南三陸町被災者生活支援センターの開所(2011年7月19日)

東日本大震災で甚大な被害を受けた南三陸町では、最大避難者数(平成23年3月19日)に、消防団などによる状況把握により、33の避難所に9,753人が確認されました。

今日、7月19日は、この避難者を支える為に設置された「南三陸町被災者生活支援センター」が開所した日です。この機会に、南三陸町の被災者生活支援センターについて書いて見ます。

南三陸町では、2011(平成23)年4月29日に町内初めての応急仮設住宅が入居出来るようになりました。この計画を知った南三陸町行政ボランティアは、4月中旬に阪神淡路大震災時の仮設住宅における孤独死の事実を行政に伝えると共に、地元社会福祉協議会が事業主体となる生活支援員100名で構成する見守り支援員制度の提案を行っています。

生活支援員の必要数は、1986(昭和61)年4月に厚生省・建設省からから出された「高齢者の福祉と住宅に関する研究会中間報告」(シルバーハウジング構想)を下に算出しています。中間報告では、LSA(生活援助員)を10世帯から30世帯に一人配置するとあり、その中間を取って20世帯に一人とし、当時の応急仮設住宅数2,195戸を20で割り100人(109.7人)の生活支援員が必要と提案したのです。

行政に配置されている少ない専門職は目前の業務に忙殺され、介護保険事業者も著しい業務停滞に陥っており、応急仮設住宅に移り住む被災者に対して、個別に見守りを行うことまでは手が回りそうになかった。

また、国が想定している専門職を配置する被災者サポートセンターの仕組みでは、町内外58か所に点在する応急仮設住宅入居者に対応することは難しかった。こうした中で着目したのは、被災者でもある町民と緊急雇用創出事業です。自ら被災しながらも町の復旧復興に何らかの形で役に立ちたいと考えている町民は多くいたのです。何より彼らは生まれ育った地域社会を知り尽くしている。同時に、仕事の場を失った彼らに収入を得る機会を設ける場(Cash for Work)にもなると考えています。

こうした考えをもとに多数の被災町民を雇用し、彼らを被災者支援の第一線に立つ生活支援員に据える、被災者生活支援センターを設計しています。南三陸町は、2011(平成23)年7月19日に、事務系職員及び主任生活支援員候補13人を先行して採用し、支援活動の中心となる社協職員1名を加えた14人体制で被災者生活支援センターを開設し、8月には100名を超える体制を整え、最大時は241名7ヶ所の活動拠点を設けた被災者生活支援センターで支援活動を展開しました。

南三陸町被災者生活支援センターは、最大時241人の三種類の異なる役割を持つ生活支援員で見守り支援事業を行っています。一つ目は巡回型支援員です。応急仮設住宅を全戸訪問し、見守りや相談相手になる生活支援員の基本形態です。南三陸町及び登米市に設置した6か所のサテライトセンターに応急仮設住宅戸数等を勘案して配置しています。二つ目は滞在型支援員です。自らが居住する応急仮設住宅団地内の気になる世帯を朝と夕の二回、杖をつきながら、あるいは二人連れだって訪問します。三つ目はみなし仮設住宅利用者を対象とする訪問型支援員です。みなし仮設住宅利用者は、宮城県内は12市12町、県外は31都道府県に973世帯散らばっていました(最大時:平成24年1月11日現在)。この内県内対象者714世帯については、各住宅を直接訪問して孤立感を深めぬように寄り添い、帰郷の想いを支えています。また、県外居住者については、月一回程度の電話で対応しています。

こうした大人数の生活支援員は、応急仮設住宅の設置状況に合わせ、その人数を退職者不補充等の方法で減じていき、出来るだけ事業者側の都合で退職させる(生首を切る)ことの無いようにし配慮しています。応急仮設住宅自治会の活動の充実に合わせて滞在型支援員を段階的に廃止することも計画的に進められ、新たに必要となった災害公営住宅の生活支援員(LSA)は、生活支援員の中から選ぶことで、応急仮設住宅から災害公営住宅へ移り住んでも円滑な支援の継続が出来るようになされています。

東日本大震災後、国(厚生労働省老健局)は早い段階から積極的に被災県にサポートセンターと福祉施設の仮設設置との設置を働きかけてきました。国の提案は、サポートセンターは、運営を社会福祉法人(老人福祉施設運営法人)にして専門職(介護職)を中心とした支援モデル(新潟県こぶし園)が勧められました。その背景には、介護施設の被災により要援護者の介護環境が壊滅した状況があり、早急に対応が必要でした。この為、介護施設入居者に対しては仮設福祉施設の整備を、在宅要援護者にはデイサービスセンターを併設したサポートセンターの設置を勧めたのです。

この為、これらの事業に対する財源は、被災前から制度化されていた、介護基盤緊急整備等臨時特例基金による「地域支え合い体制づくり事業」を活用し、それを積み増しする形で用意されました。こうした背景から、宮城県では、被災者支援に関わるサポートセンターの整備は長寿社会政策課企画推進班が、介護施設の仮設整備は同課施設支援班が中心となって進めました。

こうしたことから、当初、国及び県が進めたサポートセンターは、要介護者のケアサービスの提供の場の確保がメインで、付属する形で見守り機能を付加するものでした。国は、平成23年4月19日被災県に対して通知「応急仮設住宅地域における高齢者等のサポート拠点等の設置について」(厚労省老健局4課長名)を発出し、被災市町村への働きを要請しています。

高齢者等のサポート拠点に必要な機能としては、①総合相談機能(LSAの配置等)②デイサービス③居宅サービス(居宅介護支援、訪問介護、訪問看護、診療機能等)④配食サービス等の生活支援サービス・ボランティア等の活動拠点⑤高齢者、障がい者や子ども達が集う地域交流スペースが想定されていました。

サポートセンターや福祉仮設は、応急仮設住宅併設型を想定しているため、応急仮設住宅の整備に併せて進めるよう働きかけています。しかし、当時の県住宅課及び市町村建設課は、「応急仮設住宅を整備するので精一杯!」との反応であったと言います。また、運営は社会福祉法人(老人介護施設運営法人)を想定していたが、社会福祉法人は被災によって人財も離散し動ける状況には無く、地元社会福祉協議会は災害ボランティアセンターに忙殺され、見守り支援に対する積極的な動きは見られなかったようです。

基本設計
生活支援員数の変遷

こうした状況下で、いち早く見守り支援活動に動き出したのが岩沼市と南三陸町です。宮城県は、県内で一番早く設置運営(2011(平成23)年7月1日)した岩沼市の事例を取り上げ、他市町村に紹介しました。この為、岩沼市には多くの視察が訪れています。

岩沼市のサポートセンターは、JICA(国際協力機構)から派遣された青年海外協力隊のOB・OGで組織するJOCA(青年海外協力協会:開発途上国の人々のために自分の持つ技術や経験を生かし活動してきた青年海外協力隊の帰国隊員を中心に組織されている内閣府認定の公益社団法人)の会員が中心となって、行政の了解の下、自主的な活動として事業運営をしています。正式な委託契約で事業を行うようになるのは1年後です。

サポートセンター開所時の組織体制は、海外協力隊経験者のJOCA会員2名(コーディネータ1名、助産師・保健師・看護師の有資格者1名)でした。当初は、応急仮設住宅400戸(1,000人)を対象とした見守りのシステムづくり及び孤立化防止の為の訪問を行っています。最大時は、介護職の有資格者を加えて5人体制(全員が県外のJOCA会員)で支援活動を展開しました。

こうした体勢で7月1日から被災者支援が進められた岩沼市に続いて、南三陸町では公費を使った委託事業として進めるために、予算措置や議会の承認などを経て、7月19日に、上記のような圧倒的な人員を要して開設しているのです。

南三陸町では、国の方針には限界があると感じ、徹底したアウトリーチ型の被災者支援センターを設計し、この考え方が宮城県の他の市町村にも広がり一般化しています。

一期生服務の宣誓(2011/07/19)
二期生研修会(2011/07/26)
奇跡のおばちゃんたち(生活支援員)
河北新報(2018/05/29)
この二人の流した涙で今があります

皆様からの感想・ご意見などをお待ちしています。

南三陸町被災者生活支援センターの開所(2011年7月19日)” に対して3件のコメントがあります。

  1. 鈴虫 より:

    東日本大震災の後、町ごと無くなったような私達は国内外から沢山のご支援を頂きながら日常を過ごしました。
    ボランティアの皆さんはいつも温かく、まるでそうすることがあたりまえであるかの様に息の長い関わりを続けて下さいました。
    その様なご支援に甘えながら、私にも町のために何か出来るはずと思うようになりましたが「私はこれを持って支援する側になれます」という武器が何ひとつ無いことに気がつき愕然としたことを覚えています。

    その後、町の求人に採用されて足を踏み入れたのが被災者支援の最前線でした。
    そこでは「生活者の視点」こそが私達の武器だと力説され、自己肯定感の低くなっていた私に勇気と力を与えて頂きました。
    何もかもが1からの学びで、夢中で吸収し、町民一人ひとりの復興のために努めました。

    今ではあの頃を懐かしむと同時に、無駄な学びは何ひとつ無いとの思いで過ごせていることが有難いことです。
    千年に一度の貴重な体験をさせて頂いたことに感謝で一杯ですし、当時の学びが私の宝物となっています。

    今朝から、あの当時を思い出して胸が熱くなっていました。

    1. ハチドリ より:

      『「生活者の視点」こそが私達の武器』、あ~、なんて的を得た武器でしょう。それは、被災者支援ではもっとも大切な視点だったと思いますが、実は普段の行政の仕事でも、保健医療介護の現場でも、とても大切にしたい、していかないとならない視点だと思うんです。

      鈴虫さん、とても貴重な体験をなさったのですね。一生の宝物ですね。

      1. 鈴虫 より:

        ハチドリさんの仰る「『生活者の視点』は普段の行政の仕事でも、保健医療介護の現場でも、とても大切にしたい、していかないとならない視点だと思うんです」というところ、私も全くその通りだと思います。

        どの様な専門職であっても、生活者の視点や感覚が鈍っていては、一人ひとりが「より良く生きること」を目指して寄り添うことは叶わないと思うからです。
        その様な実感から、学ぶことに貪欲でありたいと思うし、普段の暮らしを愉しむことも疎かには出来ないなぁとなるのです。

        あの震災が無かったら、その後の貴重な経験が無かったら、ここでハチドリさんやみなさんと巡り合うことも無かったでしょう。
        このhpを覗いてみなさんの頑張りに触れ、沢山の刺激や心がほぐれる癒しを頂けることが、今の私にとって欠かせない励みとなっているのです。

        いつも本当にありがとうございます!
        今日も張り切っていってきます😄

鈴虫 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です