思いがけないところでつながった

富谷市成田中学校の防災教育を支えようとして立ち上がった「成田中学校防災活動応援プロジェクト」に若干関わる機会があり、富谷市役所を訪問した時のお話しです。

事業の主旨等をご説明に、学校が関わることなので、富谷市教育委員会を訪問しました。対応して頂いた教育長さんと意見交換をしている中で、防災学習に並々ならない思いを感じながらお話を聴いていたところ、「私も東日本大震災で被災した」とのお話しがありました。とっさに「どちらで被災されたのですか」と伺ったら、何と実家が南三陸町志津川だとのことでした。松原公園に近接した中央公民館の近くだというのです。あそこは、津波をもろに受け跡形もなく流された場所でした。

更にお話しを聞いていると、同級生で今でも親しく交流があるという役場職員の名前が出てきました。その方は、なんと私が南三陸町へ行政ボランティアとして赴いた際に、受け入れてくれた保健福祉課の課長補佐さんでした。夜遅くまで、南三陸町の将来を熱く語っていた方です。富谷市で南三陸町と縁のある方とで出会い、南三陸町で被災者支援事業に一緒に取り組み、苦楽を共にした方に繋がる。何という縁、何という世間の狭さだとうと思いました。

そのようなことがあったので、南三陸町に入って半年ほどたった頃に、東北大学社会学研究室の同窓会に寄稿した文書があったの思い出し、掲載してみました。また、南三陸町に赴いてほどないころの新聞記事があったので、併せて掲載します。これは、大学院に在籍していた頃、東北大学社会学研究室で切り抜いて掲示していたものをだいぶたってから頂いたものです。南三陸町では新聞を見ている余裕はなかったので、記事になっていることを知りませんでした。多くの人は、退職後、音信不通になっていた私をこの記事で知ったといっていました。

トレーラーハウスからの便り

南三陸町福祉アドバイザー 本間照雄

(平成20年大学院博士課程後期3年の課程修了)

公務員生活を終えようとしていた矢先の平成23年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とするM9.0の大地震が発生した。現役最後の日まで職場に泊まり込み震災対応で過ごした。時間が経つにつれ沿岸部に甚大な被害が生じていることを知り、多くの公務員が波にさらわれ行政機能が著しく低下しているとの報道には、じっとしていることが出来なかった。沿岸部市町に経歴を書き込んだ手紙を書いて支援を申し出た。すぐに返事をよこしたのが今いる南三陸町だ。

退職辞令を受けた翌日、単身赴任で借りていたアパートの片付けもしないまま寝袋と1ヶ月分の食料を車に積んで南三陸町に入った。町では、町外集団避難という前例のない避難対策の最中だった。

認知症が疑われる、介護の継続が必須、避難先で要通院等々、飛び交う会話が気になる。気づいたときには、避難先市町にある社会資源や保健福祉関係課と連絡を取り合っていた。以降5月中旬までは一次から三次までの集団避難要援護者リストの作成と避難先市町保健福祉担当課との連絡調整役を担った。

集団避難に一定のめどがついた頃、集団避難した人達が置き去りになっていることに気がついた。さぞかし疎外感にさいなまれていることだろうと、町外二次避難所周りを申し出た。6月1日から県内4市町、県外2県2市に散らばる50カ所1,470人が住む二次避難所を訪問した。

 「町長に協力して町を離れたのに町から誰も来ない」「情報が全くなく孤立している」「支援物資が届かない」等々、堰を切ったように苦情が襲いかかる。めげずに町長のメッセージ、地元に残っている町民の声、町の復旧の様子をビデオで伝えた。帰郷の想いを持ち続けられるようにしたいと思ったからだ。

町内外に建設される2,000戸を超える仮設住宅での生活が気になった。孤独死、自殺、アルコール依存等々、阪神淡路大震災の教訓があるからだ。100名を超える人員を要する被災者生活支援センター設置を提案した。現在では130名を超える職員が60カ所の仮設住宅団地を巡回し、生活相談やコミュニティづくりの支援をしている。

こんなことをしている私は、プレハブの仮設庁舎、テントを経て現在は給排水や電気のないトレーラーハウスを生活の場にし、日本の名水で歯を磨きカップ麺を主食にしている。南三陸町に来てから6ヶ月になり、社会学研究室の机が主の不在を嘆いている。先ほど「今年度いっぱい支援をお願いしたい」と言われた。この生活はもう少し続きそうだ(2011/10発行 社会学研究室「同窓会報」原稿)。

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です