私が小学校に上がる頃にあった実話

皮膚癌の経過観察の為の受診を終えて、東北学院大学での用事まで時間があったので映画「ラーゲリより愛を込めて」を観ました。実話を下にした映画というので観に行きました。辺見じゅん,1992『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』文春文庫.が原作の映画です。この本は、大宅賞、講談社ノンフィクション賞、ダブル受賞に輝いた感動ノンフィクション作品です。「敗戦から12年目に遺族が手にした6通の遺書。ソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に死んだ男のその遺書は、彼を欽慕する仲間達の驚くべき方法により厳しいソ連監視網をかい潜ったものだった。悪名高き強制収容所に屈しなかった男達のしたたかな知性と人間性を発掘した労作」と、紹介されています。

第二次世界大戦終了後、約60万人の日本人がシベリアの強制収容所(ラーゲリ)に不当に抑留された。あまりにも残酷な日々に誰もが絶望する状況下において、ただ一人、生きることへの希望を捨てなかった人物、それが主役の山本幡男(やまもと はたお)です。ラーゲリでの劣悪な環境により栄養失調で死に逝く者や自ら命を絶つ者、さらには日本人抑留者同士の争いも絶えない中、山本は生きることへの希望を強く唱え続け、仲間たちを励まし続けた。自身もラーゲリに身を置き、わずかな食糧で過酷な労働を強いられていたが、仲間想いの行動とその力強い信念で多くの抑留者たちの心に希望の火を灯した。

そんなラーゲリで一筋の希望の光であった山本幡男の壮絶な半生が描かれています。山本は、喉頭癌で余命三ヶ月となり、遺書を書いています。しかしラーゲリでは文字を残すことはスパイ行為とされ、ことごとく没収され、山本の遺書も没収されてしまいました。そのような中で、日本に引き揚げた彼を慕う仲間たちは、驚くべき行動で山本の遺書を妻や子ども達に届けています。戦後のラーゲリで人々が起こした奇跡と言われているそうです。

映画のラスト10分で号泣してしまいました。彼の生き方、そして仲間が遺書を遺族に届ける姿が感動という言葉では言い表せない「よく思いついた」「よくやった」と声を出したくなる衝動に駆られました。

引き揚げ(ひきあげ)とは、1945(昭和20)年の太平洋戦争および日中戦争で日本が敗戦となるまで、日本の植民地や占領地で生活していた日本人が、日本本土に戻されることを指します。終戦時に国外にいた日本人は、約660万人。うち軍人が約350万人、一般人約310万人でした。軍人、一般人の順に引き揚げが行われました(これ、酷くない?)。一般人は、現金1000円とわずかな荷物しか持ち帰ることは許されなかったそうです。引き揚げ船は、浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島・函館・大竹・宇品・田辺・唐津・別府・名古屋・横浜・仙崎・門司・戸畑の18港に入りました。私は、引き揚げ船=「舞鶴」のイメージしかありませんでした。

1945(昭和20)年の終戦を機に始まり、開始から4年で約620万人が帰還しています。無事に国内に入った引揚者には、宿泊所・食事が無料で提供され、故郷へと帰る旅費も一部支給されました。2015(平成27)年に、引き揚げに関する記録「舞鶴への生還1945〜1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が、ユネスコ世界記憶遺産に登録されています。

舞鶴港では、引き揚げ者全体の1割に当たる約66万人が上陸しました。1945(昭和20)年10月、引揚第一船「雲仙丸」に乗った約2100人をはじめに、1947年には旧ソ連からの約20万人を乗せた83隻の船が入港しています。ところが1年余りで、捕虜としてシベリアで抑留されている人々を残し、ソ連からの引揚が中断しています。その後、引揚事業が再開されたときには、舞鶴港だけが引揚港として、引揚者を受け入れています。1958(昭和33)年に入港した引揚船「白山丸」を最後に、引揚事業は完了しています(参考・引用:舞鶴引揚げ記念館https://m-hikiage-museum.jp/)。

この映画のクライマックスは、敗戦から12年目に遺族に遺書を届けるところで、1957(昭和32)年に実際にあった事です。私が、この記事を書いている理由はここにあります。この史実は、私が小学校1年生の時に実際にあった事なのです。私は、小学校1年生の頃にあった事を、65年経った今知りました。こうした事実の下に今があることを。そして、「希望」を持つことの尊さや持ち続ける強靱な精神力の大切さを改めて学んだのです。

東日本大震災でのことも、何十年後かに誰かの心に届くかも知れません。その為にも、きっちりとした記録を残す必要があるのだと改めて感じました。「奇跡のおばちゃん達」やりたいな~・・。スマイルさん脚本宜しく、いくこさんクラウドファンディング宜しく。

舞鶴引揚記念館 (m-hikiage-museum.jp)

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

私が小学校に上がる頃にあった実話” に対して3件のコメントがあります。

  1. L.K より:

    この映画で「舞鶴」という文字が出てきた時に,栗原住民さんが小学生の時に歌っていたという『岸壁の母』が一瞬頭をよぎり,改めてその歌の意味がわかった次第です(今頃~)。

    最後の10分,嗚咽が漏れそうになるくらい私も号泣でした。
    絶望としか言いようのない環境でも『希望』を忘れずに,いつか帰国できると信じて周囲の人を支え,虐待のような仕打ちを受けても道義的精神を貫きました。そんな主人公の遺書を何とかして妻に,家族に届けなくてはと考えた仲間たちも,本当に言葉で言い表すのが難しいくらい,なんて素敵な人たちなんだろうと思いました。

    『日本で落ち合おう』「落ち合いましょう』とシベリアで笑顔で別れ,信頼と愛に包まれ,再会を願い続けた夫と妻でしたね。その約束が果たされず,『嘘つき!』と地面に手を叩きつけながら慟哭した妻だったけど,あの遺書で夫の優しさや仲間の友情を知り,どんなにか救われたことか!無事に届けた彼らの中にも実は大変な悲しみの中にあった人もいました。
    犬のクロも含め,実話なんですよね。

    『「希望」を持つことの尊さや持ち続ける強靱な精神力の大切さを改めて学んだのです。』と先生が書かれていたように,私も希望を持ち続けることの大切さをとても感じました。

    なんとか時間を見つけて,多くのみなさんに見ていただきたい映画です。

  2. 栗原市住民 より:

    おはようございます。
    事実の下に今がある。
    昨日 先生の講義を受けた際も、同じ意味の事を何度も言っていたなぁと 今これを読んで思いました。
    さて、リンクされ紹介されている 真鶴引揚記念館にコロナ前 5年ぐらい前に行ったことがありました。
    数日前に書き込んだように、私は100寺巡礼をしている中で、近くまで来たのだから、 一度是非 舞鶴とは
    どんなところかを見て見たかったんです。
    引き揚げ船か入港する場所だとは、
    子供の頃に知りました。
    なぜにこの歌を私が覚えて歌うようになったきっかけは、わからないのですが、
    小学生の低学年で、
    岸壁の母をしっかり歌っていました。
    今もこの歌詞は、頭に残りすぐにでも歌えるぐらいです。それがあっあのが、一度 舞鶴に足を運びたいと気にしていた場所でした。私の小学生の頃は、戦地から無事に戻ってこられた方がまだ沢山いましたね。
    私の祖父は、ビルマに行き
    生き延びて帰ることが出来ました。
    身近に戦争の事を生で聞ける環境がまだありました。 子どもながらに、岸壁の母の歌詞に、息子の帰りを待つ
    母の思いが感じる歌でした。
    その思いを共感した人が
    歌った岸壁の母。自然の耳に入ってきたのでしょう。
    復元されていますが上陸する桟橋に立ち、あの歌を歌いました。 足を運んで良かったです。 初めて訪れた舞鶴。
    これまで見ることのなかった軍艦の街、
    まわりには、あっちもこっちもセーラー姿の海兵隊さんが普通に歩いていました。
    見慣れない風景に、不安もよぎり、戦争は
    絶対にダメだと。 帰り道 少し気持ちが重くなる中 舞鶴から京都までレンタカーで戻ってきたことを思い出しました。

    おまけ 
    小学生の頃 地区の夏祭りのど自慢大会に
    出場し入賞。ご褒美お菓子をもらいました。 歌った曲は 岸壁の母。
    私の思い出の中の一曲!

  3. スマイル より:

    映画「ラーゲリより愛を込めて」、見に行きたいと思いながらまだ見ることができないでいます。辺見じゅんさんの小説がもとになっているとのこと。辺見さんはこの実話を知って、可能な限り取材し調べ、きっと現地にも足を運び、いつの間にか自分もそこで経験したような錯覚に陥るほどになるまでになってから書かれたのではないかと思います。実話を書くということは、それほどの覚悟がいるものだと思います。
    この映画を観て本間先生が「奇跡のおばちゃんたち」のことを伝えたい、という気持ちに駆られる気持ちはよくわかるような気がします。でも、「スマイルさん脚本をよろしく」というお言葉に「わかりました」とすぐにお答えすることは難しい。書く能力があるかどうか、という前に、その覚悟があるかどうかを問われると思うからです。
    でも、奇跡のおばちゃんたちの、自分たちは特別なことをしたとは全く思っていない、暮らしにとけこむ自然な支え合いを、未来への財産にと残せたら素晴らしいと心から思います。

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