かじってみよう“社会学”3講目社会学理論「行為と行動」

本日から社会学の理論、本論に入っていきます。のっけから(これって方言?)社会学の中心的な理論を取り上げます。行為論です。

はじめに、「行為」と「行動」は違う、から始めます。人間が何かをすることを社会学では「行為(action)」と表現します。心理学などで使われる行動(behaviour)とは少し意味が違います(行動は、現実の行動にかかることのみを意味し、その認知的側面は一切含みません)。社会学でいう行為は、人間の行動の特徴としての意図性や目標指向性に着目しています。簡単に言えば、目に見える動きに着目するのが「行動」で、なぜそのような振る舞い(動き)をするのかや何に向かおうとしているのかに着目するのが「行為」です。

心理学に喧嘩を売るわけではありませんが、心理学では、人間のやることなすことのうち、外的に観察できてデータ化できる部分を「行動」とよび、それを対象にして研究します。行動は、何らかの「刺激」に対する「反応」として捉え、刺激→反応の図式で理解するのです。

一方、社会学はどうか。例えば叩くという刺激を与えた場面を想定しましょう。叩くという刺激に対する反応は、時と場合、相手などによって多様です。殴り返す人、ただただ泣く人、我に返り謝る人、反応は実に様々です。人間は、刺激に対して本能的に反応するだけではなく、刺激(この場合「叩かれて痛い」)に対して何らかの意味づけを行い、それに従って反応します。その意味づけが、文化によって、個人によって、また相手との関わり方など、様々な状況(誤解を恐れずにいえば社会関係)によって違ってきます。

要するに、人間の行動は、刺激→意味づけ→反応という構造になって具体的に現れるのです。この様に、「意味づけ」という中間項に様々なバリエーションがあるために、多様な反応パターンが存在するのです。この「意味づけ」は心理学が敬遠する「心」の領域に属しますが、社会学は、人間の行動を理解する上で、この「意味づけ」これこそ最も重要な部分だと考え、ことのほか重視しているのです。だから、社会学では「行動」ではなく「行為」という言葉を使うのです。

社会学者タルコット・パーソンズ(米国Talcott Parsons、1902年12月~1979年5月)は、行為を、目的、手段、条件、規範の四つの分析的要素に分解しています。私たちが日常何気なく行為していますが、単純にみえる行為でも、実は沢山の構成要素が複雑に結合し、一定の条件が満たされたときに始めて、その時の「行為」としての振る舞いとなっています。そしてその行為は、1対1や1対少数又は一人だけ等々の「社会」の中で行われます。私たちは、どの様な「社会」の中にいるのかによって「行為」(振る舞い)を選んでいます。その選ぶときの判断指標が、前述の目的、手段、条件、規範となるのです。

例えば、地域で何らかの課題解決のために話し合いをしていたとしましょう。この時の社会(人と人との関わり場面)では、生活課題を解決するという「目的」を共有して、そこに向かって参加者は様々な意見を出し合いながら進めます。それぞれの参加者は、その話し合いの場の目的に沿って、自分の振る舞いや発言を行っています。即ち「行為」をしています。この時、自分の意見を長々と述べたり、他者批判を繰り返したりするのは、その社会が求める目的から外れた「行為」で、K・Y(空気が読めない)な人となってしまいます。

鎌倉「明月院」

行為には、大きく二種類あります。自己充足的行為と手段的行為です。このことをお話ししましょう。人間が行為するのには何らかの目的があります。その目的は、明確に意識されている場合もあれば、習慣的な行為のようにほとんど意識されない場合もあります。行為は、目的を達成するための手段です。ここに「目的と手段」という構図が成り立ちます。これを行為の「目的論的構造」と呼びます。

行為は「目的」という視点から見た場合、「ある行為をすること自体がその行為の目的となっている場合」(自己充足的行為)と「あくまで行為とは別の目的を達成する為の手段として行われる場合」(手段的行為)の二つに分けられます。

例えば、人付き合いの場面(社会)を想定しましょう。友情や尊敬を下にした付き合いは「自己充足的行為」で、何らかの下心や魂胆を持って近づいていく付き合いは「手段的行為」となります。相手と関わる社会の中で、この二つのモード(「自己充足的行為」と「手段的行為」)が違うと喧嘩になったり、「そんなつもりではなかったのに・・・」となってしまいます。一方、お互いが「手段的行為」として割り切ったお付き合い等ということも成り立ちます。ほとんどの行為は、この二つのモードに表すことが出来ます。観光旅行=自己充足的行為vs出張旅行=手段的行為、井戸端会議=自己充足的行為vs課題検討会議=手段的行為、小説を読む=自己充足的行為vs受験参考書を読む=手段的行為等々です。

行為論、恐るべし。まだまだ書き足らないです。次回も行為論其のⅡを行います。少々、肩が凝ってしまいましたね、申し訳ないです。是非、来週もお立ち寄り下さい。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

かじってみよう“社会学”3講目社会学理論「行為と行動」” に対して13件のコメントがあります。

  1. 阿部 優 より:

    2周目の3講目

    行為論Ⅰ。行為と行動の違い。
    心理学での行動は、現実の行動。つまり、外的に観察できてデータ化できるもの。
    心理学という名前なのになぜ心にフォーカスしないのか不思議に思う。
    行動は、刺激→反応

    社会学での行為は、なぜそのような振る舞いをするのか?何に向かおうとしているのか?などの意図性や目標指向性に着目する。
    行為は、刺激→意味づけ→反応

    社会学では、この意味づけ(心の領域)が最も重要で重視している。
    意味づけは、目的、手段、条件、規範の4つが統合し、一定の条件が満たされて行為となる。

    自己充足的行為 行為をすること自体がその行為の目的
    手段的行為 行為とは別の目的を達成する為の手段

    手段的行為であっても、意識的によい意味づけをしてやり込んでいくと
    自己充足的行為となる。これができているのが嬉しい。もはや無意識に。
    仕事や人間関係の問題でも、全然大変そうじゃないねと言われてきましたが、
    こういうことだったのかと理解できました。自己充足的行為というかっこいい名前のついた行為でした。

    今後、シンボリック相互作用論を少しかじってみようと思います。
    役割取得・アイデンティティ・複数の現実。日常生活に生かせそうです。

  2. 阿部 優 より:

    いくこさん

    僕も毎回、へぇ~、おぉ~、なるほどーと言いながら講義を受けています。皆さんの感じ方もそれぞれで、コメントを見るのも楽しいですね。

  3. welfare0622 より:

    やまぼうしさん。なかなか苦戦しているようですね。かじってみたが「どうもしっくりこない」。こんな感じでしょうか。率直な感想を有り難うございます。無理に、「食レポ」の「甘~い」とか「やわらか~い」等々としか言えない感想よりもズッと良いです。

    様々な考え方や理論に接したとき、これだ!と膝を打つような受け止め方ができる場合と何かしっくりこないもやもや感が残る場合があります。後者の場合は、その理論が自分には合わないのです。これは理解できないということとは違うモノです。普通にある感覚です。このことは、やまぼうしさんだけではなく、全ての皆さんに関わることなので、少し詳しく書かせて頂きます。

    宗教でも、元は同じなのに様々な宗派が出てきます。それは、どこに拠り所を置くのかや何処に着目するのかなどによって「考え方」に違いが生まれ、その考え方の数だけ宗派が生まれています。キリスト教でも仏教でも多くの宗派が生まれています。

    これは学問の世界でも同じです。社会学においても、その考え方に共感した人達で〇〇学派という研究者集団をつくったりしています。ディユケルム学派等はその典型です。また、同じ考え方や研究者が集まった大学を中心に呼ばれているシカゴ学派などもあります。

    この様に、何処に視点を置くか等によって様々なアプローチの仕方があります。私は、大学院で学んでいるときに、指導教官から、「色々の考え方を知り、そのなかから自分がしっくりくる考え方を選んで、その理論で展開すれば良い」と教わりました。私の場合は、Blumer,H.G.の『シンボリック相互作用論』がとてもしっくりして、自分の考え方は、頃の理論を下にすすめました。

    一番やっていけないのは、生半可にかじって、または早々に知る事をあきらめ、自分の考え方に固執することです。いわゆる「我流」です。知の扉を開くことは容易いことではありません。今回のように、分からないことは分からないと認識することも「学び」です。その内にきっと、「これだ!」と言う考え方に出会えると思います。

    また、考え方をわかりやすくするために、何らかの線引きや分類をすることが良くあります。この時も少なからず疑問が生じます。様々な経験をお持ちになって多くの事例に接している場合は尚更です。このような経験豊富な現場実践者からは、「学者は、物事を簡単に仕分けしたり短い言葉で定義化するけど、現場はそんな単純のものではない、学者は現場を知らない!」と、よく言われます。行政にいたときもよく言われました。「役人は現場を知らない。だから、簡単に線引きをする、決まり切った制度でしか我々の生活をみようとしない」と。

    確かに、そうなのかも知れません。しかし、物事には限度というものがあります。現在の制約下の最大公約数が精一杯の所が現実でしょう。あらゆる事を包含する考え方・理論・制度があり得ないのです。何処かに重点を置いて見るしかないのです。

    やまぼうしさん、「自己充足的行為」と「手段的行為」に分けで行為を見る、行為の『目的論的構造』は、肌に合わなかったのでしょう。別の切り口を探して下さい。

    一口に「行為」と言っても、これまで皆さんが行ったり取り上げている行為だけではありません。社会規範を逸脱した社会病理学が取り扱う「逸脱行為」もあります。独等の宗教を背景として社会転覆を謀るという目的を持った「手段的行為」であったり、当の本人は宗教の感化され真顔で「自己充足的行為」として殺人を行う場合もあります。こう言ったことは、これまでの学びとは違った切り口の分析が必要になります。繰り返しになりますが、様々なメス(考え方)を持って、その事象を一番説明しやすい理論を当てはめることも学びの醍醐味なのかもしてませんね。

    1. 山ぼうし より:

      あっ😃とまでは、まだいかないのですが、大分わかって来たように思います。
      嫌な事件が立て続けに世間を騒がせていた時に、この犯人が行ったのは「行動」ではなく、明らかに何らかの意図がある「行為」だったのだろうと。その場合はどう考えたらいいのだろうかとか、その行為自体が目的だったらそれも自己充足的行為と言うのだろうかとか、私の野菜作りは自己充足でもあり、手段的でもあるのだろうか?どっちもか?とか、肌に合わないのではなく、ほんとにわからなかったのです。
      でも、説明が増えていて、50%くらい「そっか☝️」と考えることが出来ました。ありがとうございました。
      次に続く(笑)

  4. welfare0622 より:

    かじってみよう“社会学”3講目社会学理論「行為と行動」。今回も受講して頂き有り難うございました。多くのコメントを頂きとても嬉しいです。

    山ぼうしさん。楽しめるまで、何度も何度も読み返して下さい。その内に、あっ!ていう時が来ます。その時は教えて下さいね。その時を楽しみに待っています。

    スマイルさん。社会学の最も面白い所に気づいてくれましたね。物事との向い方で「自己充足的行為」にも「手段的行為」にもなります。どうせやるなら「楽しく」という姿勢が、大変さを乗り越える力となり、自己充足的行為に変えてくれます。誰とどの様に関わるかも大きなポイントになります。これは、社会学の醍醐味でもあります。

    鈴虫さん。鈴虫さんも、スマイルさんと同様に気づいていましたね。おっしゃるように、ネガティブ思考は、せっかくのチャンスを手放してしまうもったいない受け止め方です。

    阿部さん。毎日「ウキウキ」しながら職場に向かい、目の前の仕事の山に取り組む。仕事が楽しい人生は最高ですね!あらゆる困難を「自己充足的行為」に変えてしまう力はさすがです。

    ラベンダーさん。阿部さんのコメントにあったような仕事ぶり、期待していますよ。

    いくこさん。「へえ~」の先には何が来るのでしょうね。そもそも「へえ~」って面白がって耳を傾けるというのは、頭が柔軟だということですよね。そうでなかったら、自分の経験の範囲内だけで解釈し、驚いたり関心したりはしないのです。いくこさんは「若い!」。これからは、知り得たことを他者に教えてあげたり、自分で実践したりしながら、自分のものとして落とし込んでいくように思います。「へえ~」のある生活は刺激的で楽しいですよね。そして「自己充足的行為」に溢れた生活になるでしょう。

    どうせやるのなら、楽しく意味あることとして取り組むように心がける。そうすることで、例え収入を得る目的の「手段的行為」であっても、より自分らしく意味のある仕事として取り組める「自己充足的行為」に変えることができる。その時大切になるのは、ないしはより効果的に変えるためには、誰と関わるか、即ちどの様な社会の中で行うのかです。逆に考えれば、私たちの社会は、関わり方のよって「変える」ことができるかも知れないのです。

    行為論、もう少し続きます。できれば楽しく興味津々でお付き合い下さい。本間

    1. 山ぼうし より:

      あー、タイムリミットでした💦
      昔、授業で「行為」は自分が意識して動くこと、「行動」は特に意識せずに動いている?ことと習ったことな気がするのですが、先生の「意味づけ」こそ、最も重要な部分にと言うところと繋がるような気がします。
      しかし、何回か読んで考えてみたのですが、正直、「自己充足的行為」と「手段的行為」がまだよくわかりません。頭が固いのか😅!
      と言うことで、第四講目を楽しみにしております。

  5. いくこ より:

    へぇ~~でいっぱいになりながら先生の文章を読み、うんうんそうね同感、そうかなるほどねと皆さんのコメントを読んで学びが深まる思いです。

    阿部さん
    自分の行為の全てが自己充足的行為なら素敵だと思います!私も。

    先生、今週もありかとうごさいました。

  6. 阿部 優 より:

    今週も
    かじってみました
    社会学

    自分の行為の全てが、目的を達成できる自己充足的行為だと素敵だなと思っています。

    僕の仕事は、生活費を稼ぐ目的もありますが、自己充足的行為です。ストレスフリーどころか人生の楽しみの大半を占めています。

    毎日ウキウキしながら仕事に行くので、妻は不思議そうです。つらい仕事の対価が給料だと、僕に熱弁してきますが、笑顔でスルー。

    行為論、恐るべき愉しさ。恐るべし!本間先生。今週もありがとうございました。

    1. ラベンダー より:

      阿部さんのコメントを読んで、あっそういうことかと改めて考えることが出来ました。
      毎日ウキウキ(ニコニコ?ワクワク?)しながらお仕事に行かれるの、とてもいいなあと思います。

      1. 阿部 優 より:

        ラベンダーさん

        コメントにコメントありがとうございます。「所属と愛情の欲求」が満たされました。

        この講義を受講している皆さんと、ひとつの社会を形成しているんだなぁ。

  7. 鈴虫 より:

    いい機会を頂いて社会学をかじり始めたら、日々の暮らしの中の出来事を少し掘り下げて分析し、自分自身を振り返りながら、より良く生きるための学びなのかもしれないと思いました。

    スマイルさんが、「自己充足的行為か手段的行為かは自分の意識をどの方向に向けようとするかが大事」とおっしゃっていました。
    ほんとにそうだなぁと共感するとともに、自分自身の行為がその時々どの様な気持ちでそうなっていたか省みる機会になりました。
    そうしていると絶対的にマイナスとしか捉えられなかったことが、実は転じてプラスに捉えられることに気づかされました。

    恐るべし社会学、深いです。
    もう少しかじってみようとヤル気スイッチが入りました!感謝です!

  8. スマイル より:

    「自己充足的行為」と「手段的行為」について、考えてみました。そしてこれは先生自身が「まだまだ書き足らない、恐るべし!」とおっしゃるように、なかなか一筋縄ではいかないと思いました。

    たとえば、受験勉強のために参考書を読むのは「手段的行為」とされていましたが、振り返ってみると好きな教科の勉強は「受験」ということそっちのけで「楽しむ」ということもあったように思います。

    また私自身は「せっかくだから」という言葉が好きで、「仕事だから」とか「義務感」でとか「やらされている」と感じながら何かをすることが苦痛なので、「どうせなら楽しもう」とか「自分なりに意義を感じたい」と思いながらやることが多いように思います。そうだとすると分類的には「手段的行為」かもしれないものでも、その境があいまいになってくるように思います。

    その曖昧さがもしかしたらとても大切なのではないか、という気がします。「動機の部分」というのは意識しない部分かもしれませんが、自分でコントロールできる(多分)「意識」をどのような方向に向けようとするか、ということが大事なのではないかと・・・

    そんなことを考えながら、読ませていただきました。この「かじってみよう社会学」は、自分のこと(想いや行為)をじっくりと考えてみるとても良い機会になっています。

  9. 山ぼうし より:

    ググってみたら、「のっけから→岐阜の方言」と書いてあったり、第4版新明解国語辞典には、「のっけ→静岡以西の方言。何かを始めるか始めないかの最初の瞬間とか、前置き抜きでいきなり」と書いてありました。でも東京でも東北でも今は「のっけから」使っていますよね。「いきなりですみません」とかも言いますかね?本間先生、のっけから面白い話題をありがとうございます。
    しかし、本題の「行動」と「行為」については難しいので、あと3回くらい読んでみたいと思います。

ラベンダー へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です