見当がつかない」一つひとつに改めて自分を見直す為の言霊のように読みました。

    阿部さん。「大人が起こす事件が、年々子どもっぽくなっている気がします」との指摘、同感です。大人の幼児化現象が至る所に見られ、民主主義が衆愚化する現状にも通じているように感じます。不登校や引きこもりの原因は、ほとんどが親にあるとの指摘は、サポートの実践者であるだけに説得力があります。

    鈴虫さん。対自欲求の為に、自分を褒めることから始めよう。これは、たまには自分自身に良性のストロークを与えることの大切さを指摘している「交流分析」にも通じる行為です。簡単な言い方をすれば「心の栄養」を与えましょうということです。こうした心の豊かさは、他者へ伝播していきます。是非、実践し周りの人をほっこりさせて下さい。

    いくこさん。間に合いましたね、待っていましたよ。「いつも自分を持て余している」自分自身の取説は一番難しい。ギリシャの哲学者ソクラテスは「汝自身を知れ」といいました。自分を知る事はとても大切な事ですが、自分を変えるためとか自分を正すことの手段としてではなく、自分に何ができるのか、自分を何に役立てるのかを知る為に、もっと自分を知ろうとしたのです。こだわりの基に何があるのかを探ってみても面白いかも知れませんね。

    皆さん、今週も有り難うございました。皆さんのコメントを読むたびに、続ける力を頂いています。有り難うございます。ご批判、苦情何でも結構です。お待ちしています。来週月曜日も宜しくお願い致します。

  6. いくこ より:

    今週もみなさんのコメントに更に学びが深まる思いで読みました。
    いつも自分を持て余しているなぁと思っています。「手を抜いていい」と言う夫に「手の抜き方がわからない」と答える私、そのこだわりがどこから来るのか対自欲求という言葉をたよりに探してみたいと思います。
    子ども達の未来、もう待ったなしですね。
    誰もかれも少しでも暖かな気持ちでいて欲しいと願って、いつも声をかけたいと思っています。

    今週はちゃんと間に合いました。
    前回、お褒めの言葉恐縮です、見た目のせいか落ち着いて見られますが、実は冷静でいる時は少ないのです。

  7. 鈴虫 より:

    対自欲求の講義、今回もうーんと唸りながら自分自身を見つめ直しています。

    子育てや親の介護の時には、思うようにいかないことばかりでした。
    良かれと思ってする事がことごとく否定された時には、もう好きにすればいいと匙を投げそうにもなりました。
    でもよく考えると、是非ともこうでなければならないという事はほとんど無いことに気づき、別な方法でも目指す結果に近づけることを知りました。
    自分の強いこだわりをほんの少し手放すだけで、肩の力が抜けるのを感じたものです。

    大人の自己肯定感が低いから子供をほめてあげられない。どこをどの様にほめればいいのかわからない大人もいるかもしれません。大人だって誰かにほめられたい、しかし、誰かにほめられるのを待っていては無駄に時間ばかりが過ぎてしまいます。

    そこで考えました。
    自分で自分をほめてしまおう!(こっそりと)どこをくすぐればにっこり出来るのか、そのツボを押さえておくというのはどうでしょう。そのうち自己肯定感は上がりはじめ、誰かをほめる機会があれば間髪入れずに「いいねー!」と言えるようになるのではないでしょうか。

    講義が進むごとに思考が自分の内面に向けられ口数が少なくなりがちでした。
    でも、社会学は人間同士の関わり合いを深く理解するための学問で私達を悩ませるものでは無いはずです。
    それならば、一時自分の事を棚に上げて、一般論として伸びやかに解釈してみてもいいのかもしれません。

    まずは、誰かを大切にするためには自分自身を大切にすることから、たまには優しい言葉をかけてみようかと思います。

    言いたいことがちゃんと伝わるといいです。

  8. 阿部 優 より:

    今週もありがとうございます。
    社会学をかじるどころか、どっぷりと浸かっています。

    対自欲求によって、自分が歪められていることを少し自覚しています。自分に厳し過ぎるのでしょうか。

    創造、愛、統合をもって、いつか充足されるのか。この3つのうち1つでも実現するのには、まだまだ修行が必要みたいです。妻にそんなこと言われたことないですし。

    子供たちの自己肯定感を高めると同時に、「心の安全基地」が必要な大人も結構いるのではないか。大人が起こす事件が、年々子どもっぽくなっている気がします。

    親しいスクールカウンセラーと共に、不登校や引きこもり対策セミナーなどを開催していましたが、原因のほとんどは大人(親)にありました。そろそろ大人も変える、変わる必要がありそうです。

  9. スマイル より:

    子どもたちと関わっていて、満ち足りている時の表情はとても穏やかでどの子も本当にかわいらしい顔になっていると感じます。子ども時代にただただいつもそのような表情でいれさえすれば、おのずと芽が出て花が咲き未来の希望となっていくのではないか・・・そう思わずにいられません。

    「大人の良かれ」という知恵よりも、子どもの表情が満ち足りていて体も伸びやかに緩められているか・・・それを観察して、そうなれる方法を探すということが子育てでも教育でも何より大切なことなのではないでしょうか。もうそろそろ、本気でそういうことを実践する時に来ているのではないでしょうか。

    今年も師走となり大掃除の時期です。日々少しずつ掃除し片づけていれば大掃除も苦ではないでしょうけれど、ほとんど掃除もせず物もためこむ一方で過ごしてしまったら、年末が近づくほど憂鬱になること間違いなし。片づけたいと思ってもどこから手をつけていいかわからず途方に暮れてしまいます。子どもの頃から比べられ、競わされ続けて植え付けられる劣等感は、いつかは処分するべきものとして溜まり続ける。いざ自分の人生を生きたいと思っても、良い人生を築きたいと思っても、いよいよ自分を発揮できる年代となっても、どこから手を付けていいかわからない片付けから始めなければならないような人生を子どもたちに送って欲しくないと切実に思います。

    講義の最後にあった言葉『子どもたちの未来は、私たちの手にかかっています。私たち大人は、この責任を心して全うするべく振る舞いたいものです』に深く頷きました。

    でも、それができたら誰も苦労はしないんですよね。つくづく思うのは「自分自身にできないことは人にもできない」ということ。自分を認めていない人は他の人も認めることができない。自分が満たされていない人は他の人も満たすことができない。創造的な日々を歩んでいなければ「創造」とはどういうものか見当がつかない・・・

    まずは、自分自身と自分の人生に責任を持つこと、そこからしか始まらないのだろうとあらためて思った講義でした。

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