広島・長崎への原爆投下

第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月に、アメリカ軍は日本に投下した2発の原子爆弾による空爆を行いました。人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用されました。

1945(昭和20)年8月6日(月曜日)午前8時15分47秒、アメリカ合衆国は広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用しました。このことは、人類史上初の都市に対する核攻撃です。原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

8月6日原爆投下当時、広島市には居住者、軍人、通勤や建物疎開作業への動員等により周辺町村から入市した人を含め約35万人の人がいたと考えられています。また、日本人だけでなく、米国生まれの日系米国人や、ドイツ人神父、東南アジアからの留学生、そして、当時日本の植民地だった朝鮮と台湾、さらには中国大陸からの人々、そして米兵捕虜など、様々な国籍の人がおり、こうした方々もいやおうなく原爆の惨禍に巻き込まれました。広島市は、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計しています(広島市HP)。

わずか3日後の8月9日(木曜日)午前11時02分、2発目の原子爆弾は、長崎県長崎市に対して原子爆弾「ファットマン」が投下されています。原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

厚労省は、広島、長崎両市と各都道府県で管理されている手帳所持者のデータをまとめています。被爆者手帳所持者は、2020(令和2)年度末で12万7,755人です。平均年齢は初めて83歳を超えています。最も多かったのは1980(昭和55)年度末の37万2,264人です。最近、いわゆる「黒い雨」訴訟で原告の市民が勝訴し、この方々にも新たに手帳が交付されることになりました。

平成29年(2017年)7月7日、122か国の賛成により採択された「核兵器禁止条約」は、平成29年(2017年)9月20日から各国による署名が開始されました。2020(令和2)年10月24日、批准した国が発効要件となる50か国に達し、90日後となる2021年(令和3年)1月22日に、条約は発効を迎えました。しかし唯一の被爆国日本は、この「核兵器禁止条約」を批准していません。こうした状況下の中で、日本は76回目の原爆投下の日を迎えているのです。

平和教育に心血を注ぐ被爆者森下弘氏(90歳)は、広島原爆投下を決めたトルーマン元米国大統領と面会したときの怒りを語っています。森下弘氏は1964(昭和39)年、米国人平和活動家が企画した「世界平和巡礼」に参加して渡米。被爆者としてトルーマン元米国大統領と面会した際、元大統領は「原爆投下によって多くの兵士が犠牲になるのを防げた」との主張一点張りだったと言います。森下氏は、その時の手元のメモに「すまないといった表現無し」「幼い命のたくさんあることを考えなかったのか」と書いており、怒りとやるせなさが今でもこみ上げると言います(2021.08.07河北新報)。

米国側の主張で、原爆投下は終戦を早め、日本の犠牲者を増やさないことにつながったという主旨のことが言われたりします。戦勝国による東京裁判と同じような臭いのする言葉です。

私たちは唯一の被爆国として、原子爆弾という兵器に対する対応姿勢を、広島・長崎への原爆投下の日を迎えるに当たって、今一度考えてみる必要があります。このことは、原子力の平和利用という名の原子力発電に対する姿勢にも通じることです。

無言は肯定になります。声高に主張することを求めているわけではありません。せめて、あの時何が起きたのか、それが如何に今につながっているのかを自分なりに紐解いてみる。そんな時間を持っても良いのではないかと思うのです。

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